七 指先の境界線
宿舎に帰り着いてからすぐ、ソルの帰還を知ったミシェットが訪ねてきた。今日は休暇日らしく、その装いは普段のラフなものとは随分と違う。ちゃんと年頃の少女だ。
「おかえりなさい。二人とも無事でよかったわ」
ソルは駐屯地の医務室で眠り続けたとはいえ気力も体力も回復していない。テンに至ってはまだ足を引き摺っている状態。全く無事ではないが、戦闘員ではない彼女の目にはそう見えるらしい。とはいえ命があるだけ、ミシェットの言う通り無事と言うべきか。
「でもテンが撃たれるなんて、びっくりした」
「俺もまさか野良が撃ってくるとは思わなかった。油断してしまったよ。俺もまだまだだ」
簡易テーブルを挟んで続く和やかな会話を、ソルは気怠い身体をベッドに横たえたまま聞いていた。
ミシェットはテンの怪我にばかり気を取られていて、ソルが二週間軍に拘束されていたことには特に疑問を持っていないようだ。
というのも、聖骸がソルの名を呼んだことは軍内部で緘口令が敷かれている。混乱を避けるためだ。もちろん私設兵団にもその情報は下りておらず、ソルの一時的な離脱は適当な理由がつけられているようだ。
それに微かな安堵を感じながらタブレットを開き、二週間の空白を埋めるようにニュースやラボの報告書を読み耽っているうちに、いつの間にかソルは二人から意識を切り離していた。
ニュースは一般市民の不安を煽らないために、戦争のことは殆ど書かれていない。
国民向けのニュースを閉じ、毎日細かくチェックしているデータを開く。軍が戦地に立つ兵士向けに発信している戦況報告書は、ほとんど動いてはいない。第八防衛ラインを攻めたあと、共和国は沈黙している。攻め気がない訳ではないが、全ては信徒の意志だという国際社会へのアピールなのか。
ふと広報誌の隅に書かれた偵察部隊の募集が目に留まる。軍は定期的に共和国への偵察を行う兵の志願者を募っている。軍の中で行きたがるものはいない。これまで偵察に赴き生きて帰った者は殆どおらず、遺体すらも見付かっていない。数少ない帰還者も、四肢の欠損や精神の崩壊など目を覆う傷を抱えていたそうだ。
帰還者が持ち帰った録画データも酷いもので、共和国に足を踏み入れる前に国境付近で聖骸により追い返されるものばかり。国境の警備は厳しく、そこに帝国と共和国のテクノロジーの差を見せ付けられてきた。
共和国──利己的な主張を正義として無慈悲な侵攻を続ける国だ。けれど、父が、ソウゴがいるかもしれない国。例えば偵察に志願し成果を上げることができれば、もしかすれば認められるのではないか。ソルはそんなことすら考え始めていた。
志願兵募集の小さな記事を見詰め考え込んでいると、ふと歩み寄る気配を感じソルはそっと画面を閉じて視線を向けた。テンはいつの間にか珈琲を淹れるためキッチンに立っていて、視線がぶつかった瞬間にこちらに歩み寄っていたミシェットはぴたりと足をとめた。
ぐっと唇を噛んだその表情は、普段明るい彼女にしては違和感がある。
「ねえ、ソル」
何か良からぬ話かと微かに身構えながら、ソルは上体を起こし向き合った。
「このあとは、暇?」
「さあ、分からない」
先程帰宅したばかりでないとは思うが、軍の呼び出しがある可能性がゼロとは言い切れない。
「何故だ」
ソルの問いに、ミシェットはスカートに触れる指先にきゅっと力を込めた。
「少し、出かけない?」
「悪いが疲れている」
一瞬眉を寄せたように見えたが、ミシェットはいつものように少し幼い顔で笑った。
「そうだよね、ごめんね。じゃあ、また復帰したらよろしくね」
そのまま振り返り、テンに適当な挨拶をするとミシェットは二人の宿舎を後にした。何か重い荷物を運んで欲しいとかそういった買い物の付き添いだとしたら、やはり断って正解だ。今その体力はない。
