012.過去
悠の家は、貧しくもあたたかだった。
リビングでは母も父も悠も、笑い合っていた。
だけど。
どうしてなのかわからない。
わからないが、いつの日からか言い争う父と母の姿をよく目にするようになった。
「どうして嘘を言うの?!」
「だから、仕方ないじゃないか! 付き合いがあるんだよ、会社では!」
「あなたは……、……! なに見てるの悠! あっちへ行きなさい!」
眼前のグラスを手に取ると、母はドアから覗き見ていた悠に投げつけた。
「……っ!」
走って自室に逃げ帰った悠には、その後どんなことが起きたのかはわからない。
†††
三日が過ぎた。
この頃から父の姿はあまり見なくなった。
母はよくぶつぶつ言いながら包丁を壁に何度も何度も突き立てていた。
悠の食事は、今までとは違い、一日一皿。
米と腐った野菜の滓を水で煮込んだような、べちゃべちゃとしたもの。
それだけになっていた。
†††
さらに二日が過ぎた。
その頃には部屋の外に出ると母親の奇声が聞こえて。
そんなものを聞きたくなくて、ずっと部屋に閉じこもっていた。
部屋の隅で体育座りで時間が過ぎるのを一身に待っていると、不意に、ゆっくりとドアが開いた。
久方ぶりに感じる光に、眼球が痛み、目を細める。
そこには、母が居た。
全身に返り血をつけた母が。
「ふふふ。悠ちゃん、あなたはずっとここに居るのよ。逃げちゃダメだからね。物音ひとつ出さず、声を押し殺して、小さくなってここに居るのよ。いい? 部屋の外に出たらダメだからね?」
「トイレは、どうするのさ」
「ペットボトルにでも入れれば良いでしょう? いい、部屋から出てはダメよ。窓を開けてもダメ。約束よ。約束を破ったら……」
ずっと背中に回していた右手を悠の眼前に持ってきた。
その手には、血まみれの包丁が。
その包丁を部屋の壁に突き刺し、
「悠ちゃんもこうなるのよ」
「も?」
「そう。悠ちゃんも。お父さんはもうこの包丁で死んじゃったわ」
今度は包丁を壁から引き抜くと、悠の首筋にそっと優しく押し当てて。
瞳孔の開きかけた目を悠に向けて。
「わかったわね? ずっとここに居るのよ?」
頷くことしか、できなかった。
†††
その日から、悠の食事は劇的に変わった。
今までとは違い、一日三回。肉だけが出されるようになった。
初日の朝だけは少し堅めのプリンのようなものが、お皿に細かくされて入っていただけだったけれど。
食べるときには、いつも母も悠の部屋にきて一緒に食べるようになった。
母は悠がおいしそうに肉を食べているのを、それはそれは楽しそうに、目を細めてみていた。
ある日、悠は食事時に母に尋ねた。
「ねえ、お母さん。このお肉って、牛肉なの?」
部屋に閉じ込められるまで食べたことがない味。
今まではお金がなくて豚肉しか食べたことがなかったから、きっと牛肉はおいしいものなのだろうと思うことしかできなかった。
だからこれは牛肉なのだろうと思った。
「さあ、なんだと思う?」
「牛肉なんじゃないかな。すっごくおいしいもん! でも、牛肉って高いんでしょ? 毎日こんなに食べてて、お金は大丈夫なの?」
「大丈夫よ。タダだから」
「タダ?」
「ええ。お父さんの肉だもの」
「は?」
意味不明な単語が出てきたような気がした。
きっとずっと部屋の中に閉じこもっていたから、耳がおかしくなってきてしまったのだろう。
そう思い込む悠に、母親は微笑みながら言う。
「いま悠ちゃんが食べているのは右の太ももの肉。朝に食べたのはおしりの肉。昨日の夜はおなか。昼は胸。朝は肩。その前の夜と昼には右腕。朝とその前の夜には左腕。その昼には首と顔の肉。それで、朝は脳みそ。一二時間ほどじっくり低温で煮込んだ、ね」
このおいしい肉が、人間のもので。
「しっかり血抜きをすれば、結構おいしいのね。初めて知ったわ」
胃の中のものを全部、吐き出した。
†††
翌日、いつもより笑顔の母が部屋に入ってきた。
