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018.水害

 翌日。

 悠がプールに行くと、すでにアランが泳いでいた。


 激しい泳ぎ。

 その姿はまるで人ではなく鳥のように走っている、水面を。

 ……これが最速の人間の泳ぎ。


 ようやく泳ぎ終わったのか。

 膨大な水を引き連れてプール壁に右手をタッチして、水面から顔を上げた。


「先輩」

「……来たね」


 荒い息を吐きながらアランは言った。

 そして両手で水を掬い、髪を思いっきり掻き上げて。


「昨日は悪かったね。私の問題に付き合わせてしまって」

「いえ、そんなこと。……それよりあれはなんだったんですか?」


 アランは目を閉じて。

 深く静かに深呼吸を一回。

 それから目を開けて。


「私の一族の問題でね。家業を継がなければならないんだ」

「でも、先輩は世界最高のスイマーで。それなら、家の人も誇りに思ってるんじゃ」

「そんなことないよ。水泳は自分の我が儘でやってるだけなんだ。言っただろう? 水野と同じで、私も好きな女のために水泳をやってるって。だから家を捨ててここ・・にきたんだ。水泳を始めたんだ」

「女のため?」


 悠は“海”で出会った彼女に再会するために水泳をしている。

 なら、アランが好きな女のために水泳をしているとは、どういうことなのか。

 水泳をすることが、どうしてその女のためになるのか。


「……王は、彼女は、優しい人なんだ。誰よりも。そして、強すぎる自分の力に……いや、それはいい。まあ、水泳をすることで、彼女の不安を和らげたいんだ」


 言っていることはよく分からないが、好きな女のために全力を尽くしていると言うことだけは伝わってきて。


「大丈夫なんですか? 家業の問題は」

「今は幼なじみが抑えてくれている。だけど、時間はないな。……そうだな、四中。四中が終わるまでにどうするか決めるよ」

「……」


 アランはどこか遠くを見ていて。

 その目が今映しているのは美しき過去か、儚い未来か。


 アランは目を閉じて深呼吸を一度。

 意識を常の状態に戻すと、目を開けてこう言った。


「さて、話はこれでおしまいにしよう。じゃあ、プールに入ってくれ。練習を始めよう」

「はい」


 悠はプールに飛び込んだ。

 水に身体が触れた瞬間感じるイメージ。

 死、絶望、悲鳴。《聖別》の弱い水で。

 意識の彼方には、彼女の後ろ姿が。


「昨日の時点で、五〇MFrが三三秒だったね」

「はい」


 ゴーグルの内側に唾を付けて、指で綺麗に塗りたくり。

 プールの水で綺麗に流すという、曇り止め処理を行いながら。


「カナヅチを直してからこの短期間にそれだけのタイムを出せるようになったのは素直に賞賛しよう。でも、あと僅かな時間で六秒も縮めるのは困難だ」


 それは当然だ。

 コンマ一秒縮めるために、世のスイマーは長時間身体を酷使しているのだから。


 しかし、今ならまだ分からない。

 小学校高学年から高校生までの間は、泳げば泳ぐほどに速くなっていく。

 楽しいほどに速くなっていく。


 だからこそ。

 そんな成長期の真っ直中である悠は。

 しかも、カナヅチから解き放たれたばかりで伸び代が有り余っている悠は。

 難しいが、タイムを縮めることは決して不可能ではない。


「とりあえず四〇〇MFrを一〇〇本、四分四〇秒サークルで。五〇Mあたり三五秒なんだから、余裕だろう?」

「……はい」


 苦しい。

 苦しすぎるメニューだ。

 リトマンスイミングスクール選手クラスのスイマーであっても、練習メニューで一〇〇MFr一〇〇本が出ただけで辛いのに。

 悠にはきつすぎるメニューだ。


 しかし、だからといってここで逃げていては夢には到底届かなくて。

 四中に出場することも、まず不可能で。


 表情を強ばらせながらも文句ひとつ言わず頷いた悠に、アランは満足げに頷いて。


「私も隣のコースで泳ぐ。そうだな、五〇M三一秒から二秒あたりのスピードで。だから私に必死に食らいついてくるんだ」

「はい」