そのまま再び身体を横たえようとするも、二つのマグカップを手にテンがこちらに歩み寄った。サイドテーブルに置かれたカップは、ソルがいつも使っているものではない。ミシェットに出そうとしていたのだろう。
自分のベッドの端に腰を下ろし、珈琲を一口喉に落としたテンは、その様子を何となく眺めていたソルに向かい呆れたような冷めた視線を向けた。
「もう少し優しくしてあげたらどうだ。女性からせっかく誘ってくれたのに」
「何の話だ」
「デートの誘いだろう。あんなに頬を染めて」
その言葉にソルは思わず眉を寄せる。
「馬鹿を言うな。今は戦争中だぞ」
こんな時にデートなどしている場合ではない。そう息巻くソルを見もせず、テンはため息混じりに呟いた。
「君はハリネズミみたいだ」
「ハリ……なんだ?」
再び呆れたように肩を竦め、テンはカップをサイドテーブルに置くとベッドに寝転んだ。ソルは慌ててタブレットを開く。素早く検索して出てきた画像は、愛くるしい小動物だ。小さなくりくりの瞳で、精一杯身を丸めて針を逆立てている。
バカにされたことに腹が立ち、鋭くテンを睨み付ける。
「その嫌味がなければ、わりといい奴なのに」
「君もその棘がなければ、一人くらい友達がいたんじゃないのか」
ああ言えばこう言う。狙撃の腕もいい癖に、口まで達者とは恐れ入る。
「すぐに人を馬鹿にする所は直した方がいい」
「君もすぐに銃を抜く癖を直した方がいい」
「偉そうに。不潔なくせに」
それしか思い付かなかった子供じみた悪口に、テンは何故か瞳を輝かせてソルを見詰めた。
「泣き虫」
かっと顔に熱が昇り、ソルは思わず枕を投げ付けた。力任せに投げたはずが、それを難なく受け止めたテンは肩を竦めて笑う。
「ほら、口で勝てないと分かるとすぐ攻撃に出る。それでは大人になれないぞ」
また煽る言葉と共に枕を投げ返され、ソルの脳が余計に熱くなる。
「大人気ないのはどちらだ」
ソルは言葉と共に枕を投げ付ける。
「君のレベルに合わせているんだよ、仲良くしたいから」
テンから枕が投げ返される。
「誰が貴様と仲良くなんかするか」
「素直になれよ」
「自惚れ屋」
「意地っ張り」
「嫌味な奴」
「捻くれ者」
言葉と共に二人のベッドの間を行ったり来たりする枕を、ペゴが薄く口を開け律儀に視線で追っている。その間の抜けた表情を見て、思わず何かが込み上げそうになった瞬間だった。ソルのタブレットに通知が届いた。その送信元の暗号を見て、すっと心が暗くなる。
「テン、三時間空けてくれ。できればペゴも連れて」
「何故?」
「……業務だ」
業務、と訝しげに眉を顰めていたが、ソルはそれ以上の言葉を拒むようにベッドから立ち上がり、シャワールームに向かった。
いつもより熱いシャワーを浴びながら、ソルは扉の向こうの気配を聞いていた。テンが宿舎を出る音がするまで、息を潜めて。
シャワーを終え髪も乾かし終わった頃を見計らったかのように来客を知らせるブザーが鳴る。息を殺し、ソルは扉を開いた。周囲を注意深く見回していた男は、ソルが扉を開くのと同時に押し入るように部屋に上がり込む。
「わざわざ来て頂いて申し訳ありません、マルグ大佐」
「思ったよりも元気そうだな」
直立不動のソルの脇を通り過ぎながら、マルグは素早くジャケットを脱いだ。その下から現れた紺色の軍服の胸元には、幾つもの勲章がぶら下がっている。
「酷い尋問だったそうだな。自白剤まで飲まされたと報告書に記してあった」
「いえ……当然のことです」
狭い部屋の中で真っ直ぐにベッドへと向かう背中について行きながら、ソルは一枚一枚剥がれてゆく服を受け取ってはシワができぬよう畳み曖昧な返事を返す。
「身体は」
「怪我はありません」
シャツのボタンを弾きながら、マルグが呆れたような顔で振り返る。
