八 父の膝で
アイリスに導かれるまま、ソルは静けさに包まれた純潔の中を歩き続けた。テンも言葉を発する気配はない。ただ口を真一文字に結び、珍しく眉間に皺を寄せている。
真っ直ぐに続く廊下の両端で首を垂れる人々は、皆神兵なのだろうか。それすらももう分からなくなっていた。
どれだけ歩き続けたか。アイリスの髪が不意に飜る。
「ここ」
短くそう言って、アイリスは扉の脇に光るパネルを操作した。短い電子音が鼓膜に触れた瞬間、扉が音もなく上へと上がってゆく。ソルは廊下と同じ白い床が目の前に拡がってゆくのを追い掛ける。
扉が上がり切った瞬間、ソルは呼吸の仕方を忘れていた。
だらんと垂れたソルの手を、アイリスが恐る恐る握る。
「来て、ソル」
引かれるまま、覚束ない足取りで部屋に足を踏み入れる。視線はただ一点。部屋の奥、中央に鎮座する円柱のガラスケースに縫い付けられたまま。
桃色の塊が浮いている。無数の細い管が刺さった、両手で掬い上げられるほどに小さな、塊が。
円柱のガラスケースの前に辿り着くと、アイリスが愛おしむように囁いた。
「連れてきたよ、ソウゴ」
最も聞きたくなかったその名に、朦朧としていた意識が弾けた。ソルは崩折れそうになる身体を必死の思いで支える。
目の前で培養液に浸る、皺だらけの、人間の脳──。
アイリスの手がそっと離れてゆく。問う力さえない。
「ソル」
どこからか声がした。目の前ではない。右の方から。それは紛れもない、ソルに絵本を読んだ声だった。
「父、さん」
ひどく掠れた声を喉から絞り出し、ソルは手を伸ばした。ガラスに触れた瞬間、身体から熱が引いた。
ああ、なんて冷たいのだろう。
ソルの心に落ちた言葉が、指先から身体の奥へと染み込んでゆく。
「ソル」
ソウゴの声が再びソルを呼ぶ。どこを見たらいいのか分からないまま、ソルは皺のひとつを見詰めていた。
「父さん」
それ以外の言葉が、ひとつも浮かばない。ただこの塊が父であると、受け入れようとしている自分がいる。
頭上でレンズが絞られる微かな音がした。けれどソルは、目の前の小さな父から目を離せずにいた。
「ソウゴ」
ソルの足元で、古臭い電子音声が鳴る。
「ありがとう、ペゴ。ソルを守ってくれて」
「ワタシハズット、ソルノミカタ」
「そうだよ。ペゴはずっと、ソルの友達」
それは幾度も聞いた言葉だ。ペゴがソルに贈られてから、ソウゴがペゴに囁き続けた。
幼き日の記憶がソルの脳を掻き回す。けれど、心は凪いでいた。
「来てくれたんだね、ソル」
ソルの耳元で絵本を読んだ、右から聞こえる穏やかな父の声。ソルの額に冷たいガラスが触れる。
「大きくなった」
また頭上で音がした。レンズを絞る、ほんの微かな音。まるで、見詰める瞳を細めるような。
ソルは時折表面を離れて上がってゆく細かい泡の数を数え始めた。
「どうして、ペゴを呼んだ」
目の前のガラスに跳ね返った自分の声は、驚くほどに平坦だった。
「私ではない。神兵の意志だ」
「俺を、この国の英雄にしたのは」
「そうしなければ、この国でソルは守れなかった」
何故──そう問いかけて、ソルは一際大きな泡が浮くのを見た。
「会いたかった、もう一度」
低く、重い声だった。そこに滲むのは、祈りに似たものだ。
「俺を捨てたことを、悔いているのか」
ガラスに触れる手のひらから、冷ややかな熱が走る。
「兄弟たちは、もう誰一人生きてはいない。皆処理された。共和国の、工作員として──」
ぼこん、と大きな音がガラスを伝う。泡が暴れ、幾つも脳から放たれてゆく。
「ソル」
その囁きに言葉を呑む。先を語らぬまま、父の声が壊れたようにソルの名を繰り返している。
ひとつ、ふたつ、みっつ。窓に当たる雨粒を数えたように、ソルは泡を数える。
なだらかな湾曲に沿わせていた指先が曲がってゆく。
「戦争を、終わらせたいんだ」
ソルの呟きが、ガラスに跳ねて拡がった。
「巡礼地を移すことがその最善の道だ」
「巡礼地を奪われてから、先人たちは神の元へ還れず荒野を彷徨い続けている。それは我々にとって最も重い罰だ」
明瞭さを取り戻した声が滑らかに語り始める。
「悲しき魂の救済として、私は神兵を作った。いつか神の生まれし地を再び踏める日まで、魂を保護する器として。けれど神はそれを受け入れなかった。人間は思うよりも脆かった。魂は、崩壊する」
ふ、と音が止む。ソルの額から、ガラスを伝い微かな振動音が骨に響く。
「ソル」
優しい声に呼ばれ、ソルはより強く指先を握り込んだ。
「巡礼地は移せるものではない。そこが光の生まれた場所だから」
レンズを絞る音がした。
「私の魂は、信仰の中にある」
ソル、と囁いて、大きな泡がひとつ、また浮いた。
「お前の魂は何処にある」
泡が上がってゆく。ひとつ、ふたつ──ソルは瞼を伏せ、優しい記憶を撫でた。長い時間、祈るように。
瞼を開き、縋り付いていたガラスから身体を離す。ふと右側に組まれた巨大な機械から短いアラーム音が響いた。ソルはその音の方へと足を運んだ。
ディスプレイには自分が使うものと同じ言語が並んでいる。ログが高速で流れ、そしてやがて、ひとつの言葉となった。
それを見詰める心にざらつきはなく、湿りもない。そこには、そよ風すら吹いていない。迷いはなかった。
生命維持を放棄しますか──エンターの文字を、なぞるように押す。高い電子音が響き渡る。画面全体に凄まじい速度でログが流れ始める。目を逸さぬように、ソルはソウゴを見た。
培養液が減ってゆく。管が千切れ、底へと沈んでゆく肉塊。
ソル、と優しい声が呼ぶ。
「抱きしめてあげられなくて、すまなかった」
ソルは小さく頷いたっきり、黙ってそれを見詰めていた。




