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BORDER  作者: 鴻上縞
番外編
28/30

『金色の荒野』

 大地が吸い込んだ水を霧にして吐き出す樹海は、さざめきが呼吸のように響いている。葉群の隙間を縫って降り注ぐ光の筋が、この森を神聖化していた。


 まだ日が低い早朝──湿った空気にうねる髪を高い位置で結び、テンは素早く大木をよじ登った。安定した太い枝に腰をか下ろし、うろを覗き込む。何世代に渡って引き継がれてきたうろの中、子を守る親鳥。巣を覗き込む見慣れない敵の姿に、嘴を大きく開け悲鳴を上げて威嚇している。

 大樹に茂る葉の脈のように、命は全て繋がっている。その信仰は、森で生きていると骨に染みて感じられる。

「少しだけ」

 テンはそう呟いて、高い声を上げる雛鳥を覗き込んだ。


 孵ったばかりの雛鳥はまだ羽毛が生えず肌色で、骨組みに肉を貼り付けたような姿はあまりにも不恰好。けれどこれがこの鳥の真っ当な姿だ。成長すれば、今テンを睨み付ける親鳥と同じように、鮮やかな藍色の鳥になる。これが、普通だ。


「テン、何をしている」

 遥下方から投げられた声は、わずかに温まった心から途端に温度を奪っていった。

「今日は狩の日だ。遊んでいないで準備をしろ」

 返事をせず、テンは耳を塞ぐように眉を寄せた。一番上の兄は、その態度に鋭い金色の瞳を尖らせ踵を返した。


 黒い紋様で埋め尽くされた広い背中や、逞しい腕。十五も離れた、不恰好ではない兄。

 幹に触れた指先に力がこもる。爪の間に苔が入り込む冷たさに、テンは唇を噛み締めた。


 木から降り、テンは肩を落としたまま兄が去った方へ歩いた。少しもしないうちに、森が開ける。木を組み上げた家々の中心では、すでに沢山の人が群れている。

 点在するヒィメル族の集落の中で、ここは最も大きな部族だった。けれどそれを誇りに思ったことなど、テンは一度もなかった。

「早くしろテン。お前が最後だ」

 兄に急かされ、横一列に並ぶ子供たちのはじに加わる。その誰もに目を向けないようにしていたのに、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が鼓膜を殴り、テンは拳を握り締める。


 今日は八歳の子供たちが初めての狩を行う祭事の日。だがまともに狩ができるのは、テンの他二人だけだろう。奇声を上げた子供は大人に連れて行かれる。毎年見る光景だ。


 この森が育んだ、悲しき命の姿。自然と共に生きてきたのに、自然の中では生き残れぬ人々の姿は、テンにとって狂おしいものだった。


 祭事は滞りなく進む。飛ぶ鳥を射落とす試練を八つで合格できるものは、健常な子供でも殆どいない。だがテンは自身にかかる期待を知っていた。それに応えられる腕があることも。


 息を殺し、弓を引き絞る。あの鳥は向かう方向へ身体を向けて飛び立ち、しばらくは真っ直ぐに飛行する習性がある。木の枝から右へ──鳥が飛び立った瞬間、痺れた指を離す。ひゅっと風を切る音と共に矢が疾る。木の鏃は真っ直ぐに腹に突き刺さり、鳥は空から森へと落ちて行った。

