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013.解放

 悠の思考が現在へ回帰する。視界に燐の姿が映し出される。


 もうテレビの姿なんて見えない。

 幻覚も、記憶も。


「彼女に……」

「諦めたの?」


 紀の冷たい声。

 悠を見定めるかのような視線。


 ――諦める?

 ――そんなこと……、


「ありえない」

「なんですって?」

「ありえない、と言った。僕は諦めない、絶対に」

「……」


 溜息をひとつ。

 紀は続ける。


「諦めなさい。あなたは震えていた。今も。それじゃあ、スイマーにはなれない」

「なる。彼女に会いたいから」

「じゃあ……泳いでみなさいよ!」

「完璧に《聖別》されたプールで泳げない奴が、この《聖別》の弱い水で泳げるはずないだろう! 水泳大会なんてな、完璧に《聖別》されているところなんてあり得ないんだよ。しかも大会のレベルが上がれば上がるほどに《聖別》は弱くなっていく。“海”に近くなっていくんだ。泳げないお前は、ここでもう諦めなきゃなあ、死んじまうぞ!」


 燐の叫びが微かに聞こえる。

《聖別》の効いた水で泳げるようになり、それからゆっくりと《聖別》の弱い水に慣らしていく……そんな計画を燐は考えていた。

 しかしそれはもう崩れた。

 いきなり《聖別》の弱い水で泳ぐか、諦めるか。

 ならば諦めて欲しい、と願いながら。


†††


「がんばれ」


 そこはどこか。

 ひどく暗い闇に包まれた場所。


 静謐に満たされた空間で、少女は呟く。


「あたしは、あなたを見つめ続けるから。あなたのがんばりを、ずっと見ているから」


 少女は天を見ている。

 少女の視線の先、天上の少し前には、空間の歪みが。

 半径五〇センチほどの、渦が。


 その渦には悠の姿が映し出されている。


 少女は頬を赤く染めながら、両手を組んで。

 祈りを捧げるように。


「だから、がんばって」


†††


 燐のその願いに反して、悠は飛ぶ。

 身体を震わせながら。


 それは決して美しい飛び込みではなかった。

 腹から無様に墜落するみっともないもの。

 それでもこの状態で飛び込めたのは素直に賞賛しても良いだろう。


 身体が水に触れた瞬間から、感じる重さ。


 全身を舐めるように包み込んでくる腕。

 悠を引きずり込もうとしてくる。


 そんな、全身に襲いかかってくる恐怖や幻覚と悠は戦っていた。


《聖別》の効いた水とは比べものにならないリアルな感覚。


 声。人々の叫び。嘆き。


 腕。助けてくれと伸ばされる腕。


 光景。人が殺される映像。


 光景。火事に巻き込まれる景色。実際にそれに巻き込まれた痛みと熱さ。


 光景。感覚。幻覚。


 あらゆる“死”と“絶望”のイメージが叩き付けられてくる。


 気の弱い人間だったら発狂してもおかしくない。


《聖別》が弱い程度でこのレベルなのだ。

 紀や燐の言う通り、スイマーを続けていれば、これ以上を経験しなければならなくなる。

 泳げない悠には向いていないのかもしれない。


 だけど。


 悠の視界には、


「え……」


 微かに。


 ほんの微かにではあるが。


 彼女の姿が見えた。


 今までは決して見えなかったのに。

 《聖別》の効いた水では。


 彼女の姿が、見える。


「待ってくれ……!」


 必死に彼女を追いかける。

 燐に教えられてきた、クロールで。


 彼女を追いかけることに夢中で、全身に無駄な力が入りまくっているけれど。


 たしかに今。

 悠は泳げていた。


「なん……だと……」


 呆然とした燐のつぶやきなど、悠には欠片も聞こえていない。

 必死に、彼女の幻影を追いかけ続ける。

 だけど彼女への距離は、縮まることはなく。


 五〇Mを泳ぎ切ったときには、もうその姿は見えなくなってしまっていた。


「どこに……どこに行ったんだ!」


 プール壁を力一杯叩く悠。


「ようやく……ようやく、会えたのに……」


 力なく呟く悠に、紀が叫ぶ。


「どうして……どうして泳げたの!」

「それは……」


 ――彼女を、感じられたから。


「彼女……?」


 燐の疑問に、紀が答える。

 震えた声で。


「聞いたことがあるわ」


 信じられない、と言う色をありありとにじませながら。


「あなたも寝物語に聞いたことがない? “海”に封印されたもののことを」

「たしかに聞いたことはありますが……所詮は御伽噺でしょう?」

「たしかに。でも、たしかに、水泳を行わなかったあの国々は海に沈んだ。人間にはできないことが起きてね。なら、その言い伝えは本当のことなんじゃない?」

「と言うことは……水野が感じた彼女って言うのは、まさか……」

「わからない。わからないわ、そんなこと。……でも、もしそんな存在が居るのなら。どうして彼なんかに。私にはどうして見えなかったのよ! あんな、あんな……」

「先生……」


 自分が泣いていることに気づかず震える紀に、燐は掛ける言葉が見つからなかった。


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