011.恐怖
放課後。
悠はプールに行くと、アランが更衣室の前で待って居るのが見えた。
話でもあるのだろうか。
腕を組みながらじっと考え込んでいる。
「先輩」
「ああ、来たね」
アランはこちらを向くと、
「今までは顔を見せていなかったけど。今日、顧問の先生が来るんだ」
「そうなんですか」
「うん。きついことを言われるはずだから、心構えをしておいた方が良いよ」
「……? わかりました」
――また初日に燐にされたように、怒られるのか?
どんな先生なのだろう。
そう思いながら、悠はプールへと足を踏み入れた。
そこに居たのは、日本刀のような女性だった。
ただそこにいるだけで空気を張り詰めさせる鋭さ。
無駄な脂肪を排除し絞り込まれた体躯。
泳ぐ上で水の抵抗を受ける胸は手の平サイズ。最も抵抗が少ない形状。
墨を練り込んだような長い黒髪は腰までまっすぐに伸ばされている。
およそ二〇代後半と思われる完成された美しい輝きを持つその相貌は、冷徹な印象を与える無表情で。
「……揃ったわね」
低く、それでいて華やぐ音色で。
悠が後ろを見ると、ちょうど燐もプールサイドにやってきていたのが分かった。
アランは悠たちの前に一歩踏み出すと、こちらに向き直って説明する。
「彼女は天陣紀。この水泳部の顧問を務められているんだ」
「まずは謝らせてもらうわ。ちょっとアメリカのオリンピック代表候補合宿にコーチとして呼ばれていたから」
紀の登場に、燐が興奮して叫ぶ。
なぜなら、
「まさかあの天陣紀選手ですか?! 二〇〇八年のパリ・オリンピックで見た二〇〇MBrには感動しました! あのラスト五〇からの三人抜きでの金メダル、鳥肌が立ちました!」
そう。
天陣はかつて三度オリンピックに出場している。
二〇〇四年、二〇〇八年、二〇一二年と三回連続で出場したが、パリ・オリンピック以外でメダルを獲得することはできなかった。
そのため自身の力がもう十全でないと実感し、二〇一二年のロンドン・オリンピックが終わった直後に引退した。
現在二八歳である。
「あら、ありがとう。それで本題なんだけど、来週末の日曜日に行われる四中対抗戦のことでね」
「四中対抗戦って?」
聞いたこともない名称に、悠は首を傾げた。
「ああ、水野は越境入学だったから知らないか。埼玉には日本屈指の水泳の名門校が四つあってな、その四校でスポーツの対抗戦を一年かけて行うんだ。水泳の部門は、来週末に行われる。名門校同士の対戦ってことで、かなり注目されてるんだ。日本水泳連盟の会長も視察に来るし、多くの記者も見に来る」
「この四中で使われる水は、ほとんど《聖別》が効いていない――言わば最も“海”に近いのよ」
そう。
この四中での水は、ジュニアオリンピックで用いられているものよりも《聖別》が弱い。
最悪のことを考えてプールサイドに救急救命医が待機していることからまだ死者は出ていないが、精神崩壊や植物人間になったものも居る。
これほど危険なことをしていることにはもちろん理由がある。
水泳は非常に危険なスポーツだ。死ぬことも珍しくない。
プロの世界では、常に死と隣り合わせだ。
生活のほとんどを水泳に捧げなければやっていけない。
そのため、ある程度の危険性を持つこの水を使い、篩いに掛けているのだ。
将来心折れて水泳をやめたときに、その後生活することは大変だからこそ、今のうちに将来のことをよく考えさせるのだ。
現に元スイマーがリタイアした際、いきなり社会人になろうとしても、今までの生活とは全く違うため、浮浪者になるものも多い事実がある。
「四中まで日付はもうあまりない。幸い、四中へのエントリーは試合当日だから、新入部員でも出られるわ。だから、如月くん。あなたの現在の実力を見たいのよ」