 この森で生きるための通過儀礼。部族を支え守る狩人として認めてもらうための。一羽の鳥の命が、その生贄だ。


 祭事の終わり、今年唯一試練を乗り越えたテンは、沸き立つ人々に囲まれ部族の呪術師の前に座らされた。

「そなたは部族の誇りだ」

 周囲から湧き上がる喜びの声。右手の指に施される刺青は、一人前の狩人の証。肌を刺す棘の痛みは、命の重みだ。こうして、指先から呑み込まれてゆくのだろう。


 黒い紋様から齎される鈍い熱とひりひりとした痛みから逃れるように、テンは呪術師の元を離れ集落を駆け抜けた。向かった先は、鳥の巣の下。テンのお気に入りの木の根本。

 腰を下ろし、指先を見詰める。これからこの紋様が身体を蝕むように埋め尽くす。大人たちと同じ、この民族の男になるのだ。そう思うと、怖くて堪らなかった。


「テン」

 不意に小鳥が囀るような涼やかな声に呼ばれ、テンは顔を上げる。癖のある髪を綺麗に結った、まだ年端もいかぬ少女が少し息を切らして立っていた。

「テンは、やっぱりすごいね」

 そう言って無邪気に笑った少女の黒い髪も、金色の瞳も、自分のものとよく似ている。

「すごくなんかない」

 命をひとつ、この身体に刻んだだけだ。

「テンは太陽が愛した子なんだって、みんな言ってる」

「そんなんじゃない。ただ、健康に生まれただけだ」

 それだけで、この村では持て囃される。何か言いたげな少女を残し、テンは足早にその場を離れた。


 次の日の明け方、テンは国境に足を伸ばした。国境の樹海で、共和国と帝国の戦争が行われている。

 装甲車が木々を薙ぎ倒す音。爆撃の風に乗って届く、人が焼ける匂い。命の悲鳴で森が戦慄いている。


 どうして人は争うのだろう。その答えを、テンは知っている。平和など夢物語だということも。


 ヒィメル族が帝国の保護下に置かれたのは随分と昔のことだ。もはや言葉すら失われたこの森で、一体何を守るというのか。

 最も愚かなやり方で滅びに抗う民族を前に、テンにはまだその答えがわからなかった。


 民族の教えは愛している。だが、だからこそ、憂いはより強く腹の底で腐ってゆく。

[pagebreak]

 時が経ち、樹海が最も深く深緑の色に煌めく頃。テンは十五歳となり、青年の儀を迎えた。


 夜の宴に向け慌ただしい集落から離れ、テンは一人大木の影に腰を下ろし耳を欹てていた。最近、爆撃音は聞こえない。帝国兵も彷徨かなくなった。かわりにこの森を、不気味な存在が歩くようになった。

 痛みのない肌。人工の髪。精巧な人間を模した、なにか。服の胸元には、環光のシンボルが印字されている。


 国境だったこの森は、帝国のものから共和国のものになっていた。


 不意にぬかるんだ大地を踏む音が鼓膜に触れ、テンは素早く視線を走らせる。その先で、一人の少女が衣装を手に佇んでいた。

「スイ」

 テンの低い呟きに、小さな頬が微かに緩む。いつもは雑に丸めているだけの長い黒髪を編み上げている。どこかめかし込んだその様子に、テンはより強い苛立ちを覚えた。

「なんの用だ」

 そっけない言葉にも、幼い笑みが綻ぶ。

「おめでとうが言いたくて」

「必要ない」

 なにもめでたいことはない。

「許嫁なのに」

 拗ねたその口ぶりに、テンの全身を寒気が走った。その口ぶりにではない。腹違いの妹であるスイが、自分の許嫁であるという狂おしい現実にだ。


 奇形や発育に問題がなくとも、もはや民族に猶予はない。すでに三人の子を成した長兄は、最も遠い血縁の者を選んだにも関わらず、二人は死産。一人は、八歳にしていまだ意思疎通が取れずにいる。

