幕間 ジョウタンへの第一歩 Sideノーヴァ・コズモ
「お前に出す金は、銅貨一枚もない」
これは、ノーヴァが戦争で父コメタを失った直後に、兄に言われた一言だった。
この時、コズモ子爵家の雰囲気は、以前の明るさを失いギスギスとしたものになっていた。
兄は、口を開けば、金、金、金。
父がノーヴァの為に残していた学資資金すら我が物にした。
元々裕福な家ではなかったが、父が戦地で活躍した報奨金を貰ってくれていたお陰で家計は回っていた。
その殆どをつぎ込んで育てた長男の性格が壊滅的だったことが、コズモ子爵家一番の不幸だったと言える。
大黒柱が居なくなり、一気に生活は苦しくなった。
成績不振で卒業すら危ぶまれた兄には、ろくな就職先がなかったのだ。
父の口添えでなんとか入った役場でも、態度が悪くて昇給などしてもらえない。
もう一人の兄は、さっさとこの家に見切りをつけて、大店の娘婿として貴族籍を捨てて出ていった。
荷物も全て置いていき、実家には、なんの未練もないようだった。
残されたノーヴァは、残り一年の学費すらねん出することが出来ず、このまま退学を待つしかなかった。
それでも諦めきれずに、学園へ行くと訓練場で素振りをした。
そこに現れたのが、カリネリアの父であるジュスト・ジェンティーレ公爵だった。
「なかなか筋が良い。君が、コメタ・コズモの息子、ノーヴァで合っているかな?」
「は、はい」
「私は、君のお父上に、少々恩義があってね」
ジュストが言うには、戦場で一度コメタに命を救われたことがあると言う。
ただ、その話が、あまりにも曖昧で、真偽の程は分からない。
「失礼とは思うのですが、それは、本当の話でしょうか?」
「嘘か真かは、この際大した問題じゃない。君は、私から金を借り、のちのち我が公爵家で馬車馬のように働かされることになる。それでも、この学園を卒業したいのかと私は聞いているのだ」
この時ノーヴァは、間髪入れずに頷いた。その目は、希望に満ち溢れていた。
「では、ここにサインを」
既に全ての準備を調えていたノーヴァの手には、借用書と雇用契約書、そしてコズモ家から縁を切ると言う誓約書が握られていた。
ご丁寧に万年筆まで持参しており、
「ほら、早く書いて」
と急かしてくる。
ここだけ見れば、まるで詐欺師のようなやりようだ。
だが、その本当の理由を後々ノーヴァは知ることになる。
一年後、卒業式の日に、ノーヴァがジェンティーレ公爵へ仕える事になったことを聞きつけた長男が現れた。
「今までの恩を返す時が来たようだな」
ニヤニヤと笑う兄を見て、ノーヴァは思った。
――本当に、この男と私は、血が繋がっているのだろうか?
父は、確かに素晴らしい人物だった。
母も、父が生きていた頃は、気弱ながら優しい人だった。
しかし、長男に頼らざるを得ない状況になった母は、葬式の日以来、全て見ざる聞かざる言わざるを貫いている。
三男が学校に通えなくなると知っていたはずなのに、ただ、ぼんやりと窓から外を見ていた。
「とりあえず、今持っている金を全部出してもらおうか」
恥ずかしげもなく弟に向かって手を差し出してくる長男の腕を、
「ちょっと、待ってもらおうか」
突然誰かが掴んだ。
「だ、誰だ」
「人に名を聞くなら、自分から名乗るべきだと思うがね」
そう言ったのは、本来、卒業式になど来るはずのないジュスト・ジェンティーレ公爵だった。
ジュストの胸に付けられた無数の勲章を見た長男は、流石に相手が自分よりもずっと身分の高いものだと気づいたようで慌てて頭を下げた。
そして、遅ればせながら名乗ろうとした。
「わ、私は、この愚弟の兄……」
「いや、やはり名乗っていただかなくて結構。今日から、ノーヴァは、我が家の一員なのでね」
名を名乗れと強要しておいて、結局必要ないと撥ねつけるジュストに、ノーヴァは笑いを堪えた。
屈辱で歪んだ兄の顔が、面白くて仕方ない。
「私は、彼にお金を貸しているんだ。もし君が彼の縁者なのなら、立て替えて払ってくれても良いんだよ?」
ジュストは、ポケットから以前ノーヴァがサインした三つの書類を出してきた。
借用書、雇用契約書、そして、コズモ子爵家と縁を切るという誓約書だ。
「ノーヴァは、子爵家に借金の返還請求が行かないように、こうやって縁切り書までサインをしているんだ。だから、私は、実家にまでは金を巻き上げには行かないつもりだよ。今はね」
睨まれれば、敵兵も逃げていくと言うほどジュストの眼光は鋭い。
大した能力もないのに、血縁だからとノーヴァに偉そうにする男など、相手をするほどの事もない。
「し、失礼いたしました」
それだけ言うと、長男は、走って逃げた。
その後姿が情けなさ過ぎて、ノーヴァの目に涙が浮かんだ。
――もう、二度と父上の名に泥を塗るような振る舞いは止めて欲しい。
そう願っても、聞くような長男ではないだろう。
それでも、ノーヴァは願わずにはいられなかった。
「全く、君の兄は、噂にたがわぬダメ人間だな」
溜息をつくジュストに、ノーヴァは恥じ入った。
「申し訳……」
「自分が悪い事をしてもいないのに、簡単に謝るな」
「は、はい」
「それと、ずっとコメタは、後悔していた」
何をとはジュストは語らない。ただ、それが、長男の育て方だったことは、言わなくても分かった。
「すまないと……、そう伝えてくれと言われていた」
コメタの最期を看取ったのは、ジュストだった。
部下を庇い敵に背中を切り付けられたコメタは、最後に息子への懺悔を口にしていたのだ。
「だが、貸した金は返してもらう」
「も、勿論です」
「最初の仕事は、子守りだ」
「子守り?」
その意味を、ジュストはジェンティーレ公爵家に行ってから知ることになる。
「初めまして、カリネリア・ジェンティーレと申します」
まだ幼いのに、物静かで聡明な少女は、自分の護衛になる男に、丁寧なあいさつをした。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いいたします。私の名は」
「ノーヴァ……ですね?」
「はい」
名乗ってもいないのに名前を呼ばれた瞬間、何故か、ノーヴァは、仕えるべき主人を見つけた気がした。
彼女は、上に立つ者として、自分を守る者のことを理解しようとしてくれていたのだ。
「これから、どうぞよろしくお願いいたします」
膝をつき、首を垂れた。これが、ノーヴァがジョウタンという道を歩む第一歩だった。