「そうですか。全力を尽くします。……ところで、水野の名前は出ませんでしたが」
「ああ、彼は試合には出さないわよ」
紀は冷たい声で言い放った。
一切興味がない……いや、憎悪すらしてそうなほどに。
鋭い視線を悠に向けて。
なぜなのか。
なぜ、悠のことを、これだけ憎しみに満ちた瞳で睨み付けてくるのか。
「それは、僕がカナヅチだからですか?」
「もちろんそれもあるわ。でも……あなた、女のためにオリンピックを目指しているんですってね」
「私も女のためにオリンピックに出ているんですがね」
苦笑気味なアランの返答に、同じく紀は苦笑で返す。
「あら、アランくんは良いのよ。それだけの才能も実力もあるんだから。でも、あなたは駄目。全然駄目ね。泳げなく、才能のないくせにオリンピックを目指すなんて。全然駄目よ」
「それでも僕はオリンピックに行かなければいけないんです。四中にも、出なければならない理由ができたんです」
そう。
悠は四中の話を聞いたとき、ひとつの考えが頭に浮かんだ。
それは、水。
四中の水は、“海”にほど近いと言うこと。
それならば、彼女の姿を見ることができるのではないかと。再び。
「無理ね。話は聞いているわ、あなたは“海”で死にかけた経験があるって。それでカナヅチになっているようじゃ無理よ」
「昨日の時点では、ビート板やプルブイを使ってなら泳げるようになっていますよ」
燐が補足した。
しかしその程度の言葉で、紀は揺るがない。
「スイマーはなんのために存在しているのか。……国よ。自国をより高みへ押し上げるために存在しているの。だからこそ水を恐れているようじゃ駄目なの。水を受け入れ、支配できなきゃね」
「それでも、僕は出場します。誰に言われたのでもなく、他ならぬ僕が、そう決めたんです」
四中は自由に出場できる。水泳部に所属しているのならば。
基本的には身の安全のために顧問が出場者を決定するのだが、個人で勝手に出場しても別にかまわないのだ。特にそれについて規定されているわけではないのだから。
しかし、それでもそんなことをした人物など今まで一人も居ない。
当然だ、責任問題に発展するのだから。
紀は目を閉じて首を振った。
「無理ね。責任問題になるわ。今のままでは確実にあなたは泳げない、死ぬわ」
それは断言であった。
今のままでは死ぬ。それが絶対であると。
悠は否定するかのように口を開いたが、しかし現に泳げていないため、その口から言葉が出ることはなかった。
その悔しさを表すかのように、無言で、こぶしを握りこむ。
泣いているかのように腕が震えている。
そんな悠を見て、紀は一瞬悲しげに目を細める。
しかしそんな心を振り落とすかのように再度鋭い目を悠へ向けた。
諦めなさい。その言葉が発せられると察した燐は、反射的に紀を遮って口を開いた。
「待ってください! たしかに悠はカナヅチです。でも、今俺と一週間期限で泳げるようになるかどうか勝負していて、今のままであればクリアーできそうです。四中の際には、確実に泳げるようになっています」
「如月君、いったいどうしたの。あなたの過去は知っているわ。四中の水はジュニアオリンピックのものよりも危険なの。それなのに、現時点でまだ泳げない人を出場させることがどれだけ危険なのか、あなたは知っているでしょう」
「それは……」
燐は悔しげに唇を噛む。
忘れられない過去に涙を流しているかのように、一筋、血が流れた。
そんな燐に紀は喪った仲間たちを思う。
あの時、彼らは……。
そんなことを思っていたからか。
そしてそんな過去を捨てて、新しい道を歩みたいとわずかにでも感じているのか。
紀は少し考え込んで。
