六 硝子と天井
負傷したアイリスをテンが背負い、Cエリアからメトロに乗って随分ときた。アイリスの指示で降りた場所は、街もない、赤土の荒野だった。
最後に見たとき、アイリスの腕はかろうじて繋がっている程度だった。人間ならば気を失うか、致命傷となってもおかしくない大怪我だ。
一振りの威力に聖骸の恐ろしさを再認識する。と同時に、アイリスがやはりアンドロイドであることをソルは痛感していた。そして心などないと言い切れなかった自分を、必死の思いで噛み殺す。
間もなく日没だ。ソルは急いでテントを張り、火を起こす。少し離れた所から耳に馴染んだ発砲音が一発、荒野に響いた。ふと顔を上げると、渡り鳥が大地に向かい落ちてゆく姿が見えた。
隣で小さな駆動音が鳴った。ソルと同じものを見る癖のあるペゴが、空を見上げて口を開けている。ソルはその頭に薄く堆積した埃を払う。
「ペゴ、何か薪の代わりになるものを」
「リョウカイ」
小さな手足で駆け出したペゴを見送っているうちに、肩に雁を担いだテンが戻ってきた。
「相変わらずの腕だな」
狩人の勘か、動体視力か、飛ぶ鳥を一撃で撃ち落とす腕前には舌を巻く。
テンは答えずに、辺りを見回した。
「アイリスは」
「少し風に当たると言っていた」
そうか、と呟き、手早く鳥を捌いてゆく手元を、ソルはぼんやりと見詰めた。
使い込まれた手だ。指先まで黒い紋様に飾られているが、よく見ると傷も多い。ソルも随分と痛め付けてきた自負があったが、その比ではない。どんな鍛錬を積んだのか、帝国に帰れる日がきたら聞いてみたいものだ。
ソルがそんなことを考えているうちに、捌き終わった雁を自前の棒に刺し、テンが突然こちらに視線を向けた。
「彼女の話を聞いてやったらどうだ」
火にくべた肉の脂が跳ねる音が、焚き火を挟んだ二人の間で鋭く響く。
「何を見せたかった、俺に」
ソルは低く問うた。
「思考乖離とはなんだ」
テンは答えずに、ふと視線をどこかへ向けた。
「アイリスと少し話せ。彼女がまだ君を好きでいてくれるなら、きっと教えてくれる」
テンの瞳の奥が赤く染まる。もう夕日が荒野の果てに触れようとしていた。
睨み付けるように見据えるソルに視線を戻し、テンは言う。
「痛みを知れ、ソル」
誇り高き瞳が、ただただソルを映して燃える。ソルは焼けた木の匂いに咽せるような、息苦しさを覚えた。
痛みなど、涙も忘れるほどに知ってきた。そう吐き捨てたい気持ちを呑み込み、ソルは腰を上げる。
ぱちっと弾けた木の悲鳴が、足を踏み出したソルの背中を押した。
アイリスは西に向かったはず。あの怪我だ、そう遠くへは行っていないだろう。そう思い歩くうち、崩れた岩山の影に小さな背中が見えた。
どう声をかけようか、思案しながら近付いて、ソルは鼓膜に触れたか細い声に思わず足を止める。
「私はアイリス。パパとママに愛されて生まれた女の子。植物が好き、絵本が好き、もっとたくさん好きなものを思い出して、アイリス。私は、アイリス──」
夕日を睨みながら、アイリスは取り憑かれたように繰り返している。まるで、何かに縋り付くように。
その姿に、ソルは畏怖さえ覚えた。
一歩踏み出す。砂を蹴る音に振り返ったその顔が夕日に照らされ、泣き濡れた頬がひかる。
一歩、一歩と近づくたび、アイリスが一定の距離を保とうと慌てふためいている。
「いい。そのままで」
びくりと肩を竦め停止したことを確認してから、ソルはなるべく慎重に近付き、目を見開くアイリスの隣に腰を下ろした。決して触れ合わない。けれど、存在の許諾を意味する距離だ。
「痛みは」
