五 思考乖離
次の朝、階下のダイニングに降りると、テンとアイリスはすでに和やかに会話をしていた。二人の前には湯気が立つマグカップと、朝食なのかビニールの包装に包まれた幾つかの加工肉。飲んでいるものは珈琲か。聖骸が朝に珈琲など、治った頭痛がぶり返しそうだ。
「おはよう、ソル」
アイリスの涼やかな声に、腹の底がふつふつと煮える。隣で警戒心のかけらもなくカップを手にしたテンは、ソルの顔を見て微かに笑った。
「ひどい顔だ。あまり眠れなかったか」
テンは机に放られていた加工肉をソルに向けて投げた。受け取りはしたが、ソルは厳しく眉を寄せる。
「当たり前だろう。こんな敵地の真ん中で眠れると思うか」
ずっと共和国を敵として憎んで生きてきたのに、呑気に眠れるわけがない。
不機嫌なソルに肩を竦め、テンがカップに口をつける。アイリスもまたつられて手を伸ばしかけた所で、ソルはそれを遮るように口を開いた。
「ペゴに干渉したか」
行き場をなくした指先が微かに震える。
「どうして」
ソルを見上げる驚いた顔。やはりうまい。まるで人間だ。
「昨日ソウゴが呼んでいると騒ぎ出した。その状態が五分ほど続いた。故障とは思えない」
しばらくソウゴの名を繰り返した後に、ペゴは突然事切れたように静かになった。それからはいつも通りだった。ソルは干渉を疑っている。
アイリスは視線を下げ、指先で落ち着きなく陶器の縁を撫でた。言い淀んでいるように見える。
「みんな、早くソルをソウゴに会わせたいんだと思う」
「何故だ」
俯いたまま、アイリスは微かに声を震わせた。
「ソウゴはソルのことを、神話の一人……そうだな、分かりやすく言うと、英雄にしたんだ」
「英雄……?」
「この国を、救ってくれる人」
血が煮え滾る音が鼓膜の奥で鳴った。
「ふざけるな、俺は帝国の人間だ!」
鋭い怒声が朝を切り裂き、白い壁に反響し跳ね返る。
「分かってる。ソルに会って分かった。ソルは、英雄じゃないんだって」
当たり前だと吐き出そうとした言葉を咄嗟に呑み込む。アイリスの隣で見守るテンの瞳が、静かにソルを制止していたから。
細い指を組んで、アイリスは苦悩を堪えるように瞼を閉じた。
ふと視線を落とすと、机の上で組んだ指先が微かに震えて見える。そんな所までもいちいち人間らしくて、掻き毟るような焦燥が胸を焼いてゆく。
指を震わせたまま、アイリスは顔を上げ微笑んだ。
「温かいものを食べに行こう。きっと気持ちが落ち着くから」
その痛々しい笑みに、燻り続ける靄が燃えた。テンの牽制などどうでもいい。この憎しみに似た激情を、ぶつけてしまいたい。
「機械油で揚げたフリットか。水の代わりは擬似体液か?」
「普通の食事だよ」
「俺をどうするつもりだ。飯など食わせて、聖骸にでもする気か」
目尻が上がった大きな目を驚きに見開いて、アイリスは必死に首を横に振る。
「違う、違うよ。私はソルのことを救いたい」
「救うとはなんだ。俺を何から救おうとしている」
唇を噛む仕草。悔しさを、憤りを必死に押さえつけている。そのあまりにも人間らしい姿に、脳が焼かれてゆくようだ。
「ソルは苦しんでる」
その言葉に、身体中を熱が駆け巡った。
「機械風情が」
ソルは手に持っていた加工肉を壁に向け力任せに投げ付けた。ぐちゃっ、と湿った音を立て、壁が朱色に染まる。
「捨てられたのは俺だ! 捨てたのは、ソウゴだ!」
「違う、ソウゴは──」
「貴様に何が分かる、人間ではない貴様なんかに!」
高い天井にソルの怒声が響き渡る。残響が死んだ後に残ったものは、激しい呼吸の音だけだった。
静かな間──三人の隙間をひび割れた気配だけが流れてゆく。ソルは熱せられた空気を静かに吐き出し、握り締めた拳をゆっくりと解いた。
「俺は、帝国の人間だ。帝国で生まれ、帝国で育った。信仰など精神の腐敗だ。共和国は、沢山の帝国民を無惨に殺し続けている」
機械の癖に、残虐な方法で遺体を弄んだ。何が神だ。死者を冒涜しているくせに。
眉を下げソルを見詰めていたアイリスは、組んだ指先を震わせながら小さな唇を開いた。
