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BORDER  作者: 鴻上縞
第三部
26/30

八 砂礫の灯

 ソルは一人崖の上に立ち、淡々と日々を繰り返す。

 テンがいた場所にはペゴが、新しく組み込んだ望遠機能を携えて荒野を睨んでいる。足元に置いたタブレットに視線を落としながら、ソルはペゴの目を通して送られてくる荒野の砂つぶを眺めていた。


 七日間を生き延び休養を迎え、宿舎に戻るとテンの気配はもうどこにもなかった。肩で羽を休めた鳥が飛び立っていったように、跡形もなく。

 旅の男だ。いつかこの日が来ることは分かっていた。共に行けないことも、痛いほど。


 向かいのベッドは端正に整えられ、そこには元から誰もいなかったかのようだった。丁寧に消された痕跡が、少しずつテンの存在を砂の奥に沈めてゆく。

 ソルは首にかけていたロケットを手に取った。裏面の識別番号で自分のものではないことを確認して首から外す。しばらく掌の中で転がしたあと、時を止めた花の隣に並べて置いた。


 それからソルは部屋にこもり、ひたすらキーボードを叩いた。

 ソルが書いているのは軍への報告書ではない。軍の他に、王室にも宛てた嘆願書だった。共和国で知り得た全てを踏まえ、巡礼の道の限定的開放を提案するもの。それが最もこの戦争を終わらせるための平和的な道だ。

 王政であるこの国において、彼らが軍に掌握された単なる象徴でしかないことも分かっている。それでも、書かなければならなかった。


「どうだろうか」

 ペゴに読ませるたび、頭部がゆっくりと動く。

「スコシ、カドガタチマス」

 言葉を削り、選び直す。報告書のように乾いた言葉では届かない。けれど感情的に綴れば握り潰される。その間を必死で探しながら、ソルは何度も嘆願書を書き直した。

 手が止まるたび、窓の外に目を向ける。空は乾いて青く、風が砂を運んでいる。テンはどこを歩いているのだろう。もう見知らぬ国の大地を踏んでいるだろうか。


 ふとソルは自分の名を画面の上で見詰めた。

 窓にぶつかる雨粒を一緒に数えた。うさぎの絵本を膝の上で読んでもらった。髪を撫でたあの温かな手が、この名を選んだ。

 ペゴがアームを展開する音に、目尻に溜まっていたものを自分で拭う。

「泣いてなんかない。ペゴは心配性だな」

 まるで、父のようだ。そう言いかけて、ソルは言葉を呑んだ。


 夕方まで嘆願書と向き合い、ようやく納得できるものができた。嘆願書の送り先は、軍と王室の他、私設兵団も加えておいた。この国に生きる者ならば、自分たちが何と戦い、彼らが何を求めているのかを知るべきだ。


 送信を押して、ベッドに身を投げる。瞼を閉じた瞬間、強張っていた身体が一気に力を失い、深い眠りに落ちていた。

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 それからまた戦地に戻り、ペゴと崖の上に立つ。嘆願書への反応は、いくら待ってもたったひとつだった。

 届かない。分かっていたはずだ。それでも動き続けることに意味があるのだ。そう言い聞かせながら、ソルは一週間毎に同じメッセージを送信するよう設定してタブレットを閉じた。


 次の休暇の日、ソルは昼間はジャンク屋に入り浸り、夜にペゴを置いて宿舎を出た。

 嘆願書にただ一つだけ返ってきた返信が、街の中心にある寂れたバーを指定していた。壊れそうな扉を開くと、カウンターで懐かしい顔がソルを待っていた。

「よう、ソル。久しぶりだな」

 右手を上げて、煙草を咥えた口元をご機嫌に持ち上げる男は、第六防衛ラインの分隊長であるボリスだった。第七防衛ラインに異動して以来の再会だが、一年も経っていないのに随分と懐かしく感じる。駆け抜けた日々の密度が、ソルの時を少し早めているようだった。


 ボリスの隣に腰を落ち着けると、ふとしたようにボリスはソルを見詰めた。

「そういえばお前はまだ十八か。オレンジジュースでも頼もうか」

「いや、水でいい」

 ボリスから漂う煙草の香りは、テンのものよりも少し甘い。

「新しい相棒を受け入れないんだって?」

 店員から差し出された水を受け取り、ソルはガラスの水滴に視線を落とす。

「テン以上に信頼できるバディはいない。一人の方がマシだ」

「驚いたな。未開人と見下していたのはどこのどいつだ」

 ボリスの言う通りだ。森の民と見下し、テンに対して幾度も失礼な態度を取ってきた。

「今は幼かった自分を恥じている。誰よりも誇り高い男だった」

 ふうんと漏らし、ボリスは顎先に手を当てる。

「お前がそこまで心酔した男に、俺も一度会ってみたかったな」

 感慨深く呟くボリスを横目で睨みながら、けれどソルは肩に入れていた力を抜いた。

「ずっと目をかけてくれて感謝している」

 軍や王室に嘆願書など出して、無事でいられるはずがない。もうマルグの庇護もない。ボリスに迷惑もかけるだろう。この先どうなるかは分からないが、何かあったときに私設兵団を抜けることも考えている。


