六 潔白の証明
テンが負傷したことにより前線を離脱したものの、二人はオフィスではなく軍の駐屯地へと運ばれた。提出した映像はすぐに解析され、そして帝国は揺らいだ。長年喉につかえていた小骨が取れるように、疑惑が確信に変わった──それに喜びさえ感じているのではないかと勘繰るほどに、それからの行動は一瞬の休息も与えず行われた。
狭く無機質な部屋。机も椅子も窓もない。息が詰まる閉塞感の中で、もう何時間こうして立たされているのだろうか。帰還してから休む間も無く検査と尋問が繰り返されている。代わる代わる部屋を訪れる尋問官の顔を見るだけで胃液が上がるようになってしまった。
「そろそろ教えてくれないか。君も家に帰りたいだろう」
ため息混じりの耳鳴りがするほど冷たい声に、ソルは真っ直ぐな背筋をまた少し伸ばす。
「私は何も知りません」
「では何故敵国の兵器が君の名を呼んだんだ」
「……分かりません」
分からないんだ、本当に。けれどそれを証明する術がない。
何故こんなことになってしまったのだろうか。何故あの聖骸はソルの名を呼んだのか。何も分からないのに、ソウゴという名が出たことで繋がるはずのない線が無理矢理接続されてしまった。
潔白だ──いくらそう叫んでも、もう二度と信用などされないだろう。
微かな諦念から握り締めた拳に力がこもる。磨き上げられた革靴の踵がコンクリートの床を蹴る音が俯くソルの鼓膜に短く響く。視界に尖った靴先が映り、耳たぶに吐息が触れるほどの距離で低い声が囁いた。
「やはりおかしな話だったんだ。ソウゴ・ササイの最も愛した子供は君なんだからね。特別な命を受け帝国民として生きるように調教されてきたのだろう。君は帝国を内部から破壊しようとしている。認めろ」
ぎゅっと瞼を閉じ、ソルは首を横に振る。
「何の命も受けていません。私はずっとこの国の為、共和国の侵攻を許さぬために──」
言い終える前に顎を乱暴に掴まれ、首筋を駆けた痛みに眉を寄せる。
「では何故聖骸が君の名前を呼んだ。君のバディを撃ち、何故君に向け愛情を模倣するような行動を取った。宝物とは何だ」
「私は、潔白です」
必死で瞼を開き、ソルは尋問官の鋭い双眸を真っ直ぐに見詰め返す。動揺してはダメだ。本当に何も知らないのだから。けれど眠る時間も与えられず、昼も夜も分からぬこの部屋で永遠に続く尋問に、心は砕け始めている。
「君をそこまで強情にしているのは、ソウゴへの愛情か」
鼻先が触れるほどの距離で、尋問官は吐き捨てる。
「アカデミーで習っただろう。奴は帝国を欺き、国家を転覆させるため孤児院など作った挙句、己の欲を貪り食った狂人だ」
ぐっと喉が圧され、ソルは必死で鼻先に上る苦味を飲み下す。父の膝の上に抱かれ、うさぎの絵本を読んでもらった。髪に頬を寄せ、寂しさごと全てを抱き締めてくれた。あの日々が目まぐるしく頭の中で浮かんでは消える。
「頬にキスをする。有り余る愛おしさを持って抱き締める。それは、貴方もご自身の子供に毎日するはずです。他の子供達にも、ソウゴは父として以外の顔を持たなかった。私はただ彼を父と慕っていたに過ぎません」
「アカデミーを首席で卒業した君のことだ、グルーミングくらい分かるだろう」
何も伝わらず、全てを否定される。まるで悪魔の証明だ。気が狂いそうになる。
愛おしかった日々。閉院以来孤独なソルを支え続けた優しい記憶が無惨にも切り裂かれてゆく。疲労と混乱から、涙さえ溢れそうだ。
思わず脱力しそうになるソルの耳元に唇を寄せ、冷たい声が吹き込まれた。
「アカデミーを卒業するまでに百三十七回。相手は十三人。卒業後もマルグ大佐と何をしているのか、こちらは全て把握している」
全身を羞恥の熱が駆け抜ける。燃える頬を隠すように顔を背けるソルを間近で眺めながら、尋問官の薄い唇がゆったりと弧を描く。
「一応にも自分の浅ましさに恥を感じているのか」
浅ましい──そうではない。媚を売っている訳でもない。求められるものを差し出さなければ、生きることさえ許されないからだ。それが例え身体でも、帝国の為ならば苦痛ではない。そう、言い聞かせてきただけだ。
「白状しろ。誰もお前のことを信用などしていない。今素直に罪を認めれば、五体満足で共和国に送り返してやってもいい」
軋むほど歯を食いしばる。握り締めた指先の感覚はもうない。
「その顔はなんだ」
冷えた声に苛立ちを混ぜた尋問官を、ソルは顔を上げ真っ直ぐに見据えた。
「不甲斐ない自分自身への、怒りです」
どれ程悔しい涙を呑んで帝国の未来のために働こうと、出自故に虐げられる不条理。それを跳ね除ける強さがない己への、純粋な怒りだった。
