『テラリウム』
ディスプレイにログが流れる砂噛みのような音と、冷却ファンのうるさいモーター音。ほかには何もない。
匂いもしない。それとも、もう鼻が慣れてしまったのかもしれない。
「おはよう、アイリス」
その声に瞼を開き、電動ベッドのボタンを押す。駆動音と共にベッドが持ち上がり、くるりと右を向いた。
「おはよう、パパ、ママ」
か細い声がマイクを伝い、全面に張られた硝子の向こうへ届けられる。両親は、その声に微笑んで手を振った。
「アイリス、今日は珍しい花が咲いたんだよ。どこに飾ろうか」
父が手にしている鉢には、青紫色の大輪の花が誇らし気に咲いていた。
「わあ、とっても綺麗」
硝子の向こうには、たくさんの鉢植えが置かれている。その右中央辺りをアイリスは指差した。
「そこがいいな。そこなら他の子と仲良くできそう」
父は頷くと、アイリスが指定した場所に鉢を置いた。
今日の天気や、植物園の様子。両親の今日の予定を聞いて、手を振って別れる。面会は一日に三回。時間は十五分と短い。両親だって忙しいのだろう。
吐息を漏らし、硝子に向いていたベッドを元の位置に戻す。そのままもう一眠りしようとボタンに手をかけたところで、頭上のモニターが起動した。
「アイリス、おはよう」
アイリスの顔が華やいで、モスグリーンの瞳にも光がさした。
モニターに映る黒いうさぎ。毛並みがよくて、大きなリュックを背負っている。大好きな絵本の主人公だ。
「おはようソウゴ」
「ご機嫌だね」
ふふ、と肩をすくめ、アイリスは硝子を指差した。
「新しいお花だよ」
「とても綺麗だ」
父が選んでくれた花を褒められて、アイリスは誇らしかった。
「新しい本を贈っておいたよ。昼寝から目覚めたら読むといい」
「いつもありがとう、ソウゴ」
「それじゃあおやすみ、アイリス」
モニターが切れ、再び人の気配が失せる。ベッドを倒すと、時間ぴったりに電気が落ちた。
ディスプレイにログが流れる砂噛みのような音、冷却ファンのうるさいモーター音──その中で眠りに落ちる。それがアイリスの毎日だった。飽きるほど変わらない景色の中で、眠って、目を覚ます。
けれど、その変わらない景色が少しずつ歪み始めた。新しい花の鉢もしばらく増えていない。代わりに、水が枯れ、葉先が乾いた鉢だけがひとつ、ふたつと増えてゆく。硝子の向こうが、荒野へと変わってゆくようだった。
戦争が始まっているのだ。この国と、帝国との。
右側一面に張られた硝子から視線を手元に戻し、アイリスはタブレットの画面に映る自分の顔を見下ろした。
不健康な顔だ。まだ十二歳なのに、老人のよう。痩せこけて、可哀想なくらい萎びている。
指先で頬骨をなぞると、画面がふ、と立ち上がった。ずらりと並んだ図鑑や絵本。大人が読む小説も、もう読み尽くしてしまった。
「自分で本でも書こうかな」
唇を尖らせてそう呟くと、頭上のモニターの中でうさぎが首を傾げた。
「どんな本を書くんだ」
「花に囲まれた、王子様の話とか──」
そこまで言って、アイリスは口をつぐんだ。指先をいじりながら、夢見がちすぎた自分を恥じる。父以外の男の人なんて、ほとんど見たこともないのに。
けれどモニターの中のうさぎは、優しく頷いた。
「素敵な話になりそうだ。どんな王子様?」
ぱっと顔をあげ、アイリスは頬を緩める。
「前に話してくれた、ソウゴの子供をモデルにしようかな。白金色の髪に、碧い瞳の男の子。白いお花は似合うかな?」
うさぎの身体が小さく揺れる。
「ああ、きっと似合うよ」
一間置いて、優しい声がそう答え、アイリスはまた頬を緩めた。
けれど硝子の向こうに視線を流した瞬間、その笑みが沈み込む。枯れた花が、横一列に並んでいる。
「……パパとママは?」
毎日決まった時間に顔を見せてくれていた両親が、もう二週間も来ていない。
長い耳が、わずかに揺れる。
「光に還ったんだ」
