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おまたせしました
『時間よ、止まれ』
この呪文を唱えれば、辺りの音は静まり返る。それはそれはまさに音無で、教室でどんなに五月蝿い奴らでもピタリと大人しくなる。
それから少し耳をすませば、トットッと自分の鼓動だけが骨を介して聞こえて来る。ふんふと小さな呼吸の音さえも。
その沈黙の世界にただ1人、『刻月 武陽』という男がいる。何もかもが止まった世界の中、唯一動ける存在が。
今日は5秒時を止めた。もちろん周りの人間はそんなことも知らないし、知る方法もない。当然だ。
この能力に気づいたのは小学校1年生だったか、2年生だったか、少なくともそのどっちかだ。
夕食の時間、俺はもふもふと口の中に食べ物を頬張っていた。スプーンの中にご飯を入れては、まだ入っている口の中にがふかふと詰め込んでいく。
そうしている際、ものの弾みでドンッと腕に牛乳の入ったコップが当たった。
その瞬間、俺の視線は反射的にコップの行く末を捉えた。このまま地面に落ちたらガシャンと音を立てて、粉々に割れてしまう。前に保育園の給食の時、隣の隣の隣の子が皿を落として割ってしまったように。
(…てっ…!)
瞬間、俺は心の中で叫んでいた。待って、止まって、落ちないで、のどれだったかは覚えていないが、とにかく何を叫んだのは確かだ。だが俺の声は虚しく、そのままコップは地面に……
……
(……? れ?)
音がしない。それどころかコップがピタリと宙に浮いて、というより固定されている。中に入っている牛乳もピシャリと水撒きのような形をしながら止まっている。俺は目を丸くしながらその現象を眺めていた。
ピチュッ
「うわっ」
試しにツンと牛乳をつつくと自分の指にてゅるんと絡みつくから、丸くなっていた目がさらに真円に近づく。しかし指についた牛乳を舐めてみると、特に何も変わらない、ただの牛乳だった。俺は残った中身を戻しつつそっとコップを机の上に置く。
すると丸でなくなっていく目に真っ先に飛び込んで来たのは、何もかもが止まった世界だった。話していたママも、点いていたテレビも、風になびいていた洗濯物も、扇風機に揺れていた植物たちも、黙ってピタリと止まっていた。
「えっ、ママッ? なんで止まって…?」
俺は不安になって2人の側に駆け寄り、ゆさゆさ揺さぶろうと手をかけようとしたその時。
……
「…あれっ? 時計が…」
ママがよく五月蝿いと文句を言っていた時計の針が、『6:23』で止まっているのだ。ひょっとして電池切れだろうか、と俺はそれを手に取り、
「動けっ」
と軽く振ってみた。すると、
チッ…チッ…チッ…
「あっ、動いた」
また時計の針が音を立てて動き出した。ただの故障だろうと俺は時計を机の上に戻すと、頭の上からママの声が聞こえて来た。
「どうしたのたけちゃん」
「いや、この時計が止まっていたからさ」
俺は置いた時計を指差しながらそう答える。するとママは不思議そうな顔をしながら時計を見つめ、
「えっ…止まったかしら」
と呟いた。
「えっ」
ママの言葉はまるでおもちゃのボルトをグルグルと閉めるように俺の胸に突き刺さった。親と食い違う意見に俺は少し不安になり、詰め込んでいた口の中の補充を忘れてしまった。
そしてその晩、俺の胸の中はもやもやと霧がかかり一向に晴れることはなかった。
もう一度、『待って』を試すまでは。
「……止まれ」
そう呟く。時計片手にギュウッと体に力を込め、絵本の魔女が言うように、呪文の言葉を使うように。
……
「止まった……」
ママが止まった、テレビが止まった、洗濯物が止まった、植物が止まった。
時間が止まった。
それから俺は面白半分で『止める』ようになった。ある時は友達にちょっと足をかけて転ばしたり、ある時はていっと頭にチョップをしてみたり、とにかくしょうもないイタズラをするために。
ただ1番使ったのはテストや授業のカンニングだ。
そんなことを繰り返しているうち、俺は見かけだけの成績優秀を築き上げていた。なにせ誰にもバレないカンニングが出来るのだから。
そして高校生になる頃には、俺は超優秀生徒と化していた。スポーツと技術科目さえ除けば俺のテストに敵は無かった。もちろん100点だと怪しまれるから、2、3問はわざと外して万事オッケー。
まさに俺の青春は輝いていた。この時間を止める力があればなんだってやれる。なんでも出来る。それは口だけとかではなく、確信あってのことだった。