だが、その強情さが軍の苛立ちを煽った。尋問はやがて、容赦のない拷問へ移り変わる。
強い自白剤を飲まされ、現実との境目が分からないままただただソウゴとの優しい記憶を涎と共に垂れ流し、電流を流され痛みに悶えながら、自らの潔白を叫び続ける。
全身を機械で隈なく撫でても、怒号や優しい言葉で揺さぶっても、痛みと緩和を繰り返して攻め続けても、何も持たぬソルから満足なものを得られない軍は、苛立ちからより酷くソルを痛めつけた。
終わらない責苦の中で、ソルは荒野を駆けるうさぎの毛並みを撫でていた。どんな手触りだろう。ふわふわとしているのだろうか。頬を寄せてみたい。抱き締めてみたい。あのうさぎのように、世界を、ペゴと共に──。
ソルの身体検査と尋問は昼夜を問わず繰り返された。イルガーデン創設者であるソウゴの寵児はやはり工作員だったのだと、元々ソルを生かすことに拒絶反応を示していた軍の上層部は沸き立ったが、身体検査も相変わらずクリアが並ぶばかり。
どんな拷問を繰り返しても尚ソウゴが読んでくれた絵本の話ばかりをするソルを前に、現場は混迷を極めた。これ以上は人権に関わるという倫理委員会の忠告を受け解放されてから、ソルは数日医務室で眠り込んだ。ようやく解放されたのは、戦地から帰還し二週間が経ってからだった。
最終検査をクリアしたソルは、同じく長い検査を受けていたペゴを受け取ると逃げるようにラボを離れた。少し歩いた先の廊下で付いてくるペゴを振り返り、胸が痛む。丸い頭の右端に、深い傷が増えていた。まだソルの処遇をどうするべきか上層部では議論が繰り広げられている。しばらく戦地には出られないだろうから、その間に私設兵団の整備班に一度出してやった方がいいだろう。
そんなことを考えながら、ソルはペゴと視線を合わせるように腰を落とす。
「大丈夫だったか、ペゴ。辛かっただろう」
「ワタシハヘイキデス。ソルハダイジョウブデスカ?」
ペゴの小さな手がソルに向かい伸ばされる。それをそっと握り、ソルは小さな息を吐く。
「うん、身体の方は。でも、少し疲れてしまった」
がむしゃらに走り続けた。この国のために。この国を信じて。けれど今は少しだけ、父の膝の上で髪を撫でてもらいながら安心して眠りたい。そんな願望すら湧き上がっている。
「ワタシハズット、ソルノミカタ」
うん、と頷いて、ソルは笑みのようなものを小さくこぼした。
そのままペゴと共に重い足を引き摺りながら駐屯地の建物を出た瞬間、世界の眩しさに眩暈がした。最後に空を見たのはあの嵐の日だった。黄色い砂埃に覆われ、不気味に霞んでいた空。今日は憎いほどの晴天だ。もう少し曇っていてくれれば、少しは心も落ち着いたのに。
ささくれ立った気持ちのまま門を出た所で、目の前の地面に腰を下ろしていた男がこちらに手を振った。
「ソル」
ソルの名を呼び重い動作で立ち上がったその男は、テンだった。少し不自由そうではあるが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。ソルもまたテンに駆け寄って、無意識に眉を寄せていた。
「怪我は」
「弾は貫通していたし、そこまでひどくはない。復帰はもう少しかかると思うが、今のままでも狙撃する分には問題ない」
何も変わらぬテンの乾いた空気に、少し安堵を覚える。
「そうか。丁度いい。俺も軍の方針が決まるまでは戻れない。少し休もう」
まだ多少足を引き摺るテンに合わせ、二人はどちらともなく宿舎への道を歩き出す。
歩き出してすぐ、テンはふと思い出したようにソルを振り返った。
「君は共和国に知り合いがいるのか」
「いない」
生まれてこの方この国を出たこともない。唯一知り合いがいるとすれば、共和国に逃亡したとされている渦中のソウゴただ一人。生きているのか死んでいるのか、それすらも分からない。
「あの野良は君の名を呼んだ。あれは人間の脳の反応ではない。あれは既に脳が壊死していたから。埋め込まれた人工知能による衝動だ。衝動、じゃないか。そういうプログラムだろう」
テンの隙のない考察に、ソルは答えられずに口を噤む。
「共和国は君を探している。何故だ」
ソル自身が知りたいくらいだ。閉院からもう十年近く経つ。会いたいと何度も星に願った。唯一愛された記憶に泣き縋りたい日々を超えた。最も残酷な形で、それを裏切られたようなものだ。
何故ソウゴはソル一人を置いて行ったのだろう。何故他の子供達と同じように扱わなかったのだろう。
