巻三之三
山の夜は深い。
その夜は風もなく、時々に鳥や虫の鳴き声が淋しげにこだまするばかりの静けさだった。
しかし妖しげな空気はひっそりと近寄っていた。彼らの住まう庵のすぐ近くまで。
そしてそれは、いつもと変わらぬ静かな夜を過ごしていた住人達に、にわかに襲い掛かるのだ。
御簾の向こうに、白い大きな光がぼうっと漂ったのに、先に気付いたのは永兼だった。
「お、和尚さま……!」
永兼は声を震わせて入道の肩を押した。
「んん? なんじゃ」
少年の体を愛撫するのに夢中だった入道は、煩わしげに顔を上げた。
「な、なにか光ってます。ひ、ヒトダマでしょうか……」
「なに?」
ようやく入道は振り向いた。
そしてその目に、その光球が映った頃には、もはや受け身をとる時間もなかった。
光の球は御簾を通りぬけ、部屋の中へ、勢いを持って突っ込んできたのだ。
「うわあっ!」
2人は悲鳴を上げてその場に蹲った。光球は2人の頭上をふわりふわりと飛ぶ。見れば、光の球はひとつだけでなく、いくつも空中を飛んでいた。
その眩しさの中で動転する2人の元へ、次に声が届いた。
甲高い、女の笑い声だ。
見ると、御簾の向こうがわに、ぼうっと、女の影が立っていた。肩を揺らしながら、気味の悪い笑い声をあげている。
「う、あ……っ、ぼ、亡霊……っ!」
永兼が震えながら入道へ縋りつく。
入道はきっと表情を引き締めて、女の影を睨んだ。
「悪霊め、何が恨めしくて出たんじゃ、去れっ!」
そう叫んで、呪文を唱えながら手に印を結ぶ。中を漂っていた光の球が、ぐらぐらと揺らぎ始めた。
しかし女の笑い声は途絶えなかった。光の球がひとつ、入道の目の前で弾けた。
「ぐっ……!」
入道は呻いて、その場に倒れてしまう。
「お、和尚さまっ! 和尚さまあっ!」
永兼は涙目になって入道の体を揺するが、入道の意識は既に無かった。
光の球たちはゆっくりと中を漂い、女のもとへ動いていく。
そしてその女は、御簾を持ち上げて、ゆっくりと部屋の中へ入ってきたのだ。
女は裸足でひたひたと歩き、永兼と入道の元へ近付いてくる。永兼はその場に座り込んで、震えながらそれを見ていることしかできなかった。
やがて女は永兼の顔をじっと見下ろして笑った。
「うふふ……、いい子ね……、あなたはこっちへいらっしゃい……?」
そう言って、白い腕をぬっと伸ばしてくるのだ。
「い、いやだ……、くるな……っ」
永兼はか細い声で抵抗をするが、女は止まらない。
「怖がらないで……。ほら……、こんな所で死にたくはないでしょう……?」
そう言って笑みを深くした。永兼の息はひゅっと喉を通った。
金縛りにあったように固まった永兼の腕を、女はその手で取り、引いて歩き出した。
永兼は立ち上がり、頼りない足取りでそれに引かれていく。もはやそも目は何をも見ていなかった。
「ま、待てっ……、悪霊め……!」
倒れていた入道が目を覚まし、女の背に言う。女は振り向いた。
「あら……、腐っても入道ね……、まだ意識があるなんて……」
「永兼を返せ……!」
入道は床に倒れながら女を睨んでいた。
「……。もう動く元気はないようね……。そこで指を咥えて見ていなさい……? あなたの大切なひとが、亡者の国へ連れて行かれるところをね……」
女はそう冷たく笑う。
「おのれ……っ! 永兼……! 行くな……!」
「和尚さま……っ!」
入道も永兼も手を伸ばしてもがくが、もはや手の届く距離ではなかった。
女は永兼の手を引き、遠ざかっていく。
「和尚さまあーーっ!!」
永兼はぼろぼろと涙を落として叫んだ。
その時だった。また、きらりと、御簾の外に閃く光があったのだ。
はっとして女は足を止める。金色に光る炎が、ゆらりと揺らめいていた。
御簾を吹き飛ばすように掻き分けて、金色の輝きを全身に纏い、独禮はそこに降り立った。
その眩しさに永兼は目を細める。
「ど、独禮さまっ!?」
「ふう……。間に合ってよかった」
独禮は金色の炎の中で微笑んだ。
笑みを絶やしたのは女だ。
「お、お前は何!? 私の邪魔をするのか!?」
「同族意識は持たないでほしいな。私はこれでも……、人の子なのだから」
独禮は首を振って言った。
「おのれっ!」
女は激昂し、光球を一斉に独禮の方へ放った。
しかし独禮の纏った炎に弾かれるように、全て呆気無く、霧散してしまったのだ。
独禮はきっと女を睨んだ。その瞳に宿る金色の輝きが、一層強く煌めく。
「うっ……」
女は頭を抱えて苦しそうに呻いた。その手はもはや、永兼を掴んではいない。
「うああああっ!」
そして女は激昂し、ぱちぱちと点滅するように光を纏ったかと思うと、そのまま一目散に走り出した。
独禮の横を抜けて外へ出ようとするが、そう簡単にいくわけもない。その体はあっという間に、独禮が発する金色の炎にまとわりつかれる。
その光の眩しさに、永兼も入道も目を瞑った。
女の苦しむ声も絶え絶えに、やがて静寂が訪れる。
永兼が目を開けた時、既にそこから女の姿は掻き消えていた。
光も失せ、炎も止み、ただ暗闇の中、独禮の髪と目だけが、ぼうっと浮くように光っている。
「あ、悪霊は……?」
永兼がおそるおそる声を出した。
「消えたよ。この辺りで死んだ女の霊なのだろうか……」
独禮は御簾越しに夜空を見つめながら言った。
やがてすっと、永兼の方へ向き直る。
「永兼殿、無事か?」
「は、はい……。大丈夫です……」
「危ないところだったな。もう少しで殺されるところだった」
独禮は言う。永兼は胸元で拳をぎゅっと握って、改めて去って行った脅威に恐怖した。
独禮はしたしたと歩き、倒れている入道の元に近付いた。
ぽかんと独禮を見上げていた入道は、急に焦って体を起こす。
「……ご無事ですか、入道殿」
独禮はそこに膝をついて言った。入道は目を泳がせている。
「う、む……、ぶ、無事じゃ。もう妖気も抜けた、なんともないわ」
そうは言うが、声は上ずっていた。その時、入道はほとんど裸同然の格好をしていたのだ。
独禮は柔らかく微笑む。
「安心いたしました。入道殿の庵に妖が出たとなれば、さぞ父上もご心配なされていると思います。入道殿のご無事を、しかと報告しておきましょう」
すると入道は更に慌て始めた。
「ま、待ってくだされ、独禮殿。この件については後でゆっくり話しませぬか」
名高い僧が小坊主との戯れに夢中な夜分、妖怪に襲われ裸でひっくり返っていたなど、不名誉もいいところの話なのだ。
独禮は少し考える素振りを見せて、頷いた。
「……分かりました。後日、ゆっくりお話いたしましょうか」