「よし。じゃあ下からスタートだ」


 下からスタートとは、時計の秒針が三〇秒を差したときに始めると言うことだ。

 上からと言うこともあり、それは逆に秒針が真上、六〇秒を差したときに始めると言うことだ。


 悠は左を見る。

 更衣室とは逆側の壁を。

 その壁に掛かっている大きな時計を。

 その時計は秒針のみが付いており。今は一五秒を差している。


 悠は目を閉じて息を整える。

 時間は刻一刻と過ぎていく。


「用意は良いかい? ……スタート」


 その掛け声と共に、悠は目を開け、身体を水に沈める。

 そして勢いよく壁を蹴った。


 右のコースを横目に見ながらドルフィンキックを一回。


 視界の端に映るアランは、同じ一回のドルフィンキックでも悠の倍は進んでおり。


「……っく!」


 アランと自分のどこが違うというのだろう。

 再び一回ドルフィンキックをしながらアランを見る。


 アランは無駄な力を一切排除し、優雅に一回キックした。

 まるで鞭のように、身体全体を、上半身すらも滑らかに使って。

 その姿はあたかもマグロのように。

 軽やかなキックで。


「はっ!」


 その動きを真似して、もう一度キックをする。

 この鞭のような全身稼働は非常に高度な技能だ。

 僅かな身体のバランスの乱れや力の配分のミスでも容易に崩れる。


 悠ももちろん一発で成功できたはずがない。

 上半身とか半身の連動が取れていない。


 しかし先ほどよりも下半身の動きは良くなっており。

 もっとずっと、水を多く蹴ることができた。

 その証拠に、先ほどよりも少し、進む距離が多くなって。


 再度、ドルフィンキックを。

 今度は、連動を意識して。

 全身の力を意識して抜いて。

 上半身が斜め下に進んでいく。

 その動きに沿って、自然に下半身が、両足が上に動いていく。

 上半身が斜め上に進んでいく。

 その動きに沿って、自然に下半身が、両足が、下に動いていく。

 自然に、意識せず、水を、蹴っている。


 ……それは、完璧なドルフィンキックだった。

 スイマーは練習の中で、完璧な泳ぎをすることが間々ある。

 それが自分のレベルを遙かに超えた泳ぎを、練習中に出すことが。

 たとえば選手クラスに入って一ヶ月のある日、バタフライの練習中にオリンピック選手に勝るとも劣らないバランスの泳ぎを見せることが。


 それは奇跡的な偶然が生み出した一瞬のもので。

 しかしその動きは、かすかに自分の中に残っており。

 その後の練習で、その動きを必死に意識の底から模倣し、繰り返すことで飛躍的にレベルが向上する。


 悠の先ほどのドルフィンキックも、まさしくそれだった。

 神様の偶然が生み出した、至高のキック。

 奇跡的な全身のバランスと力配分で生み出された推進力で、水の抵抗など全くないかのようにぐんぐんと進んでいく。


「……っ!」


 水を切り裂いて進む身体。

 その感触は、あたかも麻薬の如し。

 未成年の悠には想像することしかできないが、極上の美酒や最高級の料理に舌鼓を打っても、ここまでの快楽を得ることはないのではないかと言うほどの感覚。


 それをもう一度感じたいと、最後のドルフィンキックを。

 先の神がかり的な動きを模倣して。

 されど偶然は二度起きない。

 二度目のドルフィンキックと同じく、上半身とか半身のバランスが取れていなくて。


「っく……」


 悔しげに顔を歪めながらも、後悔している時間など全くない。

 もう指先は水面に着きそうで。

 横目にアランを見ると、もうすでに優雅に、されど激しく水面を踊っていて。

 悠から身体ひとつと半分は先を進んでいた。


「……」


 ほんの一瞬。

 刹那よりもなお短い時間。

 悠は目を閉じて意識を集中させる。

 そして目を開けると同時、右腕を動かし始めた。


 燐から受け継いだ通り、S字に腕を動かす。

 焦る気持ちとは裏腹に、ゆっくりと。大きく。

 もちろん足にも意識を伸ばしている。

 アランから教わった、シックスビートを。

 それらを駆使してもなお、水にうまく乗れていないのが分かる。


