019.人造
練習が終わって、部員が更衣室に戻った後も。
悠はひとり練習を続けていた。
濃密且つ膨大な練習量に、手足も肩もガチガチに固まっており、うまく動かすことができない。
かすかに痙攣すらし、吐き気を催している。
しかし、それでも。
悠は練習をさらに行おうとしていた。
運命の日までもう僅かしかなく。
少しでも練習をこなし、必ず四中への出場権を勝ち取ってやると。
練習の最後に行われた、四〇〇Mクロールをゆっくりと泳ぐクールダウンでは、溜まりに溜まった乳酸を洗い流しきることはできなかったようで。
ならば、と。
さらに四〇〇Mのクールダウンを行ってから練習しようとして。
水中に上半身を沈めようとした、そのとき。
「何をやってるの!」
鋭い怒声で紀が止めた。
「猛練習は終わったのよ。今から何をしようとしているの!」
「練習を続けようと思って」
「練習時間は終わりよ。早く帰りなさい」
紀は腕を組んだまま、プールサイドから悠を見下ろして言った。
悠は目を閉じて。
首を横に振りながら。
「それでも。もう猶予は残されていません。だから、少しでも多くの練習をこなして、コンマ一秒でも速く泳げるようにならないと」
その言葉に、紀の右の瞼がぴくりと動いた。
怒りから。
「……なんですって」
それは重く低い声で。
紀はスーツのままプールに飛び込む。
そして悠の両肩を掴むと、
「あなた、自分が何を言ってるのか分かってるの? こんなにもガチガチに凝り固まった筋肉じゃ、これ以上練習をこなしても決して速くなれない。いえ、逆にもっと遅くなるわ。そんな状態では正常な泳ぎができず、結果として泳ぎに変な癖が付いてね」
ぐいと強く捕まれる肩。
疲労しきった筋肉は、激しく泣き叫んで。
「っつ……」
痛みから思わず涙目になった悠を無視して、紀はさらに力を入れて肩を揉む。
「練習は科学的に裏打ちされた綿密且つ適正な量をこなさなければ意味がない。それに練習だけじゃなくて、普段の生活もすべてが水泳に関わってくる。食事、睡眠時間、勉強……。それらを行ってこそ、スイマーは限界を超えてタイムを縮めることができるの」
そう。
適切な食事管理によって最高の身体に鍛え、保ち続ける。
適切な睡眠時間は練習の疲労をぬぐい去り、より水泳に適した身体へ改造する。
勉強も、様々な知識が自分のフォームをより洗練したものにしていく。
「あなたの今やろうとしていることは、完全なるオーバーワーク。ほら、筋繊維が断裂しているでしょう? 激しい練習によって痛めつけられた筋肉が、あなたの身体を水泳用に作り直そうとしているの」
リズミカルに動く紀の指先は、強く。
それでいて優しく、悠の筋肉を解していく。
それは痛みの中に、かすかな心地よさがあって。
「だから、これ以上の練習は認めません。ほら、早く帰りなさい」
その紀の声は、優しさに満ちていて。
紀は悠を嫌っていたはずだ。
あんなにも悠の夢を貶したのに。
どうして。
「……先生は、僕のことを嫌ってたんじゃないんですか?」
「……ええ、嫌いよ」
紀はマッサージの手を止め、そう言った。
「嫌いよ、嫌い。大嫌い。文字通り水泳に人生のすべてを、私は捧げてきたわ。それなのに、そんな私の犠牲を無視するかのようなあなたの夢。あなたの行動。あなたの泳ぎ。……すべて嫌いだわ」
「それは……」
どういうことなのか。
どういう過去なのか。
それを聞こうとした悠の言葉を、紀は遮る。
「人に話すようなことじゃない。私の抱えている過去は、私だけが見て、感じて、触れて良いもので。……だから、これは。これを。抱きしめているの、ひとりで」
†††
それは、今から三五年前のこと。
日本はオリンピックで成果を中々出せないでいた。
史上最高で、四〇〇MBtで五位入賞。メダルなど手が届かなくて。
そこで、日本水泳連盟会長は考えた。
トップをとる人材を造り出そうと。
元々日本人は水泳に適している身体を持っているとはお世辞にも言えない。
ならば、完全に水泳に適した身体を持つ人間を、はじめから造り出せば良いと。
その計画は、日本という国家に承認され。
秘密裏に、実行された。
†††
そうして、二四年前。
紀が思い出せる最も古い記憶は。
暗い地下室の中、無数の試験管を見つめているもので。
それから、完全に管理された食事と練習。
生活すべてを束縛されて。
紀はデザイナーベビーだった。
優秀な男女の遺伝子を使い、さらに最高のスイマーになれるよう人為的に遺伝子情報を改変させられた、人造生命。
親は居ない。
外に出ることもない。遊ぶこともない。
紀に赦されていたのは、完全に隔離された狭い範囲内で、自分と同じく造られた少年少女たちと。
日本に栄光をもたらすために、自由も夢も過去も未来も現在も何もかもを捧げて。
水泳に従事することだけだった。
……そんな生活でも、決して。
紀は悲しいとも辛いとも感じなかった。
紀が努力し結果を出せば、日本は輝かしい栄光を手に入れることができて。
同時に、世界が救われるのだから。
限りない“海”の恐怖から。
日本に栄光をもたらすために。
世界を救うために。
紀は日々激しい練習に取り組んでいた。
仲間たちと。
“海”の水で、《聖別》のまったく施されていない生の“海”の水で。
オリンピックでは《聖別》が非常に弱い。
ほとんど掛かっていない。
ならば、“海”の生の水に慣れておくのが一番効率が良いと。
そう、コーチたちに言われて。
紀は死に続けた。
“海”にもたらされる恐怖に。
何度も泣き叫び、気が狂い掛けた。
仲間たちも死に続けた。
実際に発狂死したものも多く、生き残れたものは少なかった。
それでも。
そんな状況でも。
要は辛いとは思わなかった。
……だからこそ。
紀は悠を好きになれなかった。
悠はカナヅチだった。
“海”に、水に恐怖していた。
世界を救おうとは、思っていなかった。
世界を救うため、文字通りすべてをなげうって水泳に人生を捧げてきた紀には、そんな悠の甘い考えも行動も何もかもが許容できなくて。
……アランのことは別だ。
アランもたしかに悠と同じく女のために水泳をしている。
だけどアランの中では、世界の救済と彼女の幸せがイコールで結ばれていて。
なおかつ、その才は天上のものだ。
アランならば世界を救える。
この終わりなき苦痛と恐怖から、人々をすくい上げることができる。
永の安寧を授けることができる。
だからこそ、紀は悠をあれだけ嫌い。
アランにあれだけ親しみや尊敬を抱いて。
……同時に。
練習の意味を知らず子供のように閃光のように走り抜ける悠を、慈愛すら抱きながら諌めていた。
タイムを縮めるための努力。
練習の意味。
効率的且つ最適な練習方法。
それらを、身を以て知っていたから。