「そうじゃない。触れられたのか」
「あ、いえ」
思わず喉を詰めるソルを見据える双眸の奥で、疑いが揺れて見える。頬に伸ばされた太い指が触れるより早く、ほとんど反射的に身体が強張った。
「どうした、何故拒む」
「拒んでは……まだ、疲労が残っているだけかと。申し訳ありません」
そう言って、ソルは自らベッドに身体を横たえた。これもまた忠誠を試すための儀式のようなものだ。軍はこの行為も把握している。回数まで、全てを。躊躇など自分の首を絞めるだけの無意味なものだ。
重い肉塊が身体に覆い被さる。素肌に触れる感触から逃れるように、ソルはいつもより近い天井を仰ぎながら、ゆっくりと汚れの数を数え始めた。一つ、二つ、三つ──数えるたびに、記憶が奥底から溢れ出てくる。
数の数え方を知ったのは、窓にぶつかる雨粒だった。ひとつ、ふたつ、みっつ──ソウゴの膝に抱かれ、声を合わせて数えながら、指先を重ねて水滴を追いかけた。
うさぎの耳はふたつ。尻尾はひとつ。まん丸の目はふたつあって、心臓はひとつだけ。ふわふわの毛の数は、数え切れなかった。
父を愛していた、父の愛を一身に受けた少年。健やかで、幸福で、穏やかな陽だまりに満ちた日々だった。それが突然奪われた。初めて聞いた、共和国という言葉と共に。
父の罪を知り、立派な軍人になることを夢見た。全ての子供達の安寧と幸福に満ちた未来を守るため──そう言い聞かせようとして、ソルはふと我に帰った。まるで暗示をかけるような、空虚な自分の思考に。恐ろしくなって瞼を伏せる。けれど燃えるように揺らぐ金色の虹彩が、網膜の裏側を焼き尽くす。
自分は一体、何を求めて生きている──その問い掛けが、胸の奥で鈍く響き続ける。
気付かなければ良かった。知らなければ良かった。その現実があまりにも狂おしくて、汗に混じり、温かな涙が目尻を伝って落ちて行った。
マルグが服を元通りに着終える頃には、テンが出て行ってから三時間がとうに経っていた。見送らなくては、そう頭では分かっているのに、指先一つ動かない。マルグは長い尋問と拷問の傷が癒えぬのだと納得しているようで、言葉もなく宿舎を後にした。
それと入れ替わるように扉が開く。音もなく部屋に足を踏み入れたテンと目が合った瞬間、ソルは弾かれるように飛び起きて、乱れたシーツを掻き寄せる。咄嗟に視線を逸らしたのに、状況を認識し、すうっと凪いだ金色の残像だけが焼き付いて離れない。
最も見られたくない相手に、最も見られたくない姿を見られた屈辱と恥辱に、耳の奥が熱くなる。
「何をしていた」
落ち切った声が囁く。その奥底で、重い怒りがうねっているようだ。答えぬまま、ソルはこの状況で誤魔化せるはずもないことを受け入れ始めていた。
「こんなことは間違っている」
「別に、大したことでもないだろう。ただの業務のようなものだ。だから──」
「それが自分自身を低く見なければならない原因だと、自分で理解しているはずだ」
容赦のないテンの言葉に一瞬にして脳に血が上り、指先をきつく握り締める。
「貴様の顔を見ていると引鉄を引きたくなる」
「引いてみればいい。それで君の心が晴れるのなら」
歩み寄るテンから逃れるように、ソルは俯いたまま必死で汚れた身体を濡れたシーツで拭った。もう隠せるはずもないのに、無意識の中で。
「これは卑劣な搾取だ。君にその気がないのなら断固として拒むべきだ」
「拒めるはずがないだろう」
「何故だ」
食うような言葉に、テンは引く気がないのだと悟る。他人のことなどどうでもいいだろうに、物好きな男だ。そう胸の内で悪態をつきながら、ソルはまたひとつ身を固くする。
「イルガーデン特別孤児院、それが俺の生まれた場所だ。ソウゴと言う博士が共和国の工作員を養育するために作った孤児院だ。児童は脳に手を加えられ、共和国の精神を叩き込まれて育つ。その中で一番年下だった俺だけが唯一、何も知らずに帝国の人間として育てられた」