 嘆願書が私設兵団にも送られた時点で、ボリスもその決意を悟ったのだろう。だからこうして忙しい中、顔を見に来てくれた。それはきっと、昔の自分には分からなかったことだ。

「俺も孤児院の出だ。放っておけなかっただけだよ」

 横顔で微笑んで、ボリスはグラスに残った酒を豪快に煽る。

「あまり前のめりになるなよ。お前はすぐ周りが見えなくなるから」

 ソルは小さく頷いた。もう、周りが見えなくなることはない。自分の目で見極めると決めたのだから。


 ボリスと別れ、宿舎へ帰る夜道。ソルは寒さに肩を竦め、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。

 かつての自分では手に入れることのできなかった温もりが、風にさらわれ剥がれ落ちてしまわないように。


 けれど自室に戻り、一人きりの静寂に身を沈めた時だった。暗い部屋の中で、自分を奮い立たせていた力がふっと抜けてゆくのを感じた。


 誰もいない。誰も応えてくれない。たった一人の世界。


「フアンデスカ?」

 足元のペゴが、不意に古臭い電子音声を響かせた。その問いに、ソルはもう首を横に振る力をなくしていた。真っ直ぐに立たなくてはならないと己を殺し、帝国を守るため信念に縋りながら無理矢理奮い立たせてきた。けれど、もう限界だった。

「怖いんだ、ペゴ。俺はたった一人で、どう歩けばいい」

 堰を切ったようにこぼれ落ちた弱音。両手で顔を覆い、崩れ落ちたソルの肩に、ペゴの小さなアームがそっと触れた。そのとき、枕元のタブレットから小さな通知音が鳴った。

 まさか、軍や王室からのアクションか──その微かな希望に顔を上げ、ソルはタブレットを掴む。けれどそこには、見知らぬファイルがひとつ受信されていた。期待した軍のものでも王室のものでもない。パスワードがかけられた暗号化ファイルだ。

「何だこれは」

 眉を寄せるソルの横で、ペゴの頭部が微かに開閉する。

「セイギノホウカイヲケンチ。ジョウケンガ、ミタサレマシタ」

 驚いて振り返る。ペゴの大きな瞳は、どこか優し気にソルを見詰めていた。

「パスワードハ、ソウゴノアイシタモノノナマエ」

 父の、愛したもの。指先が震える。ソウゴの顔が、あの温かい手のひらが蘇る。ソルは震える指で、画面に三つのアルファベットを打ち込んだ。どうか、そうでありますようにという願いと共に。


 息を呑む間をおいて、ファイルが開かれた。その中身は、ソウゴがイルガーデンで掴み、ペゴの深層に隠していた機密文書だった。画面をスクロールするソルの瞳孔が、徐々に開いてゆく。

 そこに記されていたのは、莫大な資金の流れと、兵器の供給ルート。宗教戦争の裏で、冷ややかな顔を装った他大陸の先進国たちが、それを食い物にしている証拠だった。

 よく聞く話だ。歴史上、何度も繰り返されてきた陳腐な構図だ。

 それでも、この国の人々にとって。教えられた正義を信じ散っていった仲間たちにとって。そして、自我の崩壊に怯えながらも祈りを捧げていた共和国の神兵たちにとって。それは利欲の絡む覇権争いなどではない。己の魂と信念を賭けた、切実な戦いだった。


 タブレットをベッドの上に戻し、ソルは疲れ果てたように項垂れた。

 この巨大な世界の悪意の前では、一人の少年兵の信念など砂粒ほどにもならない。その無力感だけが、重苦しく胸を満たしてゆく。


 ソルはまだ震える指先をサイドテーブルに伸ばした。何かに縋りたくて、けれど意味のないことだとは知っている。

 時を止めた花の隣に置いたロケットを引き寄せる。掌の中で冷たい鉄を温めていると、ペゴがソルの手元にアンテナを向けた。

「どうした」

 タブレットがほんの小さな受信音を響かせる。手を伸ばし、ペゴから送られたスキャンデータを確認した瞬間、ソルは息を詰めた。

 ペゴがスキャンしたものは、テンのロケットのはずだ。ヒィメル族とだけ記された、空白の多いID情報。けれどそこには、見たことのないひとつの名が記されていた。


 テンではない。これが、テンの真名か──。


 掌の中で冷たかった鉄が、いつの間にかソルの体温を吸い取っている。指先の震えが止まらない。握り締めた拳を額に押し当てると、鉄の熱さが骨に届いた。

 ソルは唇を噛み締めた。込み上げるものを逃すために顔を上げた先、四角い窓の中で星が瞬いている。


 胸の奥で吹き荒んでいた風が不意に止んだ。どこを歩けばいい、何を夢見ればいい。そう自分に問うて、ソルは瞼を閉じた。

 テンの声が鼓膜の奥で響いている。


 歩き出そう。旅立った相棒が、たったひとつソルに残した祈りを抱いて。



第三章 了

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