第三十三話
震える声が静かな空間に響く。
彼女はゆっくりと自分の両手を見つめた。
その瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「思い出した......」
俺は黙って彼女を見つめていた。
驚きはなかった。
スーの日記を見た時から、一つの考えが頭から離れなかった。
見た目と中身が違う。
もし、それが本当ならーー。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「ミナトさん......」
その声は今までとは違って聞こえた。
どこか優しく、どこか悲しげだった。
「あなたは......気付いていたのね」
俺は小さく頷く。
「確信はありませんでした。でもスーの日記を見てから、ずっと考えていました」
「見た目はアルケアなのに、中身は別人だった」
「だったら.......」
俺は真っ直ぐ彼女を見つめる。
「あなたは、本当にアルスさんなんですか?」
しばらく沈黙が流れる。
やがて彼女は、小さく首を振った。
「違う......」
その一言だけで、胸が締め付けられた。
「私は、アルスじゃない」
彼女は自分の胸へ手を当てる。
「私は......アルケア」
静かな空間に、その言葉だけが響いた。
やはりそうだった。
俺は大きく息を吐く。
「じゃあ、今まで俺が話していた相手は.......」
「ええ」
アルケアは苦しそうに頷く。
「この身体はアルスのもの。でも、中にいるのは私」
「一年前から、ずっと」
俺は言葉を失った。
あまりにも残酷な真実だった。
アルケアは静かに目を閉じる。
「一万年前......」
その声と共に、景色がゆっくりと霞んでいく。
まるで、アルケアの記憶を俺も見ているようだった。
――――――――――
世界が二つに分かれてから数年。
私は新しく生まれた世界で、歪みを抑えながら暮らしていた。
忙しい毎日だった。
それでも、夜になると眠りにつく。
その夢の中だけは、昔と変わらなかった。
「姉さん!」
そこにはアルスがいた。
「今日も元気そうね」
私は笑う。
アルスも嬉しそうに笑い返してくれる。
夢の中だけは、世界が分かれても二人で会うことができた。
毎日のように。
他愛もない話をして。
昔みたいに笑い合った。
私は、それがずっと続くものだと思っていた。
――――――――――
「ねぇ、姉さん」
ある日、アルスが少し照れくさそうに笑った。
「一日だけ」
「身体を入れ替わってみない?」
私は首を傾げた。
「入れ替わる?」
「そう」
アルスは楽しそうに頷く。
「姉さんは毎日世界を守る仕事で大変でしょ?」
「たまにはゆっくり休んでほしいの」
「私は姉さんの世界を見てみたい」
「一日だけなら、大丈夫だよ」
私は少し迷った。
でも。
相手はアルスだった。
双子の妹。
私が誰よりも信じていた家族。
疑う理由なんて、一つもなかった。
「分かった」
そう答えた時。
アルスは、とても嬉しそうに笑った。
――――――――――
夢の中で意識を重ねる。
身体から何かが引き抜かれるような感覚。
次の瞬間。
私は見覚えのある部屋に立っていた。
「ここは......」
アルスの部屋。
ちゃんと入れ替わったんだ。
でも、何か違う。
そう思った。
その時だった。
ゴゴゴゴ......
地面が揺れる。
振り返ると、部屋の壁は消え巨大な石が現れていた。
「アルス?」
返事はない。
石はゆっくりと動き始める。
「待って!」
慌てて走る。
でも間に合わない。
巨大な石が目の前を塞いだ。
私は閉じ込められた。
「アルス!」
何度も叫ぶ。
返事はない。
夢の中へ意識を飛ばそうとする。
何度も。
何度も。
でも、届かない。
「どうして......」
その時だった。
石の向こうから、アルスの笑い声が聞こえた。
「ごめんね、姉さん」
「やっぱり私......姉さんになりたかった」
「大丈夫、安心して。そこに姉さんがいる限り、地球は安全だから」
その言葉を聞いた瞬間、私はすべてを理解した。
これは、一日だけなんかじゃない。
最初から。
騙されていたんだ。
――――――――――
私は毎日、脱出する方法を探した。
石を壊そうとした。
魔法も試した。
夢の中へ意識を飛ばそうとした。
でも。
何一つできなかった。
時間だけが過ぎていく。
「どうして......どうしてなの、アルス......」
悲しかった。
苦しかった。
寂しかった。
助けてほしかった。
でも。
誰も来ない。
その想いは、少しずつ形を変えていった。
悲しみは憎しみへ。
憎しみは闇へ。
私の心から溢れた黒い感情は、
やがて一つの影となって私の周りを彷徨い始めた。
最初は怖かった。
でも、その影は私から離れなかった。
まるで私自身だった。
そして長い年月の中で。
アルスの記憶が、少しずつ私の中へ流れ込んできた。
どこまでが私で、どこまでがアルスなのか。
分からなくなっていく。
やがて私はーー
自分がアルスだと、本気で信じるようになっていた。
――――――――――
景色がゆっくりと消えていく。
気が付くと、俺たちは再び白い空間に立っていた。
アルケアはその場に膝をついたまま、小さく肩を震わせている。
「アルケアさん.......」
俺が声を掛けると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、涙が止めどなく溢れていた。
「私......全部思い出した」
「自分の身体を取り戻したい一心で......」
「何も知らない人たちを巻き込んで......」
「私は......取り返しのつかないことを......」
彼女は自分を責めるように拳を握りしめる。
俺は静かに首を横に振った。
「それは違います。あなたは閉じ込められていた」
「全部、アルスが......」
「違う!」
アルケアは叫んだ。
「それでも......どんな理由があっても、私はたくさんの人を傷付けた!」
しばらく沈黙が流れる。
やがてアルケアは涙を拭い、真っ直ぐ俺を見た。
「ミナトさん」
「お願いします。この石を壊してください」
俺は迷うことなく頷いた。
アルケアは安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます」
「私の力は......もう一度、この世界へ返さなければなりません」
「それが、この世界を守る者の役目です」
俺は力強く頷いた。
「力を取り戻したら、世界を元に戻しましょう」
アルケアはゆっくりと目を閉じ、小さく微笑んだ。
「.......ありがとうございます」
「その言葉だけで、十分です」
俺はその意味を考えることはなかった。