「神兵が生まれる前は?」
決意を秘めた声だった。
「共和国が虐殺されてきた歴史は?」
その言葉に、ソルの喉が締まる。
「繰り返す。ずっと。巡礼地の上に王都がある限り」
分かっている。この戦争は、今始まったものではない。帝国が独立を望んで以来続く、重い意味を持つ宗教戦争だということは。
「ソル、憎み合いたいんじゃない。私はソルのことが好きだから。だから救われてほしい」
「一日二日会っただけで気色の悪いことを。随分と精巧な模倣だな」
ソルが乱暴に吐き捨てると、モスグリーンの瞳を覆う瞼に、ぎゅっと力がこもる。ソルもまた、それ以上言葉に詰まって何も言えなくなっていた。
ようやく言葉を止めた二人を前に、テンがアイリスの肩をそっと抱く。
「もういいだろう。そこまでだ。そろそろ出よう」
そのテンの静かな声に、アイリスは目尻を拭う仕草を見せた。涙など出るものか、と否定した瞬間、ソルは視線を逸らしていた。
テンが家を出る準備を進める中、ソルは不貞腐れて立ち尽くしていた。アイリスもまた、飲みかけの珈琲やソルが投げた加工肉の始末をしている。ペゴは小さな手足で一生懸命アイリスの手伝いをしているつもりらしい。
アイリスの表情が頭から離れない。相手はアンドロイドだ。人間の模倣をしているにすぎない。頭で何度言い聞かせても、少し言いすぎたような気がしてしまう。
ソルの分の荷造りまで終えたテンが、笑みを浮かべて歩み寄る。
「ソル、この国の食事は美味いぞ」
「食べたのか」
「ああ、昨日散歩の途中でな。美味かった」
本気でそう思っているのか、味でも思い出しているのか、テンの顔は緩み切っている。その呑気な様子に、ソルはようやく肩の力を抜いた。
「貴様には呆れ果てる」
「君の頑なさにもな」
むっとして睨み付けると、テンはまた肩を竦め離れて行った。
それから三人は家を出て、アイリスの案内で街を歩いた。昨日よりは随分と慣れたが、睡眠をろくに取れていないソルの足取りは重い。
それでもアイリスだけでなく、テンにも情けない姿を見せる訳には行かず、必死に沈みそうになる身体を引き摺った。
朝食を食べようと街のカフェに入ってはみたが、やはりソルは食べる気になれず。トーストと加工肉を卵で包んだ料理を口に運ぶテンを睨み付けて過ごした。
その肉は一体何なのか全く分からないが、そんなものを警戒心もなく食べるなどはっきり言って正気じゃない。幸い道中テンが狩りをしてエナジーバーもまだ残っている。今は空腹すら感じる余裕はないが、腹が減ったらそれを食べればいい。
アイリスもまたテンと同じメニューを頬張っていたが、視線を向けることができなかった。謎の肉とパンで膨らんだ頬から微笑みが溢れるたび、目尻を拭った姿ばかりを思い出してしまう。
ソルが濛々と唸っているうちに二人は食事を終え、一行はまた歩き出した。
改めて街並みを見回すと、帝国との差を如実に感じてしまう。整然と並ぶ均等な街並み。身綺麗な人々の顔には、満ち足りた笑みが浮いている。道の端では清掃ドロイドが駆動音を響かせている。
電光パネルに常に映るものは、回る円環のシンボルマーク。共和国の還光信仰の象徴だ。厳しい砂漠に根付いた土着信仰が膨らんだもの。国となり、結集し、そして長きに渡り繰り返される争い──。
ふと視線を向けると、テンの隣でアイリスは誇らしげに何かを指差して説明をしている。この国への愛が、その横顔からは滲み出ている。
ソルは平和を望んでいる。戦争が終わることを望んでいる。アカデミーに在学中、課外授業の一環で孤児院に行った。若き軍人の卵が着る制服を、輝く瞳で見上げていたあの無垢な笑顔。自分を一人の兵士として真っ直ぐに見詰めてくれた子どもたちに、こんな思いをさせないために。
観光気分で歩き続ける二人の背中を眺めているうちに、ソルはいい加減に腹が立ってきた。呑気に遊んでいる場合ではない。共和国の内側を記録しているという点では有意義かもしれないが、平和な人々の生活しかピアスには映らない。もういいだろう。