検査では何も見つからず、帝国以外の教育を知らない。信仰を排し、共和国を憎んでいる。
「それでもソウゴの罪が明るみに出た時から、俺はこの国で最も信用のならない人間だ。この国で生きるなら、拒絶などできるわけがない」
ソルがそこまで言い切ると、テンは視線を合わせるように腰を落とした。その音のない動作は、いつでもソルの不安を掻き立てる。
「何故この国を出ない」
「何故出る必要がある。俺はこの国で生まれ、この国のために戦う。この国の平和のためだ」
「それが君の正義か」
その言葉に思わず視線を上げる。金色の虹彩が揺らいでいる。怒りではない、もっと痛々しい感情を抱いて。
「君の正義を貫くために、君はそうやって自らの心を殺さなくてはならないのか」
ソルの手にそっと手を重ねたテンの指先に、静かに力が込められてゆく。
「仲間に嘲笑われ、君を欲の捌け口として使う大人に搾取され、人権を無視し心を暴かれて──それでも、この国のために生きるのか」
「黙れ!」
思いきり投げつけた枕が、テンの身体に当たって床に落ちる。柔らかな綿の詰まった物体が落ちる音が鼓膜に触れた後、少しの間を置いてペゴが顔を上げる小さな駆動音が響いた。
「貴様に、何が分かる。何にも縛られず、何にも蔑まれることもなく、自由に生きてきた貴様に何が分かる!」
しじまに響き渡った叫びは、ソルの心臓を殴り続ける。
全て仕方がないことだと受け入れてきたのに、与えられた環境の中でもがいてきたのに──テンを見ていると怒りにも似た激しい焦燥感に駆られる。
荒い呼吸を必死で宥め、ソルは額に手を当て汗で濡れた髪を握り締めた。
「ペゴを置いて、出て行ってくれ」
小さな足で駆け寄ろうとするペゴを、テンは無常にも抱き上げる。
「今君とペゴを話させるわけにはいかない」
鋭く睨み付け、ソルはまた呼吸を失う。
「これは肯定されるべき行為じゃない」
その言葉を置いて、テンは屈めていた腰を上げ宿舎を後にした。
シャワールームに駆け込んで、ソルは赤くなるほど強く身体を擦り続けた。それで何も変わらないことは分かっている。それでもそうせずにはいられなかった。
洗浄が終われば汚れたシーツを乱暴に剥がしゴミ袋に詰め込んで、ソルは何もかもから逃げるように薄い毛布を頭から被ってきつく瞼を閉じた。疲れ果てた心が緩やかに沈んでゆく。眠りに落ちる寸前の最も幸福な感覚を貪りながら、浅い眠りと朦朧とする目覚めを繰り返す。
何度目かの眠りから目覚め瞼を開くと、まだ夜が明ける前のようだった。サイドテーブルの下でペゴは休眠モードに入っている。向かいのベッドにテンの姿はなく、ソルはゆっくりと周囲を見回した。薄闇の中、窓辺に蛍火が揺れる。ソルが身体を起こす気配に振り返った顔は、紫煙で揺れて見えた。
「頭は冷えたか」
まだ夢の中にいるようなふわふわとした感覚を覚えながら、ソルは小さく頷く。それを見届けたテンは、微笑みを浮かべた。
「少し歩かないか。話がしたい」
拒んでもよかった。意識がはっきりしていれば拒んでいただろう。けれどソルはまた首を縦に振り、ジャケットを羽織って少し足を引き摺るテンの後を追った。
常夜灯すらない僻地の街の夜は深い。目が慣れるまで足元を見ながら慎重に足を運ぶソルと違い、テンは空を見上げながら歩いている。
歩き続けたテンが足を止めた場所は、街外れの小高い丘の上だった。砂が堆積し、微かに盛り上がっているその場所には、大きな岩がひとつだけ寝そべっている。
「今日は大気が澄んでいるから、星がよく見える」
