九 残光
静まり返った小さな部屋。機械に囲まれ、空になったガラスケースの中で、父の桃色が白く変色してゆく様を眺め、ソルはいつまでも立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていたか。突然背後でアイリスが声を上げた。
「ソルの保護プログラムが破棄された。実行まで六時間」
その言葉に、ソルはガラスケースを見上げるペゴを抱き上げた。
「急ごう。今から国境に向かえば間に合うはずだから」
走り出そうとするアイリスを、テンが止めた。
「アイリスはここに残れ。手当てをしないと」
気遣うようにその肩に触れるテンを見上げ、アイリスは首を横に振るばかり。
「二人をちゃんと送り届ける。腕はいつでも直せるから」
いいのか、と問うテンに強く頷く横顔を見詰めながら、ソルは腑抜けた頭を振った。
ペゴを抱く手に力を込めて、三人は走り出す。純潔の中、未だ首を垂れる人々の間を。
ドームの外はひどい砂嵐が吹き荒れていた。人々の姿はなく、不気味な唸りと共に細かい砂が身体に打ち付ける。フードを目深に被り、ソルは足を止めることなく微笑みの道を駆け抜けた。
ホームに降り立ち、ソルは顎先を伝う汗を拭う。ざらざらとした砂の感触が、手の甲を擦る。
「間に合うか」
アイリスは小さく頷いて、深い闇の向こうを見詰めた。
あと五時間半。共和国の入り口までは、メトロに乗れば三時間半ほどか。
到着を待つ時間は永遠のように感じた。もし共和国の中枢で保護プログラムが切れれば、生きて帰る術はない。
気ばかりが急き、ソルは静まり返ったホームで何度もタブレットの時計に目を落としては、ベンチの前で行ったり来たりを繰り返していた。
何度目か時計に視線を落としたとき、風が穴から吹き込んだ。目の前に停車した鉄の躯体に、三人は素早く乗り込む。二人が席に着く中、ソルはその場で足を止めた。
扉が閉まり、動き出す。微かな揺れを感じながら通路を進む。ほんの一瞬だけ逡巡して、ソルはテンの隣に腰を下ろした。驚いたように振り返ったテンが、恐る恐る俯くソルの顔を覗き込む。
「どうした」
「いや、少しだけ……ここにいさせてほしい」
テンは黙り込んだまま頷いて、ソルの疲れ果てた肩を抱いた。
「少し休め」
小さく頷き、ソルはテンの肩に額を預けた。熱い体温を感じながら瞼を閉じる。
ぽっかりと空いた空洞。乾いて、風も吹かない。けれど虚無ではない。それが、胸を締め上げて堪らない。
今更思い出ばかりが鮮明に駆け巡る。絵本を読み聞かせてくれた声、髪を撫でてくれた手のひら、くっつけた肌のざらつき。抱き締めたペゴに頬を寄せるたび、その冷たさにガラスケースが蘇る。
確かに幸せだった。幼い日の記憶だけがソルの支えだった。死を覚悟して志願した。父に会いたい、もう一度、話がしたい──その一心で。けれどこの道はもう、自分で選んだものだ。
窓のない棺に連れられるまま、ソルはじっと瞼を閉じていた。真っ直ぐな背が丸まってゆくにつれて、肩を撫でていたテンが背中をさする。その手のひらの大きさを感じながら。
眠っているわけではない。けれど深く沈み込んだまま、時間は過ぎていた。
「ソル、着いたぞ」
テンの声に瞼を開き、ホームに降りる。緑色の導光板に導かれるまま、ソルは足を踏み出した。
あと二時間──。砂嵐が迫る街を、三人は駆け抜ける。周りの人々は気にも留めず、生活を続けている。手を繋ぎ、ものを食べ、人間らしく生きている。
均等な街並みの中に抱かれ、ソルは胸を圧す息苦しさに咽せた。その音にテンが振り返る。
「平気か」
「問題、ない」
もつれながらもそう言うと、テンは微かに頬を持ち上げて再び前へと振り返った。
あと一時間半──ついに門を抜けた。神兵は皆見送るばかりで、追ってくる気配はない。それでもアイリスが足を止めるまで、三人は走り続ける。
やがて初めて出会った戦車の墓場に着くと、ようやくその足は止まった。
「私はここまで」
ソルも、テンもまた荒い息を吐きながら、彼女の声を聞いた。残された時間はあとわずかだった。
「ありがとう、アイリス。君に会えて良かった」
ひと足先に呼吸を整えたテンが、アイリスに向かい手を差し出す。
「うん。こちらこそありがとう、テン。たくさん話を聞いてくれて」
大きな手を握り返し、アイリスが笑う。
「テンの言葉が、大好きだったよ」
頷いたテンがソルを振り返る。
まだ息が整わないまま、ソルは汗を拭い背筋を伸ばした。
「ソル」
ソルの前に歩み寄ったアイリスの眉尻が、微かに下がっている。
「ありがとう」
深く頷いて、ソルは手を差し出した。
「腕を、早く治せ」
差し出した手をアイリスが握り返す。二人の間を熱が伝う。
「うん」
固く交わした握手を、どちらともなく解いた。指先が微かに触れて、温もりが離れてゆく。
ソルは踵を返し走り出す。前をゆくテンの背中だけを追いかけながら。
苗床となった戦車も、蛇に似た根も、大樹の苔に覆われた幹も、駆け抜けた日々の断片のように流れ去ってゆく。
あと十七分──やがてアイリスにもその時が来て、忘れてしまうのだろう。帝国と共和国の、二人の人間の魂が触れ合ったことを。けれどそれでいいのだと、締め上げられる胸に言い聞かせる。
森を駆け抜けながら、ソルは息苦しさに何度も唇を噛み締めた。目尻から溢れた涙が風に千切られてゆく。止める暇もなく、止める理由もなく。それでもソルは帝国への道を走り続ける。
広い世界を旅することを夢見た少女の魂が、いつか光へと還ることを祈りながら。
砂嵐で霞む遥かに、太陽が堕ちてゆく。空を赤く染めながら。静かに、だが、確かに──。
第二部 了