 これから兄の妻は、健常な子が産まれるまで使われ続けるのだろう。心根の清い良き人だった彼女が、今朝窶れた顔で水を汲む横顔を思い出し、握り締めた指先が冷えてゆく。


 そんなテンの隣に腰を下ろし、スイは手にした服を小さな指で撫でながら俯いた。

「わたしは、テンのお嫁さんになれるの、嬉しいのに」

 その幼気な言葉に、テンは総毛立つような悪寒に震える。

「なぜ疑わない」

 テンの鋭い声に、スイは小さな肩を強張らせて振り返る。そのあどけない少女を前に、より強い怒りが込み上げた。

「この村を見ろ。奇声をあげて、暴力を振るう。支え合うこともせず自分ばかり腹いっぱい食べて肥えてゆく。それを、その悲しい連鎖を、誰も止めようとしない」

 大人は無責任だ。民族の地を守ることだけに躍起になって、その下で起こる悲鳴に見向きもしない。


 子供たちはこんなにも苦しんでいる。こんなにも怯えている。そして森に呑まれて、大人になってゆく。

 女たちは道具として扱われ、ただただ血を繋ぐためだけに、使い潰されてゆく。


 テンの言葉にスイは小さな指をぎゅっと握り締め、気丈にテンを睨み付ける。

「でも、民族が滅びてしまうんだよ」

 テンは強く首を横に振った。

「だから少しは外に開かれないといけないんだ」

 文明を受け入れることは、民族のアイデンティティを失うことではない。

「兄妹で子を作るなど、悍ましい行為だ」

 テンは大地を睨み吐き捨てた。しかしスイはその横で不満げに唇を尖らせている。

「何が不満なんだ。俺は間違っているか?」

 本能が嫌悪しているのだ。腹違いとはいえ、同じ父を持つ妹と男女の仲になるなど。


 不貞腐れた顔を覗き込むテンから少し身を引いて、スイは悟られぬように目尻を拭った。その細い指先が、きつく青年の儀のために仕立て上げた衣装を握り締める。

「正しさだけが、意味を持つわけじゃない」

 勢いよくテンを振り向いたスイの金色の瞳には、怒りにも似た感情が弾けている。

「そんなに言うなら、テンだって戦えばいい。テンは族長の息子。兄さんに決闘を申し込めば──」

「軽々しく口にするな」

 慌ててスイの口を手で覆い、テンは注意深く周囲に視線を走らせる。幸い誰も聞き耳を立てているものはいないようだ。

 突然のことに驚くスイから手を引いて、テンは厳しく瞳を尖らせる。

「知っているだろう。戦争が始まってから森の様子がおかしい。この上人間同士で争ってどうする」

 部族の男たちは、常に場を争っている。なるべく血縁から遠い、遺伝子を求めて。


 吐き気がする。この樹海は、まるで牢獄だ。


 この森を愛していないと言えば嘘になる。だが憎んでいないというのも嘘だ。大樹の檻の中で、テンはもがいていた。

[pagebreak]

 年を追うごとにテンの反発は激しくなり、最近ではもう厄介者の烙印を押され、族長の四男だからと皆腫物に触るよう。狩に同行する者もいない。


 その日も一人で狩に出て、テンは雄の鹿に向けて弓を引き絞った。生きるため、動物を射る。急所を外すな、一撃で仕留めろ。そう言い聞かせながら、もっと苦しまずに済む方法を考えてしまう。

 どうして文明を受け入れない。外の世界は刻々と進んでいる。自身の民族は、文化を守るふりをして殺している。

 命への敬意と言いながら、弓矢を穿たれた雄々しい鹿が命尽きるまで苦しみのたうち回る姿はまるで、自分を見るようだった。


 目の前でひとつの命が消えたとき、テンは深い息をひとつ溢した。仕留めた鹿を集落に持ち帰ろうと腰を屈めた瞬間だった。地を這って届いたものに、テンは思わず鼻先を腕で塞ぐ。

「なんだ、この臭いは」

 動物の死骸が側にあるのか。根底は腐乱臭だ。それなのに嗅いだことのない何か別のものも混ざっている。

 慎重に足を運ぶと、大樹の根元に巨大な肉塊が落ちていた。すでに腐敗は進み、強烈な甘ったるい臭いが満ちている。艶々とした質感。これは、油か──。


 かがみ込んで確認しようとした瞬間、テンは反射的に右に身体を跳ね上げた。大地を打つ重い音が鼓膜を震わせたが、そのまま振り返らず木の隙間を縫い、密集した大木によじ登る。

 安定した枝に足をかけ、振り返り様に弓矢を構え、テンは息を詰めた。こちらを見詰める人間が立ち尽くしている。鈍い光を放つ目が合った瞬間、鼓動が激しく胸を叩く。


 人間──いや、そうではない。捲れ上がった頬の下、銀色の内部が露出している。服は殆ど破れ、泥に汚れた素肌を晒している。それが男だと分かるのは、何故か性器に似た部位が見受けられるからだ。

 そのあまりにも悍ましい姿にテンは震え上がる。


 何をしようとした。テンを殺そうとしていた。だが、あの瞳には飢餓感も、闘争本能すらもなかった。ただ壊れた機械のように、意味もなく命を刈り取ろうとしていただけだ。

 しばらく睨み合っているうちに、不気味な男は深い樹海へと消えて行った。


 それからテンだけではなく、たくさんの狩人たちがその姿を目撃するようになった。森には腐乱した肉がそこかしこに散らばり、動物の影も薄くなった。そして決定的な事件は、テンが十七歳になった頃に起こった。


