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BORDER  作者: 鴻上縞
番外編
30/30

『愛と罪の道化』

 荒野に吹き荒ぶ風が、泣いている。彷徨う幾千もの魂を抱いて。擦り切れた外套を掻き寄せて、ソウゴは乾いた大地に涙を落とす。けれど踏み出した足は力強く、黄色い砂を蹴り上げる。その瞳はまだ、希望を宿し燃えていた。


 荒野に怯え死んでいった共和国の人々。これから生まれてくる子供たち。国を旅立ってから、広がる荒野を踏み締めるたびに胸の奥で叫ぶ声は大きくなるばかり。


 我らの魂は、必ず光へと還るのだ──。

[pagebreak]

「お父さん」

 その声に瞼を開き、ソウゴは突然若き日の夢を奪われ、数度瞬きをした。見慣れた院長室の窓辺に、少年が一人佇んでいる。自分によく似た撫で肩の、黒い髪の少年。まだあどけなさの残る顔は、けれどどこか大人びた憂いに揺れている。

 息子か、そう気付き、ソウゴは力を抜いて背もたれに身を預けた。決して重くはない身体を預けると、古びた椅子が軋んだ。その悲鳴が、長く一人の男を支えてきたことを訴えているようだった。

「アルバ、勉強はどうした」

 その言葉にすっと凪いだ瞳は、何を思うのか。

「少し休んではどうですか。ここのところ働き詰めですよ」

 ため息混じりにそう吐いて、アルバは締め切られたカーテンを開いた。夕陽が鋭くその黒髪を染める様を、ソウゴは何も言えずに見詰める。

「母さんは、悲しんでいます」

「何を悲しむことがある。死した者に心などない」

 物言いたげな瞳をこちらへ向け、アルバは踵を返した。小さな背中を見送って、ソウゴは随分と色褪せた天井を仰ぐ。


 先月、病で妻を失ったばかりだ。まだ十三歳のアルバにとって、その現実はあまりにも重いはずだった。だが帝国には、死後を信じる信仰はない。この地に身を置き、帝国民として息子を育てている以上ソウゴにはそう言ってやることしかできない。


 しかし、ソウゴの胸も決して凪いではいない。この地での信頼を築くための結婚。感情など挟む余地はなかった筈なのに──十四年の歳月は、人の心をこうも変えてしまうのか。

 妻の顔がぼやけてゆく。共和国で学んだ祈りの言葉さえ、口の中で砂のように崩れる。


 アルバは聡明な子だった。母の死に塞ぎ込まず、冷静に現実を捉えている。子供らしくはないが、ソウゴにとっては手を煩わせない、いい息子だった。構っている暇などないのだから。


 院長室を出て、地下へと続く隠し階段を降りる。何重もの鉄扉を開いた先──眩い光を放つ環光のシンボル。その前で、たくさんの子供たちが机に向かい学んでいる。

 戦争と共に帝国に溢れた孤児たち。社会の底で朽ちるはずだった命を、ソウゴは拾い上げた。共和国の精神を教え、帝国の内側に静かな目と耳を育てるために。


 補助的人工知能を埋め込むために子供たちの脳を開くたびに、指先が震えた。メスを握る手は正確だったが、その夜は必ず吐いた。便器を抱え、胃の底から込み上げる酸を吐き出しながら、ソウゴは祈った。赦してくれ、と。

 だが止まれない。止まることはできない。長きに渡り魂が還るべき場所を奪われている現実が、ソウゴの心に血を流させ続けていた。


 大義のために子供の脳に刃を入れる。その矛盾に潰されないために、ソウゴはいつしか、道化の面を被るようになっていた。

 子供たちの前では優しい院長先生。帝国の役人の前では従順な施設長。共和国との秘密回線の前では冷徹な博士。どの顔が本当の自分なのか。いつしか分からなくなっていった。


 子供たち一人一人の額に手を当てて体温を確かめる。名前を呼び、それぞれの長所を褒めてやる。子供たちの瞳が嬉しそうに煌めくたびに、胸の奥が軋んだ。

 この子たちは何も知らない。この孤児院での幸福な日々が、ソウゴの罪の上に咲いていることを。


 時は流れ去る。ソウゴの肩に罪だけを重ねながら。

[pagebreak]

 アルバは十七歳になった年、帝国軍のアカデミーを卒業した。成績は中の上、取り立てて目立つものではない。けれどアルバは、父が共和国の工作員であることを知らぬまま、帝国の若者として真っ当に育った。

