時間の波に乗れない者へ
おまたせしました
ふらりふらり左右に揺れながら、がくがく指先を震わせながら、ふるふる唇を痙攣させながら、俺はその女性に歩み寄る。
「嘘……だ……」
目をつむってでも思い出せる顔、産まれてから今日まで飽きるほど見て来た顔、つい今朝にくだらない話題をしていた顔。
悪いことをした時は何度も叱ってくれた顔、凹んだ時は何度も慰めてくれた顔、恋愛ドラマを見た時は必要以上に泣いていた顔……
そして何度も俺に笑顔をくれた顔。その顔の持ち主が今、焦げ臭い硝煙の中でぐったりと目を閉じている。
「いっ、嫌だっ! お母さんっ! 目を! 目を開けてよ!」
俺はタクシーの窓越しにひたすら母親を揺すった。割れたガラスが深々と腕の肉に食い込もうが、煙が鼻の奥を貫こうが、構わず俺は揺すり続ける。
しかしそれも虚しく、母親は全く目を覚まさない。いくら俺が大声で叫ぼうとも、首がとれる勢いで揺すっても。
次第に俺の目頭はじわぁっと引火し、眼球からはドロドロと熱湯が吹き出す。俺の視界はみるみる崩れ、もはや今何が見えているのか分からなくなるほどだった。
「……ぁ」
ふと視線を落とせば、お母さんの股の辺りが濡れている。煙の匂いにかき消されつつあるが、ほんのりと乳臭い匂いも同時に感じられる。
瞬間、俺は理解してしまった。
テストはカンニングに頼り切り授業などほとんど真面目に聞いていなかった俺だが、少しだけまともに受けたものもあるのだ。
その中の1つに『保健体育』の授業がある。それは人間の胎児に関するものだ。
胎児は子宮の中で育つ。しかし安全に育つには母体の健康が必要不可欠なわけだ。母体が死ねば、もちろん腹の中の胎児だって……無事では済まない。
俺の体を氷が滑り、一気に体温を奪って行く。思考は停止し、言葉など何も浮かばない。すると脳は体を操れなくなるので、手足についている操るための糸は自然と切れる。
ペタ…
もはや俺にはその場にヘタレ込んだことさえも感じられなかった。
「その場から離れなさい…!」
「爆発の恐れがありますので、下がって下がって…」
「被害者の救助を…!」
そんな声がしただろうか、何も出来ない俺は警官の手によってなすがままにされていた。時間は次第に俺の脳内にポツポツと言葉を浮かばさせてくれたが、それは俺に『最悪』しか呼ばなかった。
死んだ、母さんは死んだ、乗用車とタクシーに挟まれて死んだ。
そして、俺も死んだ。ドロドロと出ていたのはきっと羊水、授業で習った『破水』というやつだ。きっと助からないと直感的に分かってしまった。医療とか全く詳しくない俺でも助かるのは絶望的だと分かるくらい、それは凄惨なものだったから。
とんでもないことをしてしまった、と後悔の嵐が押し寄せた。名前しか知らないどこぞの誰かを助けたから、くだらない正義感に駆られたから、気軽な気持ちで過去に来てしまったから、俺の母さんと腹の中の胎児は死んだ。
もう、元には戻らない。
ポロッ…
「……っ!」
絶望の最中、突然耳に激痛が走る。何かに思いっきり皮膚を剥がされたかのような、皮膚の下が露わになって風にさらされるような。その痛む箇所に俺はすかさず手を当てる。
ボロォッ!!
「うぁぁっぐっ!!」
すると今度は指先に、同じような激痛がビリィッと走った。思わず手を引っ込め、その場にグゥッとうずくまり、ガギィッと歯を食いしばってその痛みに耐えようとする。
ボクッ!! ゴギャッ!! バギッ!!