そう言って、テンは岩の端に座り込んだ。痛む足を庇うように、膝を立てて。その様子を側で眺めながら立ち尽くしていたソルに向かい、そっと手が伸ばされる。まだ朦朧としているのだと言い訳をしながら、ソルは手を引かれるままその隣に腰を下ろした。
「この国の星空は美しい」
テンと同じ角度で顔を上げ、目の前に広がる星空に目が眩む。知らなかった。こんなにも星々がひしめいていることを。無数の星がきらきらと点滅し、言う通り美しい銀河が濃紺の空を彩っていた。こんな圧倒的な景色を知らなかったなど、大地ばかりを見詰めていたことを思い知らされる。
「俺のいた森の空には砂つぶが舞わない。だから煌めかないんだ」
無邪気な瞳でソルの顔を覗き込み、再び空を見上げたテンの大きな掌が、すうっと星空を撫でる。その指先を追い掛けるうちに、目の前が拓けてゆく感覚を覚えた。
二人は長い時間星空を見上げていた。間も無く夜が明ける気配を感じながら、ソルはゆっくりとした呼吸を繰り返す。
「俺は部族では厄介者だった。狩の腕は一番だったが、部族の因習に疑問を持っていたからだ」
不意にテンはいつもより静かな声で語り始めた。
「俺の民族は絶滅の危機に瀕している。野良神兵もそうだが、閉鎖された民族にはもっと根本的な問題があった。人は死ぬばかりで血は濃くなり、まともに子供が育たない。老人が増え、子供は減り、遂には血族同士の婚姻すら必要に迫られるほどに」
驚いて振り返る。テンは、やはりただ真っ直ぐに遥か彼方を見詰めている。
「文明を受け入れないことに意味があるのか。他民族の血を拒むことは正しいのか。変化を受け入れないから、民族は滅びようとしているのに。滅びすらも美徳として受け入れている人々に常に憤っていた」
そこまで言うと、ふと自嘲するような笑みが横顔に浮かぶ。
「族長の四男だったから、周囲は無碍にもできず、扱いづらそうだったよ」
簡単に想像できる。こんな男が部族にいたら、随分と迷惑だろう。思わず乾いた笑いが込み上げそうになったときだった。
「俺の許嫁は、腹違いの妹だ」
テンは突然そう切り出すと、遥か彼方に馳せた瞳をゆっくりと細めた。
「愛はあった。大切には想っていた。兄妹として──」
その横顔から溢れ出るものは、自信家で、飄々と自由に世界を旅する未開人などではない。初めてソルはテンを近くに感じた。けれど、それは最も遠い隣だ。
「彼女は出自故の悲しい宿命を悲しいとも思わず、命を賭けて全うしようとしていた。彼女にとってそれは当たり前のことだ。民族のため子を産み育てることが彼女の信念だった。例えそれが、兄との子だとしても」
或いは彼女は、自分を愛してくれていたのかもしれない──そう続け、テンはひどく優しく微笑んだ。
「あの頃の俺には彼女の心が見えなかった。部族の者たちの気持ちも、理解できなかった。だから知りたくなった。あの森にいたのでは知ることができない何かを。世界を旅して、沢山の国を渡り歩き、その地に生きる人々の持つ正義に触れながら、俺の中には何が芽生えるのか知りたかった」
テンの中に何が芽生えたのか、それを知りたいという強い欲求は、喉の奥で引っかかって言葉にならない。ただ今は聞いていたい。この男の声を、その言葉を。
テンの指先が、ひかりはじめた地平線をゆっくりとなぞる。
「君には見えるか。正義の境界線が」
金色の瞳が見据える先に視線を馳せ、ソルは下唇を浅く噛み締めた。
テンの高潔さは、まるで毒だ。ゆっくりと回ってゆく。脳の奥深く、血脈を辿って、心臓まで。
震える指を伸ばし、テンを真似て地平線をなぞってゆく。冷えた頬を伝う涙さえ拭うことなく、無我夢中で、見えないその境界線を求めるように。
知りたい──ここに必死でしがみついているだけでは届かない景色が。
凍り付いた心臓が動き始める。軋むように低い鼓動を轟かせて。全身に巡る血の熱さを感じながら、ソルはただただ地平線を睨み付けていた。




