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BORDER  作者: 鴻上縞
第二部
18/19

九 残光

 静まり返った小さな部屋。機械に囲まれ、空になったガラスケースの中で、父の桃色が白く変色してゆく様を眺め、ソルはいつまでも立ち尽くしていた。


 どれくらいそうしていたか。突然背後でアイリスが声を上げた。

「ソルの保護プログラムが破棄された。実行まで六時間」

 その言葉に、ソルはガラスケースを見上げるペゴを抱き上げた。

「急ごう。今から国境に向かえば間に合うはずだから」

 走り出そうとするアイリスを、テンが止めた。

「アイリスはここに残れ。手当てをしないと」

 気遣うようにその肩に触れるテンを見上げ、アイリスは首を横に振るばかり。

「二人をちゃんと送り届ける。腕はいつでも直せるから」

 いいのか、と問うテンに強く頷く横顔を見詰めながら、ソルは腑抜けた頭を振った。


 ペゴを抱く手に力を込めて、三人は走り出す。純潔の中、未だ首を垂れる人々の間を。

 ドームの外はひどい砂嵐が吹き荒れていた。人々の姿はなく、不気味な唸りと共に細かい砂が身体に打ち付ける。フードを目深に被り、ソルは足を止めることなく微笑みの道を駆け抜けた。


 ホームに降り立ち、ソルは顎先を伝う汗を拭う。ざらざらとした砂の感触が、手の甲を擦る。

「間に合うか」

 アイリスは小さく頷いて、深い闇の向こうを見詰めた。

 あと五時間半。共和国の入り口までは、メトロに乗れば三時間半ほどか。


 到着を待つ時間は永遠のように感じた。もし共和国の中枢で保護プログラムが切れれば、生きて帰る術はない。

 気ばかりが急き、ソルは静まり返ったホームで何度もタブレットの時計に目を落としては、ベンチの前で行ったり来たりを繰り返していた。


 何度目か時計に視線を落としたとき、風が穴から吹き込んだ。目の前に停車した鉄の躯体に、三人は素早く乗り込む。二人が席に着く中、ソルはその場で足を止めた。

 扉が閉まり、動き出す。微かな揺れを感じながら通路を進む。ほんの一瞬だけ逡巡して、ソルはテンの隣に腰を下ろした。驚いたように振り返ったテンが、恐る恐る俯くソルの顔を覗き込む。

「どうした」

「いや、少しだけ……ここにいさせてほしい」

 テンは黙り込んだまま頷いて、ソルの疲れ果てた肩を抱いた。

「少し休め」

 小さく頷き、ソルはテンの肩に額を預けた。熱い体温を感じながら瞼を閉じる。


 ぽっかりと空いた空洞。乾いて、風も吹かない。けれど虚無ではない。それが、胸を締め上げて堪らない。


 今更思い出ばかりが鮮明に駆け巡る。絵本を読み聞かせてくれた声、髪を撫でてくれた手のひら、くっつけた肌のざらつき。抱き締めたペゴに頬を寄せるたび、その冷たさにガラスケースが蘇る。

 確かに幸せだった。幼い日の記憶だけがソルの支えだった。死を覚悟して志願した。父に会いたい、もう一度、話がしたい──その一心で。けれどこの道はもう、自分で選んだものだ。


 窓のない棺に連れられるまま、ソルはじっと瞼を閉じていた。真っ直ぐな背が丸まってゆくにつれて、肩を撫でていたテンが背中をさする。その手のひらの大きさを感じながら。


 眠っているわけではない。けれど深く沈み込んだまま、時間は過ぎていた。

「ソル、着いたぞ」

 テンの声に瞼を開き、ホームに降りる。緑色の導光板に導かれるまま、ソルは足を踏み出した。


 あと二時間──。砂嵐が迫る街を、三人は駆け抜ける。周りの人々は気にも留めず、生活を続けている。手を繋ぎ、ものを食べ、人間らしく生きている。

 均等な街並みの中に抱かれ、ソルは胸を圧す息苦しさに咽せた。その音にテンが振り返る。

「平気か」

「問題、ない」

 もつれながらもそう言うと、テンは微かに頬を持ち上げて再び前へと振り返った。


 あと一時間半──ついに門を抜けた。神兵は皆見送るばかりで、追ってくる気配はない。それでもアイリスが足を止めるまで、三人は走り続ける。


 やがて初めて出会った戦車の墓場に着くと、ようやくその足は止まった。

「私はここまで」

 ソルも、テンもまた荒い息を吐きながら、彼女の声を聞いた。残された時間はあとわずかだった。

「ありがとう、アイリス。君に会えて良かった」

 ひと足先に呼吸を整えたテンが、アイリスに向かい手を差し出す。

「うん。こちらこそありがとう、テン。たくさん話を聞いてくれて」

 大きな手を握り返し、アイリスが笑う。

「テンの言葉が、大好きだったよ」

 頷いたテンがソルを振り返る。


 まだ息が整わないまま、ソルは汗を拭い背筋を伸ばした。

「ソル」

 ソルの前に歩み寄ったアイリスの眉尻が、微かに下がっている。

「ありがとう」

 深く頷いて、ソルは手を差し出した。

「腕を、早く治せ」

 差し出した手をアイリスが握り返す。二人の間を熱が伝う。

「うん」

 固く交わした握手を、どちらともなく解いた。指先が微かに触れて、温もりが離れてゆく。


 ソルは踵を返し走り出す。前をゆくテンの背中だけを追いかけながら。


 苗床となった戦車も、蛇に似た根も、大樹の苔に覆われた幹も、駆け抜けた日々の断片のように流れ去ってゆく。


 あと十七分──やがてアイリスにもその時が来て、忘れてしまうのだろう。帝国と共和国の、二人の人間の魂が触れ合ったことを。けれどそれでいいのだと、締め上げられる胸に言い聞かせる。

 森を駆け抜けながら、ソルは息苦しさに何度も唇を噛み締めた。目尻から溢れた涙が風に千切られてゆく。止める暇もなく、止める理由もなく。それでもソルは帝国への道を走り続ける。

 広い世界を旅することを夢見た少女の魂が、いつか光へと還ることを祈りながら。


 砂嵐で霞む遥かに、太陽が堕ちてゆく。空を赤く染めながら。静かに、だが、確かに──。



第二部 了

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