 理由は簡単だ。

 水の波が激しいからだ。


 今まではプールにひとりで泳いでいた。

 しかし今は、隣のコースで泳いでいる人が居て。

 なおかつその泳いでいるのは、一般のスイマーではない。

 アランなのだ。


 その魚雷と呼んでも差し支えない圧倒的な泳ぎは、水面の月を細剣で斬り裂くかのように。

 水の抵抗を全く感じさせず、先へ先へと進んでいく。

 飛んでいく。


 いくら本来のそれよりもずっと速度を落としているからと言っても、推進によって発する周囲への津波はたしかに発生させられており。

 悠の身体を呑み込まんと、沈めていく。

 その巨腕で縦横無尽に絡め取っていく。


 悠の上半身は、完全に水に沈んでいた。

 傍目にも重い泳ぎ。

 アランの飛翔するかのようなそれとは完全に正反対で。

 常よりも重い腕、肩、身体を、悠は必死に動かしてアランを追う。


 残り五Mほどで折り返し。

 すでにアランはターンを終えて水中をドルフィンキックで潜水している。

 それに負けんとさらに手足を動かしながらも、横目で隣のコースを見ると。

 アランと目が合って。


『遅れているぞ』


 水中では決して伝わらない言葉ではなく。

 視線で、そう語ってきて。


「くそっ!」


 さらに勢いを付けながら泳いでいく。

 壁まで残り二Mほど。

 右手が水面を目指して最後の一伸びをしているが、もう左手は伸ばしたまま。

 動かさない。


 残った推進力で、ぐいぐいと進んでいく。

 壁まで残り一M五〇センチほど。

 右手もちょうど今、水面に入水して伸びきった後で。

 両腕を同時に掻き、フィニッシュでとどめる。

 両手によって発生した圧倒的な推進力で、折り返し地点に邁進する。

 その推進力を活かして、身体を動かす。丸める。回転する。

 鼻から息を吐きながら行ったそれは、クイックターン。

 先日アランから伝授されたターン技術。

 素人が行う、片手で壁にタッチしたら、その腕を視点に上半身を水上に出して身体を回転させ、反転したら上半身を沈めて壁を蹴ってするターンとは、速度が圧倒的に違う。

 クイックターンの方がずっと速いのだ、推進力を用いてターンするのだから。

 なおかつターンの勢いを壁を蹴る力に活かせるため、初速も速く遠くへ行ける。


 鼻から吐く息が弱かったのか、浸入してきた水に鼻の奥と頭に鈍い痛みを覚えながらも、悠は強く強く壁を蹴る。

 そしてドルフィンキックを一回、二回、三回。

 否、四回。

 四回共に、幻の一回の動きをトレースして。

 しかし四回共に、成功することは敵わず。

 水面に出ると、もうアランは五Mほど先に居て。

 あまりにも先を泳いでいるからこそ、引き起こされている波は先よりも穏やかで。

 悠は腕を、足を動かしていく。

 先ほどよりも水に乗っているのがわかる。

 傍目から見ても、その背中は水面よりも高く浮かび上がっていて。

 アランを追い続ける。


†††


 ようやく四〇〇Mを泳ぎ終わり、壁にタッチした。

 そうして一息つこうとした瞬間、


「っく……」


 隣のコースのアランが、二本目をスタートした。

 もう四分四〇秒が経過していたようだ。

 予定よりもスピードが遅くなっていた。

 それはアランに引き起こされた水害が激しく、先日よりもタイムが伸び悩んでいたから。


 息をする間もなく、悠は水中に身を沈める。

 そして壁を蹴ってドルフィンキックを。

 視界の端に映るアランは、もう二Mは先を行っている。

 必死に追い付かんと、全身を使い追いすがる。水面に出てからも手足を十全に使いその背を追う。

 先ほどよりも一Mほど離されたところで、ターンをしているアランと目があった。


『そんなものか?』


「くそっ……!」


 こんなもののはずがない。

 この程度のはずが。


 悠は決して負けんと、さらに全力で追いすがっていく。


 ……そんな悠の練習を。

 紀はじっと見つめていた。


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