「ソウゴはどこにいる」
突然の問いに振り返ったアイリスの表情が、あからさまに距離を取ったものに変わる。随分とテンは懐かれ、ソルは嫌われたものだ。
「ドーム。共和国の聖都、信仰の根源だよ。私もそこから来たの。メトロに乗っていけばすぐだから」
「この下に、地下鉄が?」
「そう。共和国は街と街の間が離れているから」
帝国に公共の移動手段はない。資源の問題や、崖が多い土地だから。資料映像で幼い頃に見た電車の姿を思い出しながら、微かに胸が浮つく。
しかしその気持ちを折るように、テンが口を開いた。
「アイリス、少し寄り道をしていいか」
「うん、どこへ行きたいの?」
「Cエリアをソルに見せたい」
突然名を呼ばれ、ソルは眉を寄せる。こちらを振り返ったアイリスの表情は固い。
「分かった」
ぽつんと呟いた声も、どこか不安げだ。
あれきりアイリスは黙り込んだまま。整頓された街の一角、地面に大きく口を開けた穴へと入って行った。標識など何もない。穴の先には階段が続いている。太陽の光を白い壁が乱反射し、必要以上に明るいこの街とは別世界。天井の左右に灯る緑色の導光板だけが真っ直ぐに照らしている。
二人の後について慎重に階段を下りる。人気はなく、ゲートもない。思い描いていた駅とはまるで違う。
階段を下り切ると、少しひらけた場所にぽつんとベンチが置かれていた。どうやらここがホームのようだ。ここもまた無人。ぽっかりと口を開けた空洞だけが佇んでいる。虚からは風も感じない。
「ソル、まだ少しかかるから座って」
アイリスの声に振り返ると、すでに二人はベンチに腰を下ろしていた。テンの膝に抱かれどこか満足そうなペゴも、あれきり異変はない。
座る前に、ソルはアイリスの前に立って問いかけた。
「運賃は」
「必要ないよ」
「他に乗客はいないのか」
アイリスは小さく頷いて、視線をつま先に落とした。
「うん、もう街の行き来をするのは私みたいな調査員しか殆どいないんだ」
「戦闘兵は」
曖昧な笑みが浮かぶ。
「そうだね、戦いたくなった人は乗るかもしれない」
「かもとはなんだ」
揃えた膝に置かれた指先が、微かに強張るのが見えた。
「みんな、それぞれの意志で動いているから」
共和国は国家的な指示系統は持っていないと言い張っている。国際社会への言い訳かと思っていたが、真実だったのだろうか。
「ソル、いいから座れ」
テンのその声に意識を戻し、ソルもベンチに腰を下ろした。
誰も口を開かない時間は、間延びしたような感覚に陥る。随分と待っている気がしたのに、時計の秒針は少し傾いただけ。
やがて音も光もなく、風だけが押し出されて吹き抜けた。アイリスが立ち上がる。鈍色の躯体が闇の底から現れ静かに停車した。気密解除の排気音と共に扉がスライドし、乗り込むアイリスの後について二人も足を踏み入れる。
通路を挟んで椅子が並んでいるが、やはり乗客はいない。窓はなく、潜水艇のよう。
緑色の光。人の気配のない、鉄の塊の腹の中。憧れた電車とはまるで違う。棺桶に詰め込まれた気になって、余計に気分がささくれ立つ。
何の感動もない。変わらない景色の中、ソルはいつの間にか眠りに落ちていた。
テンに肩をゆすられ目を覚ます。まだ頭がはっきりしないまま、ソルは二人の後について歩き出した。
「ここがそうなのか」
「地上に出ればすぐだ」
本当に移動したのかと疑わしくなるほどの、同じ景色。緑の光、人気のない──テンがソルに見せたがった、Cエリアとは何なのか。
だが地上に向かう階段を登りながら、ソルは異変に眉を寄せた。匂いがする。無臭だった国境の街とは違う、確かな匂いが。そして音。乱暴な金属の音だ。
長い階段を登り切り、地上に足を踏み出し、ソルはより深く眉間に皺を寄せ、思わず鼻先を腕で覆った。微かだった匂いが、強烈に嗅覚を貫いた。あまりにも強い、甘ったるくて吐き気のする、壮絶な腐臭。直接鼻腔を殴られているかのようだ。
「酷い有様だな。スラムだ」