「ソイが帰ってこない」

 陽が落ち切った頃、テンの家を訪ねるなり長兄は神妙な顔でそう漏らした。二番目の兄が消息を絶った。今朝狩に出かけたっきりだそうだ。

「夜が明けたら探す」

 兄は何も言わず、不安気に頷いただけだった。


 次の朝早くから樹海を探し回り、ようやく失踪した兄の姿を見つけたのは、夕暮れ間近だった。

 集落から随分と離れた沼のほとり。変わり果てた姿となっていた。かろうじて残されていたものは、骨や顔の一部のみ。兄がつけていた飾りが散らばっている。

 その傍では、真新しい肉塊が何箇所にもわたって落ちていた。全て艶々とした油に塗れて。

 

 森が悲鳴をあげ、命が、腐ってゆく。


 この由々しき事態に、テンは部族に何度も強く文明の受け入れを訴えたが、誰も聞く耳を持つことはなかった。現実から目を逸らし、因習を抱いたまま、滅びてゆく。

 孤独だ。長年感じてきたその感情は、ゆっくりとテンを森から切り離してゆく。


 けれどもう逃れられない。スイとの婚姻、そして一刻も早く、できるだけ多くの子を成すためだけに、テンは厄介者としてこの村に縛られていた。


 ここにいる意味は。ここで生きる理由は。探し続けたその答えは、遂に見つからなかった。

[pagebreak]

 テンは人々が寝静まった深夜、スイを集落から少し出た大木の下に連れ出した。

 眠い目を擦りながら、まだあどけなさを残した顔がテンを仰ぐ。テンの側を離れなかった、唯一のひと。

「俺はこの森を出る。世界を見るんだ」

 テンの言葉に、スイは大きな瞳を見開いた。いつかそうなると、きっと分かってはいた筈だ。

「私も──」

「共には行けない」

「どうして」

 瞳に涙を溜めるスイを見下ろし、首を横に振る。胸に飛び込み縋り付く小さな身体。肩に手を回しかけて、テンは触れる前に止めた。震える指先を握り込み、恐ろしい気配を振り払う。


 幼い頃から共に育った妹。許嫁とされ、テンはずっとその嫌悪感に苦しんできた。けれど彼女の存在は、確かに孤独な人生の灯だった。

 愛はあった。今はまだ、妹として。


「俺の名を、君に預ける」

 スイの手を取り、手のひらに指先を押し当て、ゆっくりと文字を綴る。

「ルーアス──」

 スイは小さく呟くと、手のひらを握り締めテンを仰いだ。

「貴方の真名が示す太陽が昇るその時、いつも貴方を想う」

 また新たな涙が、白い頬を撫でた。

「どうか、無事で」

 深く頷き、テンは踵を返し歩き出した。


 この森の外へ、世界へと。


 スイはこの先、この部族の中で消費されてゆくのだろう。連れて行けるものなら、連れて行きたかった。けれど、できなかった。臆病者だ、と自分を詰りながら、テンは歩き続けた。

[pagebreak]

 あれから一体、何年が経っただろう。


 黄色い荒野を、高いビルが立ち並ぶ街を、そして戦争の中を、長い月日をかけて歩き続けた。たった一人で。

 答えは出たか。求めたものは見付かったのか。幾度も自分に問い、首を振る。


 乾いた風が、荒野の砂を巻き上げる。テンは岩陰に座り込み、チョコレート味のレーションを齧った。相変わらず、旨くはない。


 ふと地平線の向こうから、するどい光が瞼を貫いた。朝靄が引き裂かれてゆく。世界が開けてゆく中、テンの胸に蘇る。抱き締めることのできなかった彼女のこと。そして、正義の中でもがき苦しんでいた少年兵が握り返した、荒れた手の感触。

 彼は踏み出せただろうか。自分の足で、自分の心のままに。そうであったらいい。


 テンは手元のライフルを握り直し、太陽を睨み付ける。また歩き出そう。世界を知るために──。



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