三 右頬の正義
戦線復帰から七日が過ぎ、二人は二日間の休養のため街に帰還した。戦地でも、街でも、テンは相変わらずどこか上の空。何がテンを変えたのかまるで分からないが、わかっていたとしてもソルはかける言葉を知らなかった。
夕暮れ前まで居座ったジャンク屋から戻るとすぐに、ソルのタブレットがメッセージを受信した。見慣れた暗号は、いつでも心を深い所まで沈めてしまう。
漏れそうになる息を呑み込み、ソルはキッチンで夕食の準備を進める広い背中に声をかけた。
「ペゴを見ていてくれるか」
驚いて振り返ったテンの黒髪が描く軌跡だけを見詰める。
「どこか行くのか」
「……呼び出しだ」
そう吐き捨てて、シャワールームに逃げ込んだ。
身体の感覚が鈍くなるほどの熱いシャワーを、これまで何度浴びてきたか。それももう慣れたもの。これは業務だ。この国で生きるためには必要で、ただの手段でしかない。けれど幾度となく胸の内で言い聞かせてきたその言い訳が、指先に触れるだけでうまく掴めない。
シャワールームから出ても、どこか重苦しい気持ちが晴れない。
「ソル」
濡れた髪を拭きながら出掛ける準備を進めるソルの背中に、いつもより落ち着いたテンの声が触れる。
「夕飯はどうする」
キッチンを振り返りテンの手元に視線を移すと、すでに料理は戻れない所まで進んでいるようだ。今日は山岳地帯に暮らす遊牧民の料理だと言っていた。ソルも楽しみにしていたのだが。
「戻って食べる。残しておいてくれ」
「何時頃戻るんだ」
「さあ。長くても朝までには」
平静を装いながらそう答え、ソルはそれきり口を噤んだ。
準備を済ませ、ソルは足早に宿舎を後にした。熱った身体が一瞬で冷え、ジャケットの襟を掻き寄せる。随分と冷え込むようになってきた。これから季節が進む毎に荒野の監視も厳しさを増すだろう。
ふ、と流した視線の先。滲む太陽が荒野に溶けていた。最後の光が呑み込まれ、辺りの色彩が奪われ消えてゆく。
重い身体を引きずるようにして、ソルは駐屯地への道を急いだ。
駐屯地のセキュリティにIDを読み取られるとき、駐屯地の廊下を歩くとき、いつでも呼吸は浅くなる。けれど今日は、言い聞かせてきた言葉が滑ってしまう。じくじくと膿む不安を抱えたまま、ソルは歩き続けた。
「失礼します」
中からの返事を待ち、扉を開く。部屋に漂う葉巻の匂い。かつては優秀な兵だったはずの男は、今や脂肪を蓄えた身体を弛ませていた。
「よく戻ったな、ソル」
そう言って、肥えた指が葉巻を陶器の灰皿に横たえた。
「私に何も言わずに偵察の志願など、何を考えている。無事で戻った知らせを聞いて私がどれ程安堵したか」
誇らしげな笑みを浮かべ、マルグが椅子から立ち上がる。
「よくやった。大手柄だな」
なんとか絞り出した返事は、掠れた情けないものだった。けれどマルグはそれに気を取られることなく、相変わらず満足げな顔で上着を脱いでゆく。
「ソウゴを始末したことでお前の存在に懐疑的だった上層部も喜んでいる。お前が掴んだ聖骸の情報も、今後の戦況をひっくり返せる程の価値あるものだ。しかし全く信仰というものが如何に愚かで腐敗しているか」
舌打ちとともにそう吐き捨てる顔は、最も身に馴染んだもののはずだ。それなのに今はもう、何故だか最も遠く感じる。
「お前の評価は見直され始めている。ようやく私たちの苦労も報われるぞ、ソル」
頷きもせず、ソルは拳を握りしめた。
「この偵察で、私の中でも考えが変わりました。戦争を終らせるためには、やはり双方の落とし所を模索する必要があります。例えば、限定的に巡礼の道を開放するとか──」
「ソル」
その声色に、ソルは身体を硬くした。
「私のこれまでの努力を無碍にするつもりか」
重い踵が床を蹴る音が近付くたびに、呼吸が早まってゆく。
「こっちへ来い」
太い指が手首に触れる。思考より先に、身体が動いていた。そんな自分にソルは息を詰める。
「何だ、その態度は」
腕を振り払われ丸くなっていたマルグの瞳が尖ってゆく。
