四 隣に立つ者
二日の休養を終え、再び崖の上での生活が始まった。ミシェットからの通信を待ちながら、目視での監視を続ける。神兵が現れたら処理し、そしてまた荒野を見張る。
この国を守るための必要な戦闘だった。少なくとも、これまでは。マルグの手を振り払ってから、ソルは落ち着かない気持ちを抱えている。
庇護を拒絶してこれから何が起こるのか、全く分からない。倫理委員会への報告をするつもりはない。けれどマルグが怯え先手を打ったら──命は、続くのだろうか。
眩いほどに犇く星の運河を見上げ、ソルは喉を締め上げる不安を吐き出した。
「この国に帰ってきてから、思考がまとまらないんだ」
隣で地面に寝転んでいたテンが視線だけをこちらに向ける気配を感じながら、膝を抱える腕に力を込める。
「自分が信じた道を生きてきた。それが、崩れ去ってしまったような気がする」
これから何を目指せばいい。どこを歩けばいい。盲目的に追い続けた道は断たれた。解放の先にあったものは、また別の深い夜だ。
息を吐く音が鼓膜に触れた。
「俺に言えることはない」
驚いて振り返るソルの視線から逃れるように、煙草を咥えたままそう呟いたテンは瞼を閉じた。
「何も言えない」
拒絶と呼ぶには曖昧な声が、星を瞬かせる夜気と同じ温度でソルを包む。
ふいと顔を逸らし、ソルは暗い地平線を睨み付けた。これまでは頼んでもいないのに強引に手を引いてきたくせに。ソルが一番必要としている今、突然に梯子を外された気分になってしまう。
イルガーデンという烙印を押されてから、誰もが足を掬おうとし、その失態を待ち望んでいる。そんな人生だった。
テンは、初めて肩を預けた相手だった。その高い体温に触れれば安堵するほどの信頼を寄せていた。そう思っていたのに。
隣から微かな寝息が聞こえた。ソルはぶつけどころのない感情と共に、足元の小石を力任せに荒野へ投げた。音も返らない、静かな夜だった。
朝を待つ静寂の中、突然ミシェットからの通信が骨を震わせた。
「二キロ圏内に聖骸反応を検知。反応は一体」
「了解」
答えるソルの横で、テンが身体を起こす。瞳を細め暗い荒野を見詰めたかと思えば、首を横に振る。
「俺は目がいい分、夜目が効かない」
「暗視スコープは」
「付けていない」
そういえば夜の戦闘は初めてだったか、とソルは考えながら、双眼鏡の暗視モードを起動し二キロ四方を見回した。やはり昼間と違い、視界が悪い。
ソル自身それほど夜襲の経験が多いわけではない。それは神兵が陽のある時間に現れることが多いからでもある。
いつもより時間はかかったが、人影が見えた。ミシェットの言う通り単独型のようだ。すでに距離は一キロに迫っている。ただ思考乖離が進んでいるようで、その足取りは不安定だ。
「北東四十五度。枯れ木が見えるか。西に四十メートル。風の影響はない」
いつも通りに位置を伝えてはみたが、暗視のない中での狙撃は不可能だろう。
「俺のライフルを使え」
双眼鏡から目を離さずに問いかける。けれどいくら待っても返事はない。
「テン」
苛立ちながら隣を振り返り、ソルは息を詰めた。荒野を睨む横顔に、悲しみに似た淀みが差したから。
「……もう、いいだろう」
テンが呟く声が、風のない荒野に静かに響く。
「もう十分だ」
何がだ、と聞いても返事はない。思い詰めた横顔を見ているうちに、ソルの腹の底が徐々に煮えてくる。
双眼鏡を腰のカラビナにぶら下げて、ソルは腰を落としライフルを構えた。
「貴様がやらんと言うなら俺が撃つだけだ」
暗視スコープに切り替えて照準を覗き込む。
「俺はこちらの方が得意なんだ」
元々は狙撃手として評価されてきた。マルグが何を思って観測手にしたかは知らないが、テンに劣るとはいえ一体の処理など造作もない。テンがいなくとも、一人でやれる。
苛立ちを必死に抑え込みながら、ようやく神兵を捕捉した瞬間だった。銃身がぐっと下げられ、ソルは驚いて顔を上げる。
「もうよせ、ソル」