ソウゴの声が優しくなるほど、胸が砂を噛むように軋む。アイリスは知っていた。巡礼地の上に、敵国があることを。
「そっか」
そう呟いて、アイリスの瞳は枯れた花弁の輪郭を撫でる。
「私は、どこへ行くのかな」
この魂は、どこを彷徨うのだろう。一歩でもこの部屋を出ることの叶わないアイリスは、巡礼などできるはずもない。
「どうして信仰を捨てたのに、あの場所にこだわるの?」
ソウゴは答えない。モーター音だけがやけに耳に煩かった。
沈黙を埋めるように、アイリスはぽつりと溢した。
「帝国はいじわるな国なんだね」
譲ってくれればいいのに。そう拗ねるアイリスに、ソウゴは優しい声を投げる。
「帝国の人たちにも、正しいと信じるものがあるんだよ、アイリス」
「正しいと、信じるもの?」
「そう。私たちが光を信じているのと、よく似たものかな」
ふうん、と呟いて、アイリスは手元に視線を落とした。
何度も読んだ、大好きな絵本。ソウゴと同じ姿の、黒いうさぎ。世界中を旅して、たくさんの傷に触れて、宝物を見付けて涙を流して笑うあの顔が、ふとアイリスの網膜の裏で蘇る。
「ソウゴ、私も神兵になりたい」
両親のように、愛する人を残したまま消えてしまいたくなかった。まだこの世界に触れていたかった。
「それは、できないよ」
低くなった声に、アイリスは顔を上げる。
「アイリスはまだ子供だから」
二十五歳以上でなければ神兵にはなれないという法律は知っている。けれど、アイリスには時間がなかった。
「でも私は子供のまま、この部屋で死んでしまうよ。あと何年、あと何ヶ月、あと何日生きられるかわからない」
日に日に起きている時間が減り、身体は痩せ細る。萎びた身体は、立ち上がる力さえない。
「まだ見たことないものがたくさんある。触れたいものだって、知りたいことだってあるよ」
薄いシーツに爪が食い込む。柔らかな繊維さえ、痩せた皮膚には鋭さを残す。
「可能性があるのなら、自分の目で世界を見たい。自分の肌で風を感じたい」
ソウゴは何も言わなかった。ただ長い耳だけを、微かに震わせていた。
特例が下ったのは、それから僅か三日後だった。それは、アイリスに残された時間があまりにも少なかったからでもあった。
機械と硝子に囲まれた部屋で、アイリスは身体を横たえたまま天井を見詰めていた。
モニターの中のうさぎが、かすかに細い髭を揺らした。
「明日だね。体調を整えないと」
優しいソウゴの声に、力の入らない指先を握り込む。
「ねえ、ソウゴ。私は私でいられるかな」
声は震えていた。
「大丈夫だよ、アイリス。好きなものをたくさん思い浮かべてごらん」
その言葉に背中を押され、アイリスは優しい記憶を撫でてゆく。
「私はアイリス。植物と絵本が大好きな女の子。パパとママに愛されて生まれたの。ソウゴのことも大好きだよ。お話ししてくれてありがとう。絵本も、たくさんありがとう」
丸い瞳が瞬いた。
「私はね、アイリス。一人っきりで生きてきたけど、不幸なんかじゃない。私にはたくさんの夢があるから。世界を旅して、色んな人とお話しして、見たことのない植物に出会うの。お花もたくさん見付けて、植物学者になりたいな」
胸に手を当てて、瞼を閉じる。
「それでね、毎日大好きな人の腕の中で、幸せいっぱいの眠りにつくんだ」
白い花が似合う、白金色の髪の、碧い瞳の王子様。
アイリスは閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
「もう、怖くないね」
痩せた頬を持ち上げて笑ってみせる。その目尻からこぼれた涙が、とても温かかった。
「ゆっくりおやすみ、アイリス。目が覚めたら、君が望む世界が待っているよ」
優しい声に深く頷いて、薄いシーツに潜り込む。
いつか、きっと、自分の足で自由に旅をするんだ。まだ見ぬ大切な人と一緒に。そう願いながら、アイリスは瞳を閉じた。
この硝子の向こうに、目が眩むほどの広い世界が待っていることを信じて──。
了