問いながら細い腕に視線を落とす。テンが施した手当は、擬似体液の流れる管を塞ぎ、これ以上腕が離れないよう固定しただけのようだ。
「……痛覚センサーを切った。ドームに戻れば腕は修理をしてもらえるから」
微笑みながら放たれた言葉が、ちくちくと胸に刺さる。
何度彼女に向かい機械と罵ったか。そのたびに歪む顔から、何度目を逸らしたか。
「その、少し、言い過ぎた」
そう切り出して、ソルは堪らずにそっぽを向いた。アイリスはしばらく目を丸くしてソルを見ていたが、やがて肩の力を抜き、地平線へと視線を馳せた。
赤い砂を抱いた風が、二人の髪を揺らす。
「救えると思ってた。ソルも信仰を思い出してくれたら、幸せになれるって」
「信仰は精神を腐敗させる」
そう教えられてきた。ソルもまた、そう信じている。
「信仰は、救いでもある」
アイリスの声は迷いなく、そして澄んでいた。
「救われてきた。どんなに苦しい時でも、私は祈ることができるから」
「祈りとは、なんだ」
「未来を信じること」
胸に手を当ててアイリスが語ったものは、何故だろう。よく知っているもののような気がした。
天井の汚れの数を数えたとき、うさぎの毛並みを撫でたとき──あれが祈りであったような気がしてしまう。
「私は、アイリス」
震える声が、夕闇の迫る荒野に溶けてゆく。アイリスは自らの両腕を抱きしめるようにして、ぽつりぽつりと語り始めた。
「私は生まれつき身体が弱かった。長く生きられないって言われてた」
人間であった頃の記憶か、そう思いかけて、ソルはそれを腹の底へと呑み込んだ。
「それでも植物図鑑を読み耽った。絵本もたくさん読んだ。空の色を知って、風の匂いを想像した。パパが私のために温室から両手いっぱいの花を持ってきてくれて。優しい世界の中で私は育った」
愛おしさと同じくらいの痛切さが、その瞳の中で複雑にうねっていた。
「無菌室のガラスの向こう。優しい笑顔で手を振る二人──触れられない、全てが輝いて見えた」
ソルは黙ってその横顔を見詰めていた。
「この部屋の外には何があるの。どんな匂いがして、どんな音がするの。私も見たい。私も触れたい。私も、世界を歩いてみたい」
アイリスの手が、地平線と溶ける太陽へと伸ばされる。悔しさを潰すように握り込まれてゆく細い指は、風に押し返されて震えている。
「だから、神兵になる道を選んだ。それは私の誇りだったんだよ」
燃える太陽を呑んだアイリスのモスグリーンの瞳が、生々しく揺らいでいた。
「でもね、少しだけ怖かった」
伸ばされていた腕が、静かに沈んでゆく。
「私はどこへいくの。私は消えてしまうの。私は、私でいられるの?」
ふ、とアイリスが振り返る。
「ソル、ここにいる私は、アイリス・グレイシュ。絵本と植物が大好きで、神を信じ、外の世界を夢見るアイリス」
絡み合った瞳が、荒野の砂で霞んでゆく。
「でもいつか、ソルの言う聖骸になってしまう」
聖骸──その言葉がソルの胸を深く抉った。第七防衛ラインで見た、皮膜の剥げた聖骸の顔が脳裏にフラッシュバックする。
アイリスは腕の傷を思い出したように、自らを抱きしめ、ぎゅっと力を込めた。
「思考乖離は、旧型の神兵にここ数年見られるようになった現象。人間でいう、老化……認知症だよ」
認知症、と呟いて、ソルの全身に力がこもる。
「脳が老いて、補助器官として埋め込まれた人工知能と乖離するんだ。やがて脳が死んで、完全に人工知能に切り替わるまで、私たちは最も強い欲のままに彷徨う。魂が尽きるまで」
ソルは思わず息を呑む。一番強い欲が残る、というテンの言葉の真意が、恐ろしいほどの輪郭を持って迫ってくる。