「……そうね、それじゃあ四中前日までに五〇MFrで二七秒切るタイムを出しなさい。全国中学校水泳競技大会の制限記録は二五秒五一、それよりも大幅に遅いタイムなんだから、無理とは言わせないわ」
たしかに年齢から見れば決して不可能ではない。
むしろできるものの方が多いだろう。
だが、ようやく泳げるようになってきた悠に対して行うようなものでは決してない。
それが分かっている燐は、苦い顔をしながら異議を申し立てる。
「いくらなんでもそれは」
「死ぬわけじゃないんだから、これでも甘い方よ。私がもっと幼い頃なんて、私の周囲で水泳をしていた人の九割以上が死んだわ。もっと厳しいことを行ってね」
「……」
紀の言葉に、燐はそれ以上言い返せなくなった。
「……わかりました。もしもそのタイムを切れば、僕を出させてくれるんですね」
「ええ。約束しましょう」
「わかりました。やります」
その言葉に、初めて紀は笑顔で頷き、悠を見た。
「よく言ったわ。じゃあこっちの五〇Mプールに来なさい。今までとは違う水を引いてあるから。《聖別》の弱い水をね」
「い、いきなりですか!」
さすがにその言葉に燐が反応した。
今までは《聖別》が完璧に効いた水で練習してきて、ようやく今日からビート板もプルブイもなしで泳ぎ始めようとしている悠に対して、いきなり《聖別》が弱い水は早すぎると感じたから。
「マジかよ?! 今の水ですら全然泳げない今の悠をそんな水に入れたら、冗談抜きで死んじまうぞ!?」
敬語も忘れて燐が叫んだ。
未だカナヅチで泳げるか分からない悠に、いきなりそんなことをさせられないと。
「……わかりました。行きます」
悠は憤る燐を左手で抑えると、一歩前に出た。
その足は震えている。
息も荒い。まるで全力で走った後のように。
紀に先導されてプールサイドに行く。
そんな悠へ、燐の叫びが響いた。
「やめろ……行くな、紫苑!」
燐には、今、悠の姿が、別の誰かと重なっていた。
かつて喪った誰かと。
そう、梔子の香り立つ、あの日に……。
止めたい、そんな思いとは裏腹に、燐は縛り付けられたかのようにその場から動けないでいた。
そんな燐の言葉も、今は悠の耳には入っていない。
否、そちらに意識を傾けることができない。
スタート台に立ったまま、悠は飛び込めないで居た。
頭が真っ白になって、恐怖で。視界には、黒ずんだ瘴気を立ち上らせる水を幻視して。
恐怖を呑み込むと誓った。
彼女に会いに行くとも。
でも、それでも。
水への恐怖は、身体を凍らせる縛鎖で。
「あなたには水泳は無理よ。諦めなさい」
悠に告げられる冷たい声。紀の。
「私たちスイマーは国の威信を背負っているの。そのためなら死をも躊躇ってはいけない。ここで水を恐れるようなら、あなたには水泳をやる資格なんてないわ」
――諦める?
――彼女との再会を?
その言葉と共に、過去が顔をもたげ始める。
無数のテレビの姿をした、記憶たちが。
その画面に記憶を映し出して。
悠の周囲を、浮遊する。
記憶。壊れ行く家。
記憶。地に倒れ伏す母。腫れた顔からは血が流れ、股間から赤と白濁が混ざり合った液体がこぼれ落ちている。
記憶。全身に巻き付けられるロープ。
記憶。死への恐怖。
記憶。助けを求めて心で伸ばした手。誰にもとってもらえることなどなかった。
記憶。絶望の果てで見た、彼女の姿。
「僕、は……」
――恐怖を乗り越えると誓った。
――カナヅチを克服してきた。
――でも。
――この水を前にすると、身体が震えて。
そのとき、ひとつのテレビが悠の眼前を浮遊した。
そこには、ひとつの記憶が流されている。
記憶。
全身びしょ濡れの姿で、海を眺めている悠。
「ああ……」
悠の思考は、あの日にへと遡る。