突然のことに言葉が詰まる。握った銃身をなぞった瞳がソルを捉え、苦しげに細められた。
「君にそんな顔をさせるつもりじゃなかった」
「そんな顔とは、なんだ」
ソルに向けて伸ばしかけた手を、テンは触れる前に止めた。
「君はもう、神兵を撃つことに痛みを覚えるようになった。彼らの心が、魂がまだそこにあることを知って」
その言葉に胸を突かれ、息を呑みながらもソルは平静を装い眉を寄せる。
「何を言っている」
「君を見ていると、妹を思い出すんだ」
妹、と呟くソルから視線を逸らし、テンは遥へ瞳を投げた。
「彼女は君と同じ。生まれ落ちたその場所で、正しさを疑わず生きてきた。外から見ればおかしいことも、それが民族のためだから、と」
薄闇に翳るその金色が映すのは、遠い樹海の深緑か。
「君を救うことが、妹を救うことになるのではないかと思った。だがそうじゃなかった」
テンが背負い続けた荷が、初めてソルの肩に触れた。
「置いてきてしまった。俺は逃げ出した。その事実から、目を逸らそうとしていただけだ」
世界を平等に見詰める視線の先に、深い罪の意識が見える。その横顔から溢れ出るものを、ソルはただ受け止めていた。
真名を預けるほどに大切な存在。その幸福を祈りながらも、テンは知っているのだろう。民族の因習の中で、少しずつ崩れ落ちてゆくことを。
「h-17、大丈夫?」
突然のミシェットからの通信に、ソルは一瞬身を固くしながらもここが戦地であることを思い出す。
「問題ない」
テンの手を払い、スコープを覗く。神兵は、先ほどの位置から少し後退した枯れ木の横で立ち尽くしている。手本のような射撃姿勢を取り、脳に照準を合わせる。引鉄にかけた指は重い。
星々が照らす薄闇の荒野に、静寂を切り裂く銃声が響き渡る。
「殲滅した」
短い通信を終え、ソルは身を起こした。硝煙が風に流されず、いつまでも鼻の奥で香っている。
立ち尽くすテンを振り返り、揺らぐ瞳をソルは真っ直ぐに見据えた。
「貴様の言う通りだ。神兵を撃つ時、胸が張り裂ける痛みを感じるようになった。だが撃たなくてはならない。この国を守るために。俺は、まだここにいる」
まだテンの歩む場所には辿り着けない。視界を覆う砂嵐の中で、惑いながら進んでいる。
ソルを見詰め、テンは苦しげに顔を歪めた。まるで己を責めるように。
「俺は、正しいことをしたか、ソル」
「正しさなど、何の意味がある」
それを教えてくれたのは、他でもないこの男だ。
「テンのことを信じている。だから俺はここに立てる」
だから、自分の力で歩きたいと思った。
「それだけで十分だろう」
ソルにしてみれば、それだけで十分だった。
この国の外に、広い世界が拡がっている。絵本の中の憧れ。自分には手の届かない場所。たった一人取り残された監視の中、諦念に浸り切れずに天井を見上げ、白昼夢の中で描き続けた景色。
太陽が昇る地平線を撫でた指先が、君にも触れられるのだと教えてくれた。ソルにとって、その言葉が全ての始まりだった。
見てみたいんだ。知りたいんだ。テンの見る、正義の境界線が──。
痛みを滲ませるように眉を寄せながら、テンが仄かに口元を緩める。
「ありがとう、ソル。少し悔しいが」
「悔しければ、いつも通り偉そうに俺の隣に立て」
その言葉に、テンは厳しさを解いて破顔した。
「その通りだ」
テンのようにうまく笑えずに、ソルは瞳を細める。
ふと瞼を貫いた光芒に、二人は同時に顔を向ける。地平線が滲み、闇が引き裂かれてゆく。テンの瞳と同じ、美しい金色だ。髪を揺らす風が生まれ、二人はまた同じように澄んだ空気を深く吸い込んだ。
細く息を吐きながら、ソルは眩さに瞼を薄く閉じる。
「きっと、恨みではないと思う」
そうであってほしいと願う。
照れ臭そうに笑いながら、テンが身を寄せる。
「君は、強いな」
答えず、ソルはぶつけられた肩の熱を感じていた。
強くなどない。強くあろうとするその隣に、心を預けられる存在があるだけだ。




