幕間 芯の強い妹 Sideトレーロ
「さぁ、手を握ってあげて。貴方の妹、カリネリアですよ」
出産後、ベッドに横になったままの母親が、生まれて間もない妹をトレーロに見せてくれた。
皺くちゃの顔は、全然可愛くなかった。
しかし、恐る恐る手を出すと、握ったら潰れてしまいそうな柔らかい指が彼の小指を握った。
――なんて、温かいんだ。
それだけで、トレーロは泣きそうになった。
六歳の彼にとって、妹など親の愛情を横取りするライバルでしかなかった。
腹の中にいる時から、母親を独り占めし、産まれてからは父親すら奪われた。
そんな風に思っていたトレーロは、今度は自分が妹の虜になったという事に気付いてしまった。
こうなってしまうと、もう、誰も止める者が居ない。
家族全員が、カリネリアを喜ばせる事ばかり考えて行動してしまうのだ。
トレーロは、毎日勉強と鍛錬の合間に、飽きることなく妹を見に母のベッドを訪ねた。
すると、毎回カリネリアは、嬉しそうな顔で笑ってくれた。
ただ、赤ん坊のころから、あまり泣かなかったカリネリアは、一人で我慢してしまう癖があった。
三歳で母を亡くした後も、まるで大人のように聞き分けよく一人で眠った。
しかし、トレーロは知っていた。
カリネリアが、意外と怖がりであるという事を。
ゴロゴロゴロゴロ。
雨の日に、雷が鳴り始めれば、トレーロはベッドから飛び出して妹の部屋へ走る。
九歳ながらに体の大きな彼は、ベッドの中で泣くのを我慢して丸まる妹を、彼女が抱きしめているぬいぐるみごと自分の部屋へ抱っこして運んだ。
「大丈夫、カリネリア、兄さまがついているからね」
「ん、にぃたま、だいしゅき」
自分にしがみついてくる妹は、心配になる程我儘を言わなかった。
あれから五年。
八歳になったカリネリアは、プルチーノ王女殿下と出会ったことで変わった。
ちょっと理解できない所もあったが、それ以上に明るくなったことが嬉しかった。
そんな彼女が、まさか、剣を教えてくれなどと言い出すとは思ってもいなかった。
「トレーロお兄様、私に、剣を教えてくださいませ」
「その言葉、何回目だ?」
「二百五十六回目です」
「一週間の間で、よくそこまで言えたな。だがしかし、無理だ。そろそろ諦めてくれないか?」
「いいえ、千回でも二千回でも申し上げます。私に剣を教えてくださいませ」
十四歳になっていたトレーロは、正直力加減を間違って妹に怪我をさせるのが怖かった。
大人相手なら、全力でぶつかっても倒れないが、カリネリアなど指一本で押しても尻餅をつきそうだ。
しかし、彼女の目は真剣で、まるで一介の剣士のように鋭かった。
プルチーノの為なら、自分の命も惜しくないと思っているのだろう。
――大事な妹を盾になんてさせるものか。
王女に仕えるという事は、いざと言う時は、自分の体を投げうって敵の攻撃を防ぐという事。
下手に剣術など身に付ければ、帯剣させられた上に護衛のようなことをさせられる可能性も出てくる。
頑なに拒否をするトレーロの代わりに、父親がしゃしゃり出てきた。
しかも、わざわざ、
「そんなに剣を学びたいなら、父から学ぶか?」
などと言ってくる。
――父上は、カリネリアの事を分かっていない。
トレーロは、幼い頃からカリネリアを芯の強い少女だと思っていた。
物静かで思いを言葉にするのは苦手だが、やると決めたことは最後までやり抜く。
そして、部屋中に置かれたぬいぐるみ達も、一つ一つに名前を付けて毎日全員に挨拶をするくらい愛情深い。
そんな彼女が、プルチーノの為に剣を習うと言うのなら、それは、子供の遊びではなくなる。
必要とあらば、真剣を手にして敵を倒すつもりでいるということだ。
「ただ、私は厳しいぞ。木刀で千回の素振りすら出来ない者に教えるつもりはない」