「私たちの脳は、人間であることを忘れれば忘れるほど、老いてゆくんだ」
どうして痛覚センサーがあるのか。どうして血を流し、涙を流し、物を食べて排泄をして、性欲にさえ対応できる模造器官があるのか──その答えに、ソルは慄いた。
彼らは人間の真似事をしていたわけではない。人間としての生理現象を脳に錯覚させ続けることで、自我の崩壊を必死に食い止めていたのだ。
死を迎えた魂が、この赤土の荒野を永遠に彷徨うことを恐れて。
衝撃的な真実を前に絶句するソルから視線を逸らし、アイリスは俯いた。
「いつか、私もああなる」
「お前は、旧型なのか」
問いかけるソルの声は、自分でも驚くほど掠れていた。アイリスは小さく頷く。
「だから祈るの。私は、アイリス。絵本と、植物が大好きな──」
言葉が途切れ、アイリスの細い指が震えるほど強く握り締められる。
「怖くて、堪らない」
押し殺した言葉と共に、涙がこぼれ落ちた。
無機質な機械の胸の奥底に、魂が確かにそこにある。恐怖に震え、世界に憧れ、ただ自分でありたいと願う、一人の少女の魂が。
無菌室のガラス越しに世界を見ていた彼女は、屈辱の中で天井の汚れを数えていた、自分と同じだ。
「俺にもきっと、祈りがあった」
気づけば、口が動いていた。アイリスが驚いたように顔を上げる。
「一匹だけ黒い毛並みで生まれ、兄弟からいじめられていたうさぎが、小さな世界から飛び出して旅に出るんだ。何も持たない、何も知らないうさぎが、長い旅の中でたくさんの傷付いた心に触れて、旅の終わりにやっと宝物を見付けるんだ」
最も柔らかく、最も大切な記憶。それを今、敵であるはずの聖骸に語って聞かせている自分が不思議だった。
「ソウゴの膝の上で、毎日読んでもらった絵本の話。それが、俺にとっての祈りだ」
ソルの告白に、アイリスは唇を震わせた。
「私も、その絵本を知ってる」
指先の力が解け、喜びがその顔を照らす。
「ソウゴがくれたんだ。大好きな絵本」
ソルは小さく息を吐いた。ソウゴが残したものが、今、帝国と共和国の間に引かれた境界線を、いとも容易く越えてゆく。
「ソルも、旅に出たいの?」
アイリスが身を乗り出して問い掛ける。モスグリーンの瞳は、薄闇に呑まれても煌めいている。ふ、と視線を前に向け、ソルは輪郭がぼやけ始めた地平線を指先で撫でた。あの日、テンがそうしたように。
「この世界を、自由に歩いてみたい」
この赤土の荒野も、緑深き森も、腐臭漂うスラムも。そのすべてを、誰に縛られることなくこの目で見てみたい。
「私も」
アイリスの声が弾む。
二人は語らった。絵本のこと、ソウゴのこと、何が好きだったのか、どんな子供だったのかを。帝国も、共和国も、人間もアンドロイドもない。たった二つの魂が、そこにはあった。
すっかり陽は落ち、夜の闇が二人を包み込もうとしていた。ソルは立ち上がり、砂を払った。ふとつられて立ち上がったアイリスの覚束ない様子を見て眉を寄せる。
「暗視にならないのか」
素朴な疑問だった。
「暗視モードは、切ってる」
それもまた、彼女が人間であることへの悲しいほどの縋りなのだと、今のソルには痛いほど理解できた。
ソルは小さく舌打ちをすると、ぶっきらぼうに手を差し出す。
「転ぶと手間だ。その、怪我をしているから」
アイリスが息を呑む気配がした。
長い逡巡だった。差し出したソルの手に、微かに震える指先が重なる。怖がらなくていい、そう言う代わりにそっと握り返す。その手は、とても温かい。
「ありがとう、ソル」
暗闇の中、ソルを見上げアイリスは笑った。それは今まで見たどんなものよりも、澄み切った笑顔だった。