ソルは思わず吐き捨てる。統制の取れた街並みなど微塵もない。家すらない。赤土の荒野をぐるりと囲む塀。その中で、無数の聖骸らしい人影が中毒者のように朦朧と歩いている。中には転がった岩を熱心に痛め付けているものもいる。
「ライフラインが機能していないんだ。食べたものはそのまま」
アイリスの言葉を耳で聞きながら道端に目をやると、蠅がたかる黒ずんだ山がいくつも点在している。これは機械油と混ざった肉や魚が腐敗した臭いのようだ。
「吐きそうだ」
あまりの匂いに唾液が余計に溢れ、胃がひっくり返りそうになる。ものを食べていなくてよかった。ソルが逃げ場のない不快に喘いでいると、テンがその耳元で声を落とした。
「ソル、気を抜くな」
「何だ。一体俺に何を見せたい」
「知りたいんだろう。俺の見る景色が」
テンは少し細めた瞳で周囲を警戒しながら歩を進める。その背中を見送って、ソルはその場で佇んでいた。
これがテンの見せたかった共和国の闇とでも言いたいのか。だがソルに驚きはない。帝国も似たようなものだ。死都と認定された街は、犯罪者や薬物中毒者の巣窟となっている場合が多い。正直いって、帝国の現状の方が悲惨だ。長く続く戦争が始まってから、日に日にひどくなっている。
ソルが憂いている背後で、突然怒声が上がった。奇声の方が近いだろうか。言葉ではない、野太く若い男のものだ。驚いて振り返ると、思うよりも近くで聖骸が喚いている。どこからもぎ取ってきたのか、その手にはアンドロイドの足。気が触れたように大地に叩き付けている。野良か──ソルがそう結論付けたとき。
目が合った。スローモーションのように、瞳孔が絞られてゆく。
全身を駆け抜けた悪寒。瞬間的な命の危機。ほぼ無意識に手が動いた気がしていた。けれど空腹と極度の緊張、加えてまともに眠っていない脳の処理が僅かに遅れ、腰に伸ばした指先も空を切る。
力強く大地を蹴り上げる。思ったよりも速い。避けられない──。
「ソル!」
アイリスの悲鳴と共に、強い力で突き飛ばされた。
質量を持つ物質同士が激しくぶつかる音だけが鼓膜を震わせる。倒れ込みながらもサイドアームを引き抜き、ソルは振り返りざま聖骸の脳を目掛けて迷いなく引鉄を引いた。
鋭い破裂音が響き渡り、振り上げた腕をそのままに、聖骸の身体がゆっくりと傾いでゆく。重い音を立て、砂埃を巻いて絶命する聖骸、吹き飛んだ頭から覗く朱色、倒れ込むアイリス。鼻先に香る硝煙に、ソルは呼吸を取り戻す。
駆け寄ったテンが倒れるアイリスを抱き起こす。右腕に、滲み出した赤がゆっくりと拡がってゆく。
「大丈夫か、アイリス。すぐに手当てを」
助けられたのか、聖骸に。その現実をはっきりと認識した途端、ソルは憎しみに似た激情に喉を震わせた。
「必要ない。痛みもないはずだ」
「ソル、黙れ」
テンの声は突き放すようだ。帝国側の人間のはずなのに。ソルの、相棒だと自惚れていたくせに。
「見ただろう、俺は殺されかけた。こいつらはアンドロイドなんだよ!」
「ソル!」
燃え揺らぐ金色がソルを射抜く。その奥底に眠る感情に、ソルは息を呑む。
「今のは思考乖離を起こした神兵だ。彼女とは違う」
「思考、乖離……?」
「いいからこれ以上怪我人を攻撃するな」
「攻撃されたのは俺だ。やはり聖骸など信用できん」
そもそも信用もしていなかった。そう続くはずの言葉は、ソルを見据えたテンの双眸の力に押さえつけられた。
「君の言葉はずっと、アイリスの心を傷付けているんだぞ」
ソルは思わず震える唇の端を持ち上げた。
「馬鹿を言うな。心など──」
ソルはそこで言い淀む。アイリスの頬が、濡れていたから。
「近付いて、触ってしまって……ごめんなさい、ソル」
痛みに歪む横顔で微笑むアイリスを前に、言葉を失う。
ソルを庇い、出血するほどの怪我を負い、出てきた言葉がそれなのか。触るなと、初めて出会った時に拒絶したことが、それ程彼女の中で強い衝撃だったのだろうか。
ソルは手際良く動くテンの指先だけを見詰め、立ち尽くす。心などない──そう言い切れないまま。