 卒業の日、ソウゴは式には出ずに、地下で子供たちの授業を見ていた。


 アルバが王都での式を終えて院長室に顔を出したとき、ソウゴは机に向かったままだった。

「卒業しました」

 そうか、と返すと、小さく息を呑む音がしじまに虚しく響いた。

「僕は樹海へ配属されます。もう、あまり会えなくなります」

 距離を置いて放たれたその声に、ソウゴはペンを止めた。顔は上げなかった。顔を上げれば、何かが崩れる気がした。

「気を付けろ」

 喉から搾り出した言葉は、それだけだった。

 アルバの足音が遠ざかり、扉が閉まる音を聞いて、ソウゴは初めてペンを置いた。部屋は静まり返っていた。


 窓の外に視線を投げると、孤児院の門に向かいアルバが歩いてゆく背中が見える。あの撫で肩は自分に似ている。歩き方は、妻に似ていた。帝国の軍服を纏い、帝国の正義を信じて戦地へ向かう、自分の息子。

 ソウゴの指先が、机の角を掴んだ。爪が白くなるまで力を込めて、それでも声は出なかった。


 アルバの戦死を知らされたのは、その四ヶ月後だった。


 軍の使者は事務的にそれを告げ、書類に署名を求めた。ソウゴは震えもせずにペンを走らせた。使者が去った後も、ソウゴは椅子に座ったままだった。

 帝国には葬儀がない。魂などなく、死した者は物体として資源処理される。アルバの身体は死体処理場に運ばれ、他の戦死者と共に焼却されたのだろう。骨も灰も、残らない。

 アルバは帝国の人間として死んだ。帝国の正義を信じ、帝国のために命を捧げた。自分がそう育てたのだ。この国で、アルバが生きるために。


 その夜、ソウゴは地下に降りた。子供たちが眠った後の教室は、環光のシンボルだけが静かに光を放っている。

 冷たい床に膝をつき、ソウゴは冷えて湿った床に額を押し当てた。祈りの言葉を唱えようとした喉は潰れ、唇は動いているのに、音にならない。

 アルバの顔が網膜の裏側に浮かぶ。カーテンを開いた横顔。母さんは悲しんでいます、と言ったあの声。死した者に心などない、と答えた父を見詰める、深い瞳。

 あの時アルバは何を思っただろう。父の言葉を信じただろうか。それとも、父の目の奥に揺れるものを、見抜いていただろうか。


 環光の光が、滲んで拡がってゆく。ソウゴは声もなく、ただ床に伏したまま、帝国の大地に向かって祈った。神の御許に、愛する息子の魂が届くようにと。叶うはずのない祈りを、それでも祈り続けた。

[pagebreak]

 年月は容赦なく過ぎた。孤児たちの中から軍や行政機関に潜り込む者が現れ、少しずつ成果が見え始めていた。補助的人工知能は自白剤に耐え、尋問をかわし、帝国の中枢に静かに根を張った。ソウゴの計画は、狂気じみた忍耐の末に実を結びつつあった。

 だが同時に、不穏な気配も膨らんでいた。軍の情報部が孤児院に関心を持ち始めている。直接的な疑惑ではない。だがこれ以上は長くもたないと、ソウゴの本能が告げていた。

 孤児院を畳み、逃げる道も考えなければならない。脱出経路の確認、協力者との最終連絡。ソウゴは全てを整え始めていた。


 運命が動いたのは、そんな折だった──。


 軍の福祉局から、一人の乳児が運び込まれた。戦災孤児だという。身元不明、推定月齢六ヶ月。担当者は書類を置くと、足早に去って行った。

 覗き込んだ簡素な揺り籠の中、痩せた赤子が目を開けている。泣いてもいない。ただ天井を見つめている。その瞳にソウゴの影が映り込んだ瞬間──赤子は、笑った。

 歯のない口を大きく開けて、細い指をソウゴに向けて伸ばす。反射的に差し出した人差し指を、驚くほど強い力で握り締めた。


 その手の温かさが、罪に冷え切った指先を焼いた。


 ソウゴは赤子を、他の孤児と同じようには扱えなかった。脳に手を加えることもしなかった。地下の教室には一度も入れず、帝国の人間として、帝国の教えの中で育てた。

 白金色の髪に、碧い瞳の子供だった。よく笑い、よく泣いて、その奔放さは、壊れたソウゴの心をあたたかく包み込んだ。


 ソル──ソウゴはその子供に、古い異国の言葉で、太陽の意味を持つ名を与えた。


 膝に乗せて絵本を読んだ。うさぎが世界を冒険する話を、飽きもせずに何度も。ソルは絵の中のうさぎの毛並みを、小さな指でいつまでも撫でていた。

「この子はひとりだけ黒い毛並みなんだ」

 そう教えると、ソルは真剣な顔で頷いた。兄弟にいじめられて森を飛び出したうさぎが、世界中を旅して宝物を見つけるありきたりな話。けれどそれは、ソウゴがソルのために書いた、たった一冊の絵本だった。