「分かっているのか、自分がどういう立場だったか。誰がお前の処理を止めた。誰がアカデミーで悪戯に消費されるばかりだったお前を手元に置いて守ってきた」
望んで持っていた関係ではない。けれど、それに縋らなければ生き抜けなかったことも、誰より自分が分かっている。
「誰のおかげで生きてこられたと思っている。この国でお前が生きるため、誰が苦心した」
伸びた手が、右頬を撫でた。嗅ぎ慣れた葉巻の香りが鼻先をくすぐり、ソルはまた息を詰める。
「今さらどこへ行くつもりだ、ソル」
俯いたまま、震える唇を必死に開く。
「私は……自分の足で立ちたいと思うようになりました。もう大佐のお手を借りずとも歩けます」
言い切った瞬間、乾いた破裂音が低い天井に響いた。
「恩知らずが!」
もう一発、右頬に衝撃が走る。口内が切れ、苦い鉄の味が拡がってゆく。懐かしい痛みが、幼い日の記憶を掻き回してゆく。
幼い頃は身体を丸め、恐怖に震えていた。アカデミーに入り初めて教官が頰に触れた瞬間の、全身を駆け巡った震え。自分が対象とされる立場にあると知ったときの、無力感。その全てを、生きるための手段として耐えてきた。
この国が勝利しさえすれば、共和国が戦争など始めなければ、こんな思いをせずに済んだ──そう信じて生きてきた。その足場が音を立てて崩れてゆく。
「私がどれだけお前のために上層部と戦ってきたか、分かっているのか!」
怒声を浴びながら、奥歯を食いしばり、ソルは俯いていた視線を上げた。顔を紅潮させて怒り狂うマルグを真っ直ぐに見据える。
「倫理委員会への報告も視野に入れています」
再び大きく手が振り上げられる。膝は震え、呼吸も荒い。けれど止められなかった。
「貴方の中では正義でも、これは明らかな搾取です」
振り上げられた手がぴたりと静止した。胸の奥で灯る気持ちもまた、嘘ではない。
「感謝しています、大佐」
深く頭を下げ、ソルは部屋を後にした。
打たれた右頬は痛みを超え、熱だけを持ち疼く。必死で呼吸を繰り返しながら、ソルは足早に駐屯地を抜けた。
人目を避けながら門を出た瞬間、夜気が熱い頬を包み込んだ。ジャケットを掻き寄せて、黄色い砂を踏む。息は上がったまま、膝は震えている。
駐屯地から僅かに歩いた所で、ソルは足を止めた。見慣れた顔が道端に立ち尽くしている。風に靡く豊かな黒髪。表情は、夜に霞んで見えない。
「何故ここに」
思わぬテンの出迎えにソルが困惑を隠さず溢すと、その足元から古臭い電子音声が聞こえた。
「ソル」
駆け寄るペゴを見て、ソルはまた驚きに目を丸くしながらも腰を落とす。
小石を踏む音が近付き、ソルは顔を上げた。同じように腰を屈めたテンの指先が、唇の端に触れる。右頬の熱が、触れられた唇の端までじわりと広がった。
「気の利いたものがなくてすまない」
ハンカチの代わりに差し出された無骨な指先が、ソルの口元の血を乱暴に、けれど酷く優しく拭い取る。
「いや、少し切っただけだ」
顔を背けようとするソルから、テンは静かに指を離した。足元でペゴがアームを伸ばし、テンがその頭を優しく撫でる。腰を落としたままのテンに、ソルは視線を戻した。
「どうしてペゴがここに?」
「ペゴは扉の前でずっと君を待っていた。心配していたんだろう、君のことを」
ソルが帰るまで休眠モードに入るようにしているはずなのに。こんなことは今までなかった。
「ペゴ、どうしたんだ」
故障を心配するソルを大きな瞳で見詰めたまま、ペゴは優しくソルの頬を撫で続けていた。
「フアンデスカ?」
聞き慣れたその音声に胸が軋む。頬に触れるペゴのアームに手を重ね、ソルは首を横に振る。不安はない。けれど、思考がまとまらない。答えが見えない。
ペゴの頭部がゆっくりと開閉する。
「ワタシハズット、ソルノミカタ」
それは、ソウゴの言葉。いつでもソルを抱き締めて、髪に頬を寄せて囁いてくれた、父の愛だった。
冷たい身体を抱き寄せて、ペゴの丸い頭に頬を寄せる。機械油と錆の混ざった匂いに触れた瞬間、堪えていたものが蓋をなくし溢れ出した。
「俺は、どこへ向かえばいい」
答えはもう、二度と返ってはこない。




