三 大地の意味
沢山遊んで、沢山笑って、どんな境遇の人にも手を差