 頬にキスをすると、ソルは高い声を上げて笑った。その笑い声が、掻き毟るように胸を灼く。この子を愛してはいけない。愛すれば、また失う。愛すれば、この子もまた自分の罪に巻き込まれる。

 分かっていた。分かっていて、髪を撫でる手を、抱き締める腕の力を緩めることができなかった。亡くした息子を重ねるように、愛してしまった。


 沢山遊んで、沢山笑って、どんな境遇の人にも手を差し伸べられるような、優しい子になるんだよ──かつてアルバにも言えなかったその言葉を、ソウゴはソルに幾度も伝えた。

 いつか真実を知ったとき、ソルが自分は愛されなかったのだと、絶望に打ち拉がれてしまわないように。


 ソルが八歳になった頃、事態は急を告げた。

 軍の監察部門が、孤児院の卒業生の行動パターンに不審な一致を見出したという情報が入った。直接イルガーデンに捜査が及ぶのは時間の問題だった。

 ソウゴは最後の準備に取り掛かった。ペゴ──ソルの五歳の誕生日に贈った、おしゃべりドロイド。その奥深くに全てを仕込んだ。ソルがいつか帝国の正義を疑ったとき、自らの意志で世界に踏み出すための鍵を。

 アルバには道を作ってやることができなかった。帝国の正義をそのまま信じさせ、その正義の中で死なせた。同じ過ちは繰り返さない。ソルには、どうか幸福な道を。そう願うことさえ罪深いことを知りながら、ソウゴは祈り続けた。


 ペゴの内部を閉じ、丸い頭を指先で撫でる。休眠モードから目を覚ましたペゴは、愛らしい大きな瞳でソウゴを見上げる。

「ペゴ、お前はソルの友達だ。ずっと、ソルの味方でいてくれ」

 ペゴは小さな駆動音とともに頭部を開閉させた。

「ワタシハ、ソルノミカタ」

 ソウゴは深く頷いてみせる。


 帝国軍の摘発は、ある朝突然に来た。


 子供たちを地下から逃がし、証拠を焼き、最後に院長室に戻った。机の引き出しの中、ソルが描いた絵が一枚。ソウゴとソルが手を繋いでいる。太陽が大きく描かれている。その絵を胸に押し当て、ソウゴは一度だけ目を閉じた。

 逃げなければならない。ソルを連れてゆくことはできない。帝国に残せば苦しむだろう。疑われ、虐げられるだろう。それでも、帝国の人間として生き残る道はある。いつか世界の真実を知り、歩き出せる可能性だけは残せる。

 ソウゴはそう信じた。信じたかった。


 まだ眠っているソルの部屋の前で、ソウゴは足を止めた。扉に手をかけ、指先がノブに触れる。けれどそれ以上の力は入らず、静かに手を引いた。

 ソウゴは絵を折り畳み胸ポケットに入れると、振り返らずに歩き出した。地平線を切り裂いて昇る朝陽が、孤児院の長い廊下に影を落としている。


 ソウゴは歩き続けた。あの荒野を歩いた日と同じ足取りで、黄色い荒野を。けれどもう、その胸に希望は宿っていなかった。

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 共和国に辿り着いたソウゴを待っていたのは、英雄としての歓待と、更なる深淵だった。イルガーデンで得た成果は指導層を興奮させた。帝国内部に潜り込んだ工作員たちの情報。そして長年蓄積された、脳と機械の融合に関するデータ。吐き気を抱えたまま、ソウゴはその全てを差し出し、ある提案をした。


 荒野を彷徨い続ける魂を救うために──人間の脳を機械の身体に宿し、巡礼地を奪い返せるその日まで、魂を保管する器を作ることはできないか。


 人々はその提案を強く拒絶した。人間の脳を機械に入れる。それは生命への冒涜であり、信仰の歪曲だ。魂は光に還るべきものであって、機械の中に閉じ込めるものではない。けれどソウゴは折れなかった。