「ゔぁぁつ!」
さらなる激痛。今度は歯が、食いしばった歯がお互いのを砕け合ったのだ。あまりの痛みに口を開けると、その破片は俺の口からぼろりぼろりとこぼれ落ちる。
いったい何故、突然こんな痛みが。
歯を食いしばれ無い俺の頭をそんな疑問がよぎる。
その答えは悩む間も無く、目の前に転がっていた。
シュ……
「……っぅぁ!!」
口からこぼれ落ちた歯の破片は風に吹かれてサラサラと粒子になっては消えていく。それが何を意味するか、俺は直感的に理解した。
消えるのだ。
過去の自分が死ねば、俺は今いないことになるから。
「……ぃゃっ!!」
消えるなんて、そんなの嫌だ。俺はまだまだ生きていたい。やりたいことだっていくらでもある。
酒を飲んでみたかった。
贅沢な買い物をしてみたかった。
もうすぐ出る漫画の新刊を読みたかった。
好きな恋愛ドラマを見てみたかった。
話題の映画を見に行きたかった。
友達とくだらない会話がもっとしたかった。
18禁のコーナーに入ってみたかった。
ネットの友達というのを作ってみたかった。
前から気になっていたビデオを借りたかった。
もっと人生を楽しみたかった。
だがその思いは虚しく消えていく。風にさらされて、消えていく痛みを味わいながら。
ボロボロと涙が溢れ出す。全身を覆い尽くす痛み以上に、虚しさが残った俺の心を突き刺していくから。
嫌だ、嫌だ、消えたくない、俺は、俺は、こんなところで死にたくない、止まって、止まって止まって止まって止まって止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ……
……
辺りが静まり返る。あれだけ騒いでいた野次馬が、それを鎮めようとする警官たちが、もうもうと立ち込めていた煙が、ピタリとその動きを止めた。
(止まった……?)
世界中の時間が止まった。これで俺も止まっ……
ボロォッ!!
ドシャァッ
(えっ……)
静寂を破って、『右腕』が落ちた。風が止まっているからすぐには消えてしまわないが。
「な……んで…」
そう呟いた次の瞬間、
ボドッ!!
ドスォッ
今度は左腕が崩れた。すかさず襲う激痛。それも両腕という大きな器官を失うという激痛。さらに歯もほとんど崩れたから満足に耐えることすら叶わない。
「あああああああああああああああっ!!」
痛みを前に俺はただ叫ぶしか無い。喉が張り裂けんばかりに、ただひたすらに叫ぶしか。
しかしそれさえも現実は許さない。
「ーーーーッ!!」
叫べば叫ぶほど喉を震わせるから、その分崩れ落ちやすくなる。突然喉が発火したかと思えば、口からベロンと膜のようなものが飛び出した。それが声帯だと分かった時にはもう、叫ぶことすらままならなくなった。
ぼろぼろと体が崩れては、塵になって消えていく。風など吹かないから、じわじわと炎の中で焼かれているように消えるのだ。
なぜなら、この止まった時間の中で動けるのは自分だけなのだから。
全身を包む痛みは、俺に時間を再始動させることさえ許さない。
だから俺の消滅に気づく者は何もいない。大勢の野次馬も、それを取り締まる警官たちも、風も、大地も、植物も、みんなみんな止まっている。
(嫌……だれ…か……助け……)
声など出るはずもないのに、出たとしても誰も気づいちゃくれないのに、助け舟など出ないのに、俺は止まった人たちに向かってそう言った。
ゴトッ…
ついに顎も落ちた。それに目をやれば、同時に脚の大部分も無いことも知った。激痛の波は留まるところを知らず、半壊した体に容赦なく押し寄せる。
もはや俺の体に動く場所など無く、倒れて全て崩壊させることすら出来ない。どうあがいても全てが無意味となる。ただただこうして何も出来ず、全身に痛みを味わいながら消滅を待つ。
(どうして、なんで、なんでこうなるんだ…)
頭の一部がズルリと落ちた。
(お……俺は……ただ……)
顔の3分の1と、肩甲骨の半分が崩れた。
(ただ……幸せになりたかった……だけなのに……)
右目と脳の大部分が塵になった。
ーーーーーーっ!!
地面に落ちた涙が乾いて消えた。
ー刻月 武陽 16歳、『完全消滅』ー
次回の投稿もお楽しみに