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BORDER  作者: 鴻上縞
第二部
17/18

八 父の膝で

 アイリスに導かれるまま、ソルは静けさに包まれた純潔の中を歩き続けた。テンも言葉を発する気配はない。ただ口を真一文字に結び、珍しく眉間に皺を寄せている。

 真っ直ぐに続く廊下の両端で首を垂れる人々は、皆神兵なのだろうか。それすらももう分からなくなっていた。


 どれだけ歩き続けたか。アイリスの髪が不意に飜る。

「ここ」

 短くそう言って、アイリスは扉の脇に光るパネルを操作した。短い電子音が鼓膜に触れた瞬間、扉が音もなく上へと上がってゆく。ソルは廊下と同じ白い床が目の前に拡がってゆくのを追い掛ける。


 扉が上がり切った瞬間、ソルは呼吸の仕方を忘れていた。

 だらんと垂れたソルの手を、アイリスが恐る恐る握る。

「来て、ソル」

 引かれるまま、覚束ない足取りで部屋に足を踏み入れる。視線はただ一点。部屋の奥、中央に鎮座する円柱のガラスケースに縫い付けられたまま。


 桃色の塊が浮いている。無数の細い管が刺さった、両手で掬い上げられるほどに小さな、塊が。


 円柱のガラスケースの前に辿り着くと、アイリスが愛おしむように囁いた。

「連れてきたよ、ソウゴ」

 最も聞きたくなかったその名に、朦朧としていた意識が弾けた。ソルは崩折れそうになる身体を必死の思いで支える。


 目の前で培養液に浸る、皺だらけの、人間の脳──。


 アイリスの手がそっと離れてゆく。問う力さえない。

「ソル」

 どこからか声がした。目の前ではない。右の方から。それは紛れもない、ソルに絵本を読んだ声だった。

「父、さん」

 ひどく掠れた声を喉から絞り出し、ソルは手を伸ばした。ガラスに触れた瞬間、身体から熱が引いた。


 ああ、なんて冷たいのだろう。


 ソルの心に落ちた言葉が、指先から身体の奥へと染み込んでゆく。

「ソル」

 ソウゴの声が再びソルを呼ぶ。どこを見たらいいのか分からないまま、ソルは皺のひとつを見詰めていた。

「父さん」

 それ以外の言葉が、ひとつも浮かばない。ただこの塊が父であると、受け入れようとしている自分がいる。

 頭上でレンズが絞られる微かな音がした。けれどソルは、目の前の小さな父から目を離せずにいた。

「ソウゴ」

 ソルの足元で、古臭い電子音声が鳴る。

「ありがとう、ペゴ。ソルを守ってくれて」

「ワタシハズット、ソルノミカタ」

「そうだよ。ペゴはずっと、ソルの友達」

 それは幾度も聞いた言葉だ。ペゴがソルに贈られてから、ソウゴがペゴに囁き続けた。


 幼き日の記憶がソルの脳を掻き回す。けれど、心は凪いでいた。

「来てくれたんだね、ソル」

 ソルの耳元で絵本を読んだ、右から聞こえる穏やかな父の声。ソルの額に冷たいガラスが触れる。

「大きくなった」

 また頭上で音がした。レンズを絞る、ほんの微かな音。まるで、見詰める瞳を細めるような。


 ソルは時折表面を離れて上がってゆく細かい泡の数を数え始めた。

「どうして、ペゴを呼んだ」

 目の前のガラスに跳ね返った自分の声は、驚くほどに平坦だった。

「私ではない。神兵の意志だ」

「俺を、この国の英雄にしたのは」

「そうしなければ、この国でソルは守れなかった」

 何故──そう問いかけて、ソルは一際大きな泡が浮くのを見た。

「会いたかった、もう一度」

 低く、重い声だった。そこに滲むのは、祈りに似たものだ。

「俺を捨てたことを、悔いているのか」

 ガラスに触れる手のひらから、冷ややかな熱が走る。

「兄弟たちは、もう誰一人生きてはいない。皆処理された。共和国の、工作員として──」

 ぼこん、と大きな音がガラスを伝う。泡が暴れ、幾つも脳から放たれてゆく。

「ソル」

 その囁きに言葉を呑む。先を語らぬまま、父の声が壊れたようにソルの名を繰り返している。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。窓に当たる雨粒を数えたように、ソルは泡を数える。


 なだらかな湾曲に沿わせていた指先が曲がってゆく。

「戦争を、終わらせたいんだ」

 ソルの呟きが、ガラスに跳ねて拡がった。

「巡礼地を移すことがその最善の道だ」

「巡礼地を奪われてから、先人たちは神の元へ還れず荒野を彷徨い続けている。それは我々にとって最も重い罰だ」

 明瞭さを取り戻した声が滑らかに語り始める。

「悲しき魂の救済として、私は神兵を作った。いつか神の生まれし地を再び踏める日まで、魂を保護する器として。けれど神はそれを受け入れなかった。人間は思うよりも脆かった。魂は、崩壊する」

 ふ、と音が止む。ソルの額から、ガラスを伝い微かな振動音が骨に響く。

「ソル」

 優しい声に呼ばれ、ソルはより強く指先を握り込んだ。

「巡礼地は移せるものではない。そこが光の生まれた場所だから」

 レンズを絞る音がした。

「私の魂は、信仰の中にある」

 ソル、と囁いて、大きな泡がひとつ、また浮いた。

「お前の魂は何処にある」


 泡が上がってゆく。ひとつ、ふたつ──ソルは瞼を伏せ、優しい記憶を撫でた。長い時間、祈るように。


 瞼を開き、縋り付いていたガラスから身体を離す。ふと右側に組まれた巨大な機械から短いアラーム音が響いた。ソルはその音の方へと足を運んだ。

 ディスプレイには自分が使うものと同じ言語が並んでいる。ログが高速で流れ、そしてやがて、ひとつの言葉となった。


 それを見詰める心にざらつきはなく、湿りもない。そこには、そよ風すら吹いていない。迷いはなかった。


 生命維持を放棄しますか──エンターの文字を、なぞるように押す。高い電子音が響き渡る。画面全体に凄まじい速度でログが流れ始める。目を逸さぬように、ソルはソウゴを見た。


 培養液が減ってゆく。管が千切れ、底へと沈んでゆく肉塊。

 ソル、と優しい声が呼ぶ。

「抱きしめてあげられなくて、すまなかった」

 ソルは小さく頷いたっきり、黙ってそれを見詰めていた。

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