「一体あと何年、何百年我々は荒野に怯えなければならない。魂を光へと還すために、今動かなければならない」

 声は震えていた。子供たちの脳にメスを入れた夜の嘔吐を、指先の震えを、便器に縋りながら唱えた祈りを、何一つ忘れてはいない。

「私が実験体となる。この手で殺してきた愛する我が子たちを、二度とこの手で抱き締められないように。私から肉体を取り上げてくれ」

 その決意を前に、もう反論する者はいなかった。


 それからソウゴは眠れない日々を過ごした。環光のシンボルを見つめながら、幾度も祈り、幾度も吐いた。アルバの顔が浮かぶ。帝国の大地に祈った、届くはずのない祈り。もしあの時、器があったなら。アルバの魂は、光に還れたのだろうか。

 それは懺悔だった。アルバを死なせた罪、子供たちの脳を弄んだ罪、ソルを置いてきた罪──その全てを、自らの肉体を捨てることで贖おうとした。

 だが本当は知っていた。それもまた道化の面に過ぎないことを。身体を捨てれば楽になれる。ソルを抱き締めたいという衝動から解放される。あの小さな手の温度が、もう指先を灼かない。それは贖罪のふりをした、逃避だった。


 手術の日、ソウゴは最後に自分の手を見つめた。皺が刻まれ、爪の間には薬品の染みが消えずに残っている。この手で子供たちの脳を開き、この手でソルの髪を撫で、この手でアルバを送り出した。

 指を握る。開く。もう一度、握る。その感触を記憶に焼き付けようとして、既に感覚が遠のき始めていることに気付く。メスが頭蓋に触れる冷たさを最後に、ソウゴの世界は閉じた。


 培養液の中で、ソウゴは目覚めた。目覚めたという表現は正しくはない。視覚はないが、外部装置を通じて映像は流れ込んでくる。聴覚もまた同じ。触覚は、もうどこにもない。温度がない。重さがない。指先がない。

 ソルの髪を撫でた感覚を思い出そうとして、何も再現できないことに気付いたとき、ソウゴは初めて自分が選んだものの重さを知った。

 それでも脳は生きている。思考は明晰で、記憶は鮮明だ。むしろ肉体の雑音が消えたことで、思考だけが澄み渡るように冴えてゆく。


 皮肉なことだった。肉体を手放したソウゴの頭脳は最高の性能を発揮し始めた。神兵の設計は加速した。人間の脳を核とし、補助知能と機械の身体で構成される、魂の仮の置き場。反対意見を持っていたものも、皆神兵になった。

 だが問題もまた、ソウゴ自身の中で露呈した。人間の脳は、身体を失ってもなお、かつての身体を求め続ける。幻肢痛のように、存在しない手が痛み、存在しない胸が疼く。

 ソウゴは培養液の中で、ソルの指が自分の人差し指を握る感触を、何度も何度も再生した。やめようとしてもやめられない。補助知能がそれを観測し、記録し、ソウゴの精神状態の警告を静かに点滅させ続けた。


 人間は想定以上に脆かった。魂は──崩壊する。その事実を、ソウゴは誰よりも早く理解した。自分自身が証拠だったのだから。

[pagebreak]

 絶望の中で年月は流れた。神兵は法整備と共に実用化され、旧型から新型へと世代を重ねた。ソウゴの脳は培養液の中で老いてゆく。思考は依然として明晰だが、時折、記憶が不自然にループする。


 アルバの横顔。ソルの笑い声。妻の──妻の顔が、思い出せない。


 外部装置を通じて届く報告の中に、ソルの名前を見つけることがあった。イルガーデン特別孤児院出身、私設兵団所属。検査をクリアし続けている。尋問にも屈していない。英雄プログラムは、ソルがここに辿り着くまで、ソルを守るために動き続けるだろう。

 ペゴはまだソルの側にいる。あの小さなドロイドの中に埋め込んだものは、まだ開かれていない。ソルはまだ、帝国の正義を信じている。それでいい、とソウゴは思った。


 ただ会いたかった。存在しない腕で、もう一度だけ抱き締めたかった。うさぎの毛並みを撫でていたあの温かい指が、自分の冷たい指を握ってくれるのなら。

 培養液の中で、ソウゴは静かに祈り続けた。いつか帝国の正義に沈む太陽が、この罪深い魂を荒野に解き放つ日を願いながら。


 どうか愛する太陽よ、自らの意志で歩き出せ。あのうさぎのように、世界へと──。



これにて完全完結となります。

ここまでお読み頂きありがとうございました。

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