深みに落ち込む寸前で、ふと前方から歩いてくる集団に気付く。顔が認識出来る距離まで近付いた瞬間、ソルは思わず足を止めた。
「どうした」
テンもまた不思議そうに足を止め、ソルが見詰める先に視線を投げる。今すぐここから逃げを出してしまいたい気持ちと、一歩も引きたくない意地がせめぎ合う。そうしているうちに、集団もまたこちらに気付いたようだ。
「あれ、おい、ソルじゃないか」
一人がそう声を上げると、立ち尽くすソルに向かい大股で歩み寄る。埃一つない、ノリの効いた紺色の軍服。磨き上げられたブーツも、泥などどこにも付いていない。先日暇つぶしに眺めていたマガジンに載っていた、アカデミー時代の同輩だ。昇進したことがよほど誇らしいのか、一つ増えた胸の勲章を見せ付けるように胸を張っている。
「久しぶりだな、こんな所で何をしている」
同輩であった赤毛の少年がソルの服の裾を指先で摘み、片頬を引き上げた。
「それが私設兵団の戦闘服か。随分と汚いな。サイズが合っていないようだが、新品を用意してもらえなかったか」
あからさまな侮蔑に周囲がどっと湧いた。尋問の間は検査着で過ごしていたが、今朝返されたソルの服は戦地から帰った時のまま。擬似体液が酸化して黒く変色し、言う通り埃まみれで汚れている。
「それにしてもアカデミーを首席で卒業したエリートが最前線で未開人のお守りとは。所詮は教官に媚を売って稼いだだけの成績か」
腹の底が熱く疼く。こめかみが引き攣る感覚を覚えながらも、ソルは口を真一文字に結んだまま瞳だけを尖らせ少年を睨み付ける。
黙っているのをいいことに、少年はソルの頬に手を伸ばした。その舐めるような手つきは、品のいいその少年とは掛け離れたあまりにも下品なものだ。
「またその可愛い顔を使って懇願したらどうだ。僕を軍に入れてください。どこの穴でも好きなだけ使ってください、ってな」
その言葉に、耐えていたものがぷつんと切れた。一瞬にして燃え上がった怒りに任せ、ソルは頬に触れていた少年の手を乱暴に払いのける。勢いのままサイドアームに手を伸ばしたのと同時に、テンによって手首が掴まれた。振り払おうにも、痛むほど強く握り締められぴくりとも動かない。
恨みがましく睨め上げた瞬間、ソルは思わず呼吸を止めた。金色の虹彩が、輝くほどに揺れていたから。
「君達が羨むアカデミーでの最高評価は、教官に媚を売れば得られるものなのか」
低く落ち切った声で、テンがゆっくりと言葉を紡ぐ。その圧倒的な気配を前に、同輩達までもソルと同じように呑み込まれている。
「だったら君たちもやればよかったじゃないか。それだけで卒業してからもそうやって妬む輝かしい評価が得られたのだろう。何故やらなかった」
風が抜けてゆく。鼓膜を叩きながら。
「実力以外の評価がアカデミーでの成績を左右するのなら、そんなものに価値はあるのか」
何にも遮られることのない力強い声だった。
負け惜しみを言いながら逃げ去る集団を見送って、テンがソルを振り返る。その瞳には、まだ怒りが渦巻いているようだった。
「君は自分を安く扱いすぎる」
握られていた手が離れ、熱い体温を失い冷えてゆく。
「もっと冷静にならなければ駄目だ。同じ土俵に乗るな。君は何の為に耐えてきた。君は優秀だ。誰よりも努力を重ねたから、そうだろう。それは君が一番分かっているはずだ。だったらその握り締めた拳に誇りを持て」
何故テンにそんなことを言われなくてはならないのか、持て余した怒りのままテンを睨み付ける。けれど燃える双眸は、決してソルを離さなかった。
「呼吸を整えろ。心を静かに、自分の心と向き合うんだ」
その力強い声が鼓膜を震わせるたび、どうしてだかソウゴの顔が蘇る。
「君は何を求めている」
問われた瞬間、長年ソルを抑え込んでいた箍がかたん、と音を立てて外れた。
「え、あっ」
ぎょっとしたように目を丸くして、テンが慌てふためきながら親指でソルの目尻を拭う。けれどそんなもので止まるわけもなく、後から後から大粒の涙がぼろぼろと落ちてゆく。
「参ったな、泣かせるつもりじゃなかったんだが」
「ナカナイデ、ソル。ワタシガイマス」
テンが珍しく狼狽えながら、きつく睨み付けるソルの顔を覗き込む。
「怒った訳じゃない、少し、腹が立っただけだから」
てのひらで、指先で、涙を拭いながら、テンは取り繕うように微笑んだ。
「そうか、疲れているんだな。よし、今日は美味い食事を作ってやる。沢山食おう。何が好きなんだ、ソル。肉か、魚か?」
強い腕に肩を抱かれながら、ソルはただただ真っ直ぐ前を睨みつける。握り締めた拳は解けないまま、止まらない涙の熱さを感じていた。




