第三十五話
アルケアが消えた後も、俺はその場から動くことができなかった。
腕の中には、もう誰もいない。
残っているのは、ほんの僅かな温もりだけだった。
「......アルケアさん」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
風だけが静かに吹き抜け、白く輝く花々を優しく揺らしていた。
「ミナト......」
レオニスがゆっくりと俺の肩へ手を置く。
「彼女は知っていたのだろう」
「世界を守る力を世界へ返せば、自分の命が尽きることを」
胸が締め付けられる。
だから、あの時ーー。
『その言葉だけで、十分です』
あの言葉を口にしたのか。
最初から、自分の結末を知っていた。
それでも何一つ口にしなかった。
俺は拳を強く握り締める。
「どうして......」
レオニスは静かに目を閉じた。
「お前を迷わせたくなかったのだろう」
その言葉に、何も返すことができなかった。
翔も悔しそうに唇を噛み締めている。
静寂だけが、その場を包んだ。
その時だった。
ふわりーー。
一枚の白い花びらが風に乗って舞い上がる。
花びらは誰かに導かれるように空へ昇ると、そのまま森の奥へ流れていった。
「......あれ」
翔が指をさす。
俺たちが視線を向けると、森の奥に光り輝く渦が現れていた。
「......入口」
思わず呟く。
そうか。
俺は身体ごとこちらの世界へ来ていた。
だから、今までのように眠るだけでは帰れない。
俺たちはゆっくりと入口へ近付いた。
不思議と確信していた。
この光の中へ入れば、俺は元の世界へ戻れる。
「えっ......じゃあ、ミナトとはもう......」
翔が寂しそうに呟く。
俺は小さく笑った。
「翔......色々とありがとう」
「湊のこと、よろしく頼む」
翔は涙を堪えるように笑う。
「......おうよ。任せとけ」
俺はレオニスを見る。
「父さんを返す方法、必ず見つける」
レオニスは静かに頷いた。
「ああ。また向こうで会おう」
俺は一度だけ二人へ頷くと、迷うことなく光の中へ足を踏み入れた。
眩い光が全身を包み込む。
――――――――――
「......っ」
ゆっくりと目を開く。
「ここは......」
辺り一面に咲き誇るルミナ草。
すぐにここがどこか分かった。
「ルミナ山......」
アルカイアが俺へ見せてくれた”始まりの地”。
間違いない。
その時、一枚の白い花びらが目の前を横切った。
どうやら一緒にこちらへ来たらしい。
花びらは風に乗り、山の奥へ向かって飛んでいく。
俺はその後を追って走り出した。
――――――――――
しばらく進むと、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟が現れた。
「こんな所に......」
俺は警戒しながら中へ入る。
暗闇に目が慣れた、その時だった。
「......っ!」
思わず息を呑む。
壁一面に、人が埋め込まれていた。
歪みにさらわれた人々。
その身体は石へと変わり始めている。
ほとんどが肩や腕、足先まで石化していた。
言葉を失い、辺りを見回していると、奥からガラリと何かが崩れる音が聞こえた。
慌てて駆け寄る。
「えっ......」
一人の石像が音を立てて崩れ始める。
身体は砂のように崩れ、やがて灰となって消えていった。
向こうで命が尽きたのだ。
アルケアが消えた時と同じだった。
俺はその光景を見て、すぐに理解した。
ここにいる人たちは、向こうの世界で命を落とせば、この身体も消えてしまう。
早く助けなければ。
俺は奥へ向かって走った。
――――――――――
「父さん!」
壁に埋め込まれた一人の男性。
レオニスの身体だった。
石化は胸元まで進んでいる。
『――俺は、神崎恒一として生き始めている』
『俺が本当に消えるのも、時間の問題かもしれん』
以前、レオニスが口にした言葉が脳裏をよぎる。
命が尽きるだけじゃない。
記憶が完全に融合してしまえば、本当にレオニスという存在は消えてしまうのかもしれない。
「急がないと......」
俺は奥へ向かって走り続けた。
――――――――――
しばらく進むと、洞窟の最深部に巨大な黒い靄が見えてきた。
「歪み......」
ただの歪みじゃない。
今まで見たどの歪みよりも巨大で、禍々しい。
空間そのものが歪んで見える。
ここが、すべての始まり。
歪みの発生源なのだろう。
この場所で俺がアルカイアと同じように眠れば、歪みを塞ぎ続けることができる。
でも、その前に。
向こうへ意識が渡っている人たちを連れ戻さなければならない。
「どうすれば......」
その時だった。
白い花びらが再び俺の前を舞う。
そして迷うことなく、巨大な歪みの中へ吸い込まれていった。
まるで俺を導くように。
俺は深く息を吸う。
そして覚悟を決めると、花びらを追って歪みの中へ飛び込んだ。
そこには、果てしない闇だけが広がっていた。




