十章 金色の羽根
私達は周囲が無人なのを確認しつつ、鏡の道を逆に歩く。家の裏の林道まで戻って来た所で、彼女の様子を伺う。まだ興奮冷めやらぬようで、やや荒い息で物体をキツく抱き締めている。
「ねえ」私は生唾を飲み込み、意を決して口を開いた。「さっき言っていた彼女って……?」
「関係無い」
「でも」
「五月蝿い!!」
少女は差し出した私の手を力一杯払い除けた。痛い……肉体以上に、精神が。
激怒の表情、なのに瞳には深過ぎる悲哀が映り込む。嗚呼……これがこの子の本当の顔なんだ。無表情の奥で必死に隠していた、心。
一歩退く白いパンプス。分かる、彼女は私を見ていない。記憶した忌まわしい過去を、逃れられない場所を、凝視してもがき苦しんでいる。
「落ち着いて!ここはエレミアじゃないわ、安全なのよ!」
まるで手負いの獣だ。駄目、全然聞こえてないみたい。どうしたら……。
パカッ……シューッ………。
突然黒い物体に切れ込みが入り、内部から静かに白い水蒸気が溢れ出した。あれ、冷たい……ドライアイス?
「っ!!!?どうして……さっきの衝撃でロックが外れたの……!?」
少女の動揺は最高潮に達し、強引に開いた蓋を閉めようとした。ところが、
―――……ふんにゃー……ふんにゃぁ……!
中央病院の産婦人科、そして小児科でよく聞く音がした。
絶叫。少女は口を大きく開けたまま、怯えつつ中を覗き込んだ。私もつられて視線を動かす。
――……ふんにゃぁ!
次の瞬間、少女が何故あれ程頑なにこの物体を手放さなかったのか、その理由を悟った。
赤ん坊は無機質な揺り籠の中、裸で身動ぎした。まんまるの頭は明るい茶髪の初毛に覆われ、赤っぽい金目がこちらを見つめ返し、笑む。無邪気で可愛らしく。
「あ、あ……!!」
恐慌状態の彼女の肩を掴み、私は強制的に家へ歩かせる。移動の間、赤ちゃんは蓋の裏を小さな手で押したり、脚をぱたぱた動かしていた。
裏口の鍵を開け、リビングの照明を点けた。時刻は深夜十二時を回った所だ。
まずはソファに彼女を座らせる。赤ちゃんのせいで蓋はもうほぼ全開。真上のライトを不思議そうに見つめた後、不意に泣き出した。
「!!!?」
少女は恐る恐る揺り籠に腕を入れ、赤ちゃんを抱く。まだ首も座っていない新生児だ。慌てて頭の後ろを片手で支えるよう助言した。
「え、ええ……こう?」不安そうに確認を求められ、首肯する。「何故泣くの……?お願い、止めて……責めているの、私を……?」
啜り泣きながら、キスしそうな程顔を近付ける。
「ねえ。その子、もしかしてお腹空いてるんじゃない?」
「何ですって……?」
零した涙をハンカチで拭いてあげながら、言葉を続ける。
「病院の先生が言ってたの。赤ちゃんが泣く理由は、九割以上おしめかおっぱいだって」そして揺り籠の内部に濡れた形跡は無い。
「確かに、彼女の胃の中は空です」
「決まり。じゃあ早速作って飲ませなきゃ」
書棚の医学書を開き新生児科の欄、代用粉ミルクの作り方を開く。コーヒー用のミルクパウダーと砂糖とお湯、これならすぐ用意出来そうだ。
早速薬缶でお湯を沸かし、計量カップで分量通りに作る。ええと、哺乳瓶ってまだ取ってあるのかな?