父ジュストが提示したハードルは、確かに低いものではなかった。
しかし、トレーロは、カリネリアなら必ず達成するだろうと思っていた。
案の定、次の日には自分に合わせて削った木刀を手に、トレーロの横で素振りを始めた。
「エイ、エイ、エイ、エイ、エイ、エイ、エイ……………」
可愛らしい声には似つかわしくない、決意のこもった表情は、まるで戦場に向かう戦士のようだ。
十回振っただけで息を切らせ、はぁはぁと息を荒くさせながら、その目はトレーロの動きを盗み見ている。
無駄に力を入れれば疲れるだけ。
脱力したように振りぬき、ピタリと空中で止める。
その繰り返しの中にも、呼吸や足運びと言った繊細な技術がある。
それをカリネリアは、一つ残さず吸収するつもりなのだろう。
トレーロは、妹に見られながら素振りをすることに、妙な緊張感を感じた。
――不甲斐ない所は、見せられない。
いつも以上に丁寧にトレーロは木刀を振り続けた。
それに合わせて、休み休みカリネリアも木刀を振る。
手にマメを作り、それが裂けて血が垂れても止めない妹は、自分の手にハンカチを巻いた。
しかし、それは直ぐに外れてしまい、ハラリと地面に落ちる。
見かねたトレーロは、仕方なしにハンカチを巻き直してやった。
「ちゃんと後で治療をしてもらって。悪化したら、木刀を振るどころじゃない」
「はい、お兄様、ありがとうございます」
結局、妹に甘いトレーロは、最後まで付き合い続け、一か月後カリネリアが千回触れるようになると、彼女を高く抱き上げてクルクル回った。
「凄いぞ、カリネリア!」
こんなに興奮したのは、自分が初めて真剣を握らせてもらって以来だった。
妹の偉業を喜んだトレーロは、その日、とても良い気分で眠りに付こうとしていた。
トントントン。
寝室の扉を誰かが叩いている。
その相手を、トレーロは分かっていた。
何故なら、音がする場所が、かなり低い位置にある。
あの位置を叩く相手は、この家に一人しかいない。
「どうした、カリネリア。眠れないのか?」
時々、母が早くに亡くなり、急に寂しくなって枕を手に妹が兄の部屋を訪れることは度々あった。
しかし、今日のカリネリアは、枕の代わりに丸めた紙を持っている。
「お兄様、お礼を持ってきました」
「お礼?」
「はい、剣を教えて下さったお礼です」
動きが見やすいように普段よりゆっく兄が素振りをしていたことに、妹は気付いていたようだ。
気恥ずかしさに顔を赤らめながら、トレーロはカリネリアが差し出す紙を手に取った。
「これは……母上」
そこには、五年前に亡くなった母の絵が描かれていた。
カリネリアの記憶にある表情なのか、肖像画のような澄ました顔ではなく、我が子に向かって優しく微笑む母そのものだった。
「記憶があいまいになってしまっているので……自分の顔を鏡で見て想像しました。似ていますか?」
三歳では、母親との思い出も殆どないと言って良い。
カリネリアよりずっと長い時間を共にしてきたトレーロですら、それほど記憶が残っていないのだから。
だからこそ、この絵には、価値があった。
トレーロは、母を忘れぬよう片時も離さず持っていようと心に誓った。
「ありがとう、カリネリア。本当にそっくりだ。この絵は、一生大切にするよ」
「良かった。それではおやすみなさいませ」
用は済んだとスタスタ帰っていこうとするカリネリアを、トレーロは背後から手を回して軽々と抱え上げた。
「きゃぁ」
「カリネリア。今日は、私と一緒に寝よう」
上機嫌でベッドに戻ったトレーロは、逃げようとするカリネリアを抱きしめたまま眠りについた。
夢の中では、父と母、そして可愛い妹と一緒に美味しい食事をすることが出来た。
「ありがとう……カリネリア」
兄の目から、ポロリと涙が落ちたことを、大の字になって寝ていた妹は一生知ることは無いだろう。