「いいこと? 悠ちゃん。今日からは部屋の中でなるべく動いたらダメだからね。今までと同じように、声も音を出すことも、外に出ることも、窓を開けるのもダメ。あと、どんな音が聞こえても反応してはダメよ。わかった?」
†††
その日から、母の嬌声がよく聞こえるようになった。
明迅さん、という声もよく聞こえた。
明迅とはこの近所の、明迅財閥の名前だろうか。
明迅財閥とは、主に鉄鋼などの商社として大正時代から始まった会社を作った一族で、以降他の物品の輸出入やテレビ局買収など、幅広く事業を行うことで連結売上高が一〇兆円もある日本屈指の名家だ。
母親のあえぎ声を聞きたくなくて、耳を閉じて小さくなって過ごす日々が始まった。
†††
それからどれだけ過ぎただろうか。もう時間の感覚などなくなっていた。
そんなある日、急に激しい音が伝わってきた。
「奥さーん、居るんでしょお? 開けて下さいよォ」
ドンドンと、ドアを蹴っている音が聞こえる。
「居るのはわかってるんですよ。早く開けて下さいよ。開けろ、開けろ!」
ドアを蹴る音はより一層強くなる。
と、底に少し低い女の声が聞こえた。
「今はこの近くに誰も近づけないようにしているとは言っても、あまりうるさくしすぎるのはどうかと思うわ。こちらの窓から入りましょう」
「わかりました、奥様」
数瞬後、響く硝子が割れる甲高い音。
そして母親の叫び声とバットが何かに振り下ろされる音。
しばらく騒がしく何事かをやっていたかと思うと、
「じゃあ今後あなたの姿を見たら、このビデオを売り飛ばしますからね。どこかへと消えて下さらないかしら」
「あなた方の目が届かない場所なんて、日本……いや、世界にも……」
「じゃあこの世界から消えれば宜しいじゃない」
その声を最後に、二人はどこかへと消えていった。
しばらく部屋で音を立てずに小さくなっていると、なにが起きたのかを確かめに部屋を出て階段を下りた。
すると、リビングで血を流して仰向けに倒れている母の姿が。
服は引きちぎられ、股間からは赤と白濁の混ざった液体がこぼれ落ちている。
顔からは、鼻血だろうか、血が流れ出ている。
しかし右手で顔が覆い隠されていて、それを確認することはできなかった。
窓は割られていて、そこから二人組が侵入したのだろうとわかる。
「どうして……私は……」
母親を、見下ろしているだけだった。
†††
その日の夜。
部屋に閉じこもっていた悠のもとに、母親がやってきた。
「悠ちゃん。良いところへ行きましょう」
「良いところ?」
「そう。良いところよ。さあ、こっちへいらっしゃい」
母親に連れられ、車に乗る。
そしてどこかへと向かっていった。
数十分ほど経っただろうか。
母親は車を止めると、ハンカチに何かの液体をビンから溢していた。
するとそれで急に悠の口元を塞いだ。
なにをされているのかわからず暴れる。
だけど、所詮は子供である悠には、女であっても年上の母の力に抵抗などできず。
急に悠は吐き気と猛烈な頭痛を感じた。
先ほどの液体はクロロホルムだったのだ。
よく漫画やドラマでは、クロロホルムを嗅がされた瞬間に対象が意識を失う描写がされているが、それは完全な嘘だ。
クロロホルムを嗅がされると猛烈な吐き気と頭痛に襲われる。
そして涙が溢れて視界がよく見えなくなり、それらのことに耐えられなくなる頃にようやく失神するのだ。
耐えきれないほどの頭痛と吐き気に、悠は涙を流しながら意識を失った。
†††
気がつくと、悠の全身は太いロープで何重にも縛り付けられていた。
足には重そうな石がくくりつけられている。
横にいる母を見ると、同じような状態になっていた。
唯一の違いは、悠は腕も一緒にロープで縛られている状態に対し、母は腕が自由になっていることだった。
「さあ、悠ちゃん。一緒に逝きましょう」
母はそう言うと、悠を崖から突き落とし、一緒に飛び降りた。