「はい」
「何処に持ってたの?」尋ねつつ真新しい瓶にミルクを注ぐ。「温度は人肌程度……ちょっと待ってて。冷ますから」ボウルに水を張り、丁度良くなるまで浸ける。「これぐらいかな」水滴を拭き取り、待ちかねた赤ちゃんの唇に吸い口を当てる。
ちゅうちゅうちゅう……。
「持っててあげて」
「?」
「あなたの方が懐いてるから」
哺乳瓶を受け取った彼女は、困惑したまま手首から先を硬直させる。けれど、そんな様子を赤ちゃんは微笑んで見つめたまま、一層強く吸引した。
「ほらね。美味しそうに飲んでるでしょ?」
少女は首を横に振り、混乱を表すばかりだった。
にしても本当に可愛い子。死んだ両親も、こんなに小さな私を毎日抱き締めてくれていたんだ……。
「この子、女の子ね」裸を見れば一目瞭然。この子も『彼女』って言ってたし。
「ええ」
「ほっぺ、触っても良い?」
「構わないわ」
ぷにぷに。あ、指掴んできた。結構人懐っこい子なんだ。
銃を工作室に仕舞ってくると、少女はややぎこちない笑顔で赤ちゃんと向かい合っていた――歌うように呼び掛けながら。
「良い名前ね。誰からも好かれそう」
「エレミアの言葉で『朝日』と言う意味よ……その名の通り、彼女はいつも周りを明るく照らしていた……」
空の哺乳瓶を受け取り、キッチンで洗って再び戻る。
赤ちゃんはお腹が膨れて御機嫌な様子。私達の顔を見てキャッキャッと笑う。二人で交互にあやし、疲れて眠るのを待った。
―――……たぁれん。
「ええ、ここにいるわ」
半時間後。瞼が重いのか、段々目を瞑っている時間の方が多くなってきた。
赤ちゃんの小さな手を包み込みながら、彼女は――天使のような極上の微笑みを浮かべる。
「ずっと傍にいるわ。だから今は眠りなさい。ここも……あなたにとって安全ではないのだから……」
テロリストがいる、と言うニュアンスではない。彼等は今頃御用になっているはずだ。でなければ―――まさか、以前林で起こったLWP殺人事件?この子、何か知っている?
―――………ぁれん……。
柔らかい唇をもごもご動かし、赤ちゃんは幸せそうな顔で眠りに落ちた。しばらくその様子を眺めた後、少女は小さな身体を再び揺り籠へ納める。
「またコールドスリープさせるの?」この宇宙ではまだ理論に過ぎない技術を口にする。そうとしか考えられなかった。
「当然です」
「安全な場所を見つけるまで?」
「ええ」
「エレミア人殺しのせい?もしかして犯人を」
「――それもあります。充分気を付けて。相手は……どうやらあなたも監視下に置きつつある」
「え?エレミア人でない私を、何故?」
「さあ、人間の思考は私にとって常に理解不能です」
少女が手を翳すと、壊れたと思われる部分が淡く光った。そのまま内部のスイッチを入れ、自動で蓋が閉まる。次に彼女が目覚めるのは……きっとずっと先の未来。
「ねえ、そんなの悲し過ぎるよ。――一緒に暮らさない?あなた達はお姉ちゃんと私で守るから」
予想通りの返答に、しかし私は食い下がる。
「いつも私みたいな善意の救助者がいるとは限らないよ。敢えて危険を冒す必要は……それとも、他にも何か理由があるの?」
「仮にあったとしても、私が取る行動に違いは無い」
「止めても無駄……なのね」
初めてソファから起きた時と同じ無表情。しかし、不意にそれが緩んだ。
「さよなら、リサ・タイナー。――それと、ありがとう」
数日共に過ごさなければ決して分からなかったであろう微笑を浮かべ、彼女は礼を言った。
「私の両眼は万物の真理を見抜く叡智。初めて接触した時、あなたは心臓が異常だと話していたけれど、心配は杞憂です。あなたは正常で、しかも」口の端をほんの僅かに上げる。「とても有能な女性です」
まさか彼女の口から褒め言葉が出てくるとは思わなかった。
「本当?」
「システムに虚飾は出来ないわ。……あなたが救助者で良かった」
音も無く玄関ドアが開き、少女が外界へ。もう一切の説得は無駄だった。
「私も、あなたに会えて良かった。さよなら――元気でね」
月光に照らされた少女が振り返り、長い艶やかな前髪が風に揺らされた。……綺麗、まるで絵本の中の妖精。
「今度からは樹の上じゃなくて、ちゃんと小夜風の当たらない所で寝るのよ?」
「?何ですかそれは?」
「夜風の事。体調崩して動けなくならないようにね、――一人じゃないんだし」
助言に綻ぶ頬。
「ええ。では」
歩き出す小さな背の左側に、不意に浮かび上がった金色の片翼がキラキラ輝く。夢みたいな幻想的光景……エリヤ様がリトルエンジュと呼んだのはこの事だったんだ。
「またね!」
幼き天使に、私は何時までも手を振り続けた。