そんな日々が続いたある日のこと、夏休みに部屋の整理をしていた時のことだった。ホコリ被って出て来たのは、小学生の社会科見学で新聞社に行った時のお土産だった。これは学校側が予めに連絡をしてくれていて、見学の最後に自分が生まれた時の新聞記事を会社が刷ってくれたものだ。
「うわぁ、懐かしぃ!」
俺はパッパッとホコリを払うと、その記事に目を通した。一面には当時の政府の問題やら、工場設備がどうたらこうたらあった。何だかんだ読んでいると、ある記事が目に飛び込んで来た。
それは『交通事故により、男性1名死亡、運転手1名が重症』という記事だった。
「ふ〜ん、こんなことあったんだ…」
記事を読むに地面は雨上がりでスリップしやすくなっていたらしく、それでハンドルが取られて起きた事故のようだ。
(もしも…俺が現場にいたら…)
何て記事を読んだいると、ついついそんなことを考えてしまう。もし俺が過去に戻って、巻き込まれそうになった人を助けられたら。もし俺がこの事件を止めることが出来たなら。
なんて考えながら俺はそっと自分の手に目を落とす。今まで何度も時間を止めて来た。だがもしこの能力が『時間を止める』だけで無かったら、俺の知らない能力があるとするならば。
やってみる価値はある。
そう思うが早いか、俺はその記事にもう一度目を落とす。事故の日付は俺の誕生日の前日『6月12日』、時刻は『午前9:38』で、場所は『常苑交差点』だ。
(よし……)
俺はそっと目を閉じ、体にギュウッと力を入れる。時間を止めるあの感覚を思い出しながら、ひたすら戻れ戻れと思い続ける。
すると、
グナンッ
と頭の中を力任せにかき混ぜられるような感覚に襲われる。思わず眉間を寄せながら、その感覚に必死に耐える。こんな気持ち悪さは時間を止める時には無く、まるで体全身を大量の片栗粉でトロミのついた水が這っていくかのようだ。
そしてその感覚が頭のてっぺんからデュルルッと抜けると同時に、俺はその場にへたり込む。
「ハァッ…ハァッ…」
未だに気色悪い頭を抑えつつ、俺はキョロキョロと辺りを見回す。そこは交差点近くの歩道で、俺は道の端にいるようだ。
慌てて持って来た新聞記事の写真と辺りの風景を確認すると、そこはたしかに事故の起きた『常苑交差点』だった。念のため近くのコンビニに入り、置いてある新聞を確認する。
(戻っ…た?)
新聞の日付は6月12日。年も16年前のだ。
間違いない。俺は過去に来た。しかも時間だけで無く、空間までも超えて。いったい何故空間まで超えられたのかは分からないが、今はそんなことを考えている暇はない。
コンビニの時計に目をやると、時刻は9時半。
事件発生まであと8分しかないではないか。
俺は慌てて新聞を置き、コンビニからドタドタと飛び出す。そしてその足で事件現場まで走ると、スリップしそうな車を探した。しかし道路をビュンビュン飛ばす車は、焦る俺を笑うように通り過ぎて行く。
どの車だ。一応事件を起こした車は白の乗用車だが、そんな車はいくらでも目に飛び込んで来る。
(いったいどれが…どの人に……)
そういえば俺は被害者の名前しか知らず、どんな服装でどれだけの背丈なのか、そんなことは全く知らなかった。
やばい、と思ったその瞬間、
ギャイアアアアアッ!
辺りの空気を俺の頭の中ごと切り裂く音が響き渡る。その音の方を反射的に振り向くと、俺に向かってまっすぐ車が突っ込んで来る。
ドンッ
俺は反射的に近くにいた人を、横に飛びながら突き飛ばす。
ギギギギギギキキキギギッ!
車は俺の真横をガギガギと引っかかりながら滑って行き……
ドォンッ!
と別の何かに当たってようやく止まった。
もうもうと辺りには煙が立ち込め、パラパラと破片が降り注ぐ。俺はそろそろと起き上がると、近くには見知らぬ男性が倒れていた。
慌てて駆け寄って、大丈夫ですかっと聞くとうんうんうめき声を上げている。もしや打ち所が悪かったのかも、と俺は不安になるがその男性は、いてててて…と言いながらゆっくりと立ち上がる。
どうやら俺は無事に事件の被害者を救えたようだ。俺はホッと胸を撫で下ろすと、チラリと乗用車の方に目をやった。自分が助けたことにより、過去が変わったから乗用車の進路も変わったようだ。
「……えっ」
乗用車はタクシーの後部座席にぶつかった後、その弾みで反対車線まで行き押し潰したようだ。タクシーは後部座席がグシャリと潰れ、そこから1人の腹の大きな女性がぐったりとはみ出していた。
その光景に全身がわなわなと震え出す。なのに足はまっすぐその女性へと向かって行く。
近づくたびに、その女性の顔が分かるたびに、俺の頭の中は不安の波が押し寄せた。
そしてついにその不安は、確信へと変わった。
「母ぁ……さん?」
次回の投稿もお楽しみに