全身に襲いかかってくる猛烈な痛み。
アスファルトほどとは言わないが、かなりの堅さを感じる水面。
それに衝突した際に感じた凄まじい痛みに、悠の意識は再び遠退いた。
†††
気がつくと、悠は水中をたゆたっていた。
どれだけ気絶していたのかわからない。
しかしまだ生きていると言うことは、ほんの一瞬のことだったのだろう。
すでに上下左右の感覚などなく、深く深く沈んでいく。
それだけ暴れようとも、固く全身を縛り上げるロープに邪魔され、満足に動かすことなどできない。
助けを求めても、誰も助けてくれない。
コールタールのように粘性のある黒い世界。
世界を破壊する力を秘めた、“海”。
全身をロープで縛られ、深く深く沈んでいく。
かすれゆく意識。
こぽこぽと口端から漏れ出る気泡は、すでに出尽くして久しい。
――死、ぬ……。
暴れる力などもうない。
幾つもの国を沈めた暴虐の“海”は、一〇歳の少年にしかすぎない悠の意思など無視して、引きずり込んでいく。
ただただ、奈落の底へと。
脳が酸欠を起こしたのか。
一瞬視界が真っ白に染まった。
同時に、全身から力が抜け、無重力を感じる。
ザザと乱れる視界。
まるで遠くから見ているかのように、意識が遠くなっていく。
それはまるで真っ暗な部屋にテレビをつけ、それをどんどんと距離を広げながら見ているようで。
自分の姿すら見えぬ、一切の光すら喰らう原初の世界。
その中に、純白の美しい少女の姿が。
まるで少女自身が光であるかのように。
少女の細微まで判断することはできない。
いや、大まかな形しか。
だけどわかる。
その美しさが。
腰まで伸びた艶やかな髪。
足首まである長いドレス。
外観から、恐らくは悠と同じく、一〇歳程度であろう。
どこかのお嬢様のようで。
――綺麗、だ……。
これほど綺麗なものは見たことがない、と悠は思った。
眼前の彼女の姿は、一種の奇跡。
今まで感じたことのない感動が、衝撃が、心に重く鋭く響く。
だけど。
造形がわからぬ真っ白なその顔は、おそらく無表情で。
――笑顔を、見せてほしい。
――僕だけに。
――手に入れたいんだ……、どうしても。
抗いがたき欲望。
誘惑。
そして、予感。
そう。
きっと彼女は、笑いかけてくれる。
微笑んでくれる。
僕だけに。
言葉にならずとも。
口は無音のまま形を作る。
それを見た少女は、一瞬身体を震わせて。
ゆっくりと悠を見下ろす少女。
まるでようやく待ち人に会えたと言わんばかりに、その無貌に柔らかく生気が宿り始める。
それは、開花。
蕾だった花が、満開に開く。
――少女は――
――笑った――
†††
……。
…………。
………………。
「大丈夫か!」
「目を覚ませ! おい!」
――誰かの声が、聞こえる……。
悠は目を開けようとする。
しかし瞼はのり付けされたかのように、開けることができない。
それでも必死に瞼に力を入れて抵抗すると、ようやく微かに開くことに成功した。
「やった! 目を開けたぞ!」
「頑張れ! もうすぐ救急車が来るからな!」
――ここ、は……。
明るい空が見える。
朝方、だろうか。
ここはどこなのだろう。
ざざという音が聞こえることから、浜辺だろうか。
少しだけ、頭を傾ける。
音のする方へ。
必死に力を入れて。
すると視界に映ったのは、波打つ海。
そして、海に半身を浸した、少女の姿。
少女はそのまま海に溶けて消えた。
……それが幻覚だったのか、わからない。
普通なら幻覚としか思えないだろう。
だけど、あんなにも重い石をくくりつけられた悠が、浜辺に流される事なんて、あるだろうか。
……きっと彼女は本当に存在し。
……悠を助けたのだろう。
他の誰がそれを信じずとも、悠はそう思った。信じた。
「き……は……」
「おい! どうした!」
「くそっ! 救急車はまだか!」
口はうまく回らず。
今なにを考えているのか、自分でもわからないまま。
悠は意識を失った。




