六 手向けの花
夕闇が忍び寄る荒野に、張り詰めた空気が満ちていた。
双眼鏡を持つ手が震える。西陽を背に受け、ふらふらと覚束ない足取りで荒野を歩くその姿は、間違いなくアイリスだった。けれど、かつて豊かな表情を見せていたその顔は虚ろで、焦点の定まらない瞳がただ前方を彷徨っている。
思考乖離か──そう諦めを抱きながらも、ソルは一縷の望みに縋った。
「ペゴ、信号を送れるか」
周辺を探知していたペゴが、ソルの足元に駆け寄る。
「カノウデス」
頭頂のアンテナが微かに光滅を繰り返した。共和国でペゴに干渉してきたことを思えば、不可能ではないはずだ。
沈黙が荒野の風に流される。やがて、ペゴがゆっくりと頭部を動かした。
「オウトウガアリマシタ。ソルノナマエヲ、クリカエシテイマス」
喜びに似た震えが背筋を駆け上がる。
「アイリス……」
縋るように呟いて、ソルは双眼鏡を握り直した。
まだ彼女の魂はそこに留まっているのではないか。あの日のように、言葉を交わせるのではないか。
「走り出したぞ」
テンの声が、ソルを現実へと引き戻す。
「会話は可能だろうか」
思わず溢れた呟きに、隣でテンが静かに首を振った。
「警戒した方がいい」
低く、冷徹なまでの声。テンがセオリーを無視した射撃姿勢を取る。
「指示を、ソル」
普段見せない態度は、浮つくソルを宥めるためだろう。分かっているのに、気持ちは逸るばかりだ。
「待て。彼女が俺の名を呼んでいる。俺たちのことを忘れてはいない」
「冷静に見ろ、ソル」
その鋭い声も、ソルは受け入れなかった。
「待てだ。銃も下せ。彼女が怯える」
テンがソルを睨みながらも、ゆっくりと身体の力を抜いてゆく。
「会いに来ただけかもしれない」
彼女は敵じゃない。身体の奥がそう叫んでいる。
到着を待ちきれず、切り立った崖を上がってくるアイリスを見下ろすソルの肩を、テンが引いた。
「やはり様子が変だ。少し下がろう」
素直に距離を取りながらも、ソルは崖の上にあの少女が現れるのを待ち焦がれていた。
ソルの名を呼んだ。ソウゴの組んだ保護プログラムが破棄されても、忘れていなかった。舞い上がる砂埃の中、震える胸を押さえ、ソルは立ち尽くす。
張り詰めた緊張の中、岩が崩れる音がした。二人は同時に息を詰めた。
崖縁に手がかかり、ついにアイリスが二人の前に姿を現した。長い旅をしてきたのか、白い頬を泥で飾り、服も所々破れている。腰に下がった拳銃が、歩くたびに鈍く揺れた。けれどモスグリーンの瞳は、ソルを捉えた瞬間、やわらいだように見えた。
「アイリス、俺を、覚えているのか」
薄い栗色の髪が揺れた。それが頷きに見えた。喜びを抑えきれず、ソルは足を踏み出す。
「ソル!」
テンの重い声が空気を裂く。ソルへ向いていた視線が、その前へ割って入ったテンで止まった。
「ソル、落ち着け!」
邪魔をするなとテンを睨み付けた、その瞬間だった。
鋭い銃声──。
荒野に響き渡った破裂音と共に、ソルの目の前で血飛沫が舞った。テンが崩れ落ちてゆく姿が、残像のように網膜へ焼き付く。
肩口から噴き出す赤い血。テンの血だ。ソルの手が、自分の意志より先にサイドアームを引き抜いていた。
アイリスの手から銃を蹴り上げ、その身体を乾いた大地へ組み伏せる。額に銃口を押し付けた瞬間、視界がぐらりと揺れた。自分が何をしているのか、一瞬分からなくなる。けれど引鉄にかかった指だけが、憎しみを知っていた。
「ソル!」
テンの鋭い声が荒野を裂き、ソルの指がぴたりと止まる。
「惑わされるな、ソル」
額に脂汗を浮かべ、テンは燃えるような金色の瞳でソルを射抜いた。
「俺を傷付けたことは重要ではない。それを判断基準にしてはいけない」
「だが……貴様を撃ったんだぞ!」
なお渦巻く憎しみで引鉄を引こうとするソルを、テンの強い力が押し留める。
「君の心は、どこにある」
その問いが、熱り立つソルの頭へ冷水を浴びせた。
目眩がする。思考がまとまらない。テンが撃たれた。アイリスが撃った。灼けるような熱は何だ。怒りか、憎しみか。
あの、花の匂いがする。
「ソル」
澄んだ声に呼ばれ、ソルは意識を取り戻した。アイリスの手が伸び、白い花弁が頬に触れる。どこから摘んできたのか、泥や砂に汚れた手には、ひどく萎びた一輪の白い花が握られていた。距離を測れぬように、不器用な手つきで花弁がソルの頬を撫でるばかり。耳に挿そうとしているのか──そう気付いた瞬間、樹海の木々の影が、雨に濡れた土の匂いが、薄い栗色の戦旗が翻った姿が、ソルの胸に鮮やかに蘇る。
「まだそこにいるのか、アイリス」
いつの間にか、そう問いかけていた。モスグリーンの瞳が瞬いて、笑みが零れ落ちる。まるで幼子のような、純真で、外の世界に憧れ続けた、あの日の彼女のままで。
荒れた呼吸が鎮まってゆく。
まだここに、アイリスの魂があるのなら──ソルは引鉄にかけた指へ静かに力を込めた。
一発の銃声が、荒野の乾いた風を震わせる。
鼻先にあった硝煙も消えた。光を失った瞳に、西陽だけが揺れていた。ソルはその薄い瞼を掌で覆う。眠りについたアイリスは、あの日のまま、澄み切った笑みの中にいる。
小さな頭を胸の中へ抱き寄せる。繋いだ手の温もりはもうない。流れ出した赤い擬似体液だけが、ソルの指先へ、そこにあった熱を教えていた。
テンの腕が、アイリスごとソルの肩を抱き寄せる。その慰めに額を預け、瞼を閉じる。
濡れた頬を風が撫で、ソルはゆっくりと顔を上げた。
世界が色付いてゆく。真赤な太陽が、地平線へ溶けてゆくにつれて。
手向けられた花を手に、ソルは祈り続けた。
友よ、友のまま、安らかに眠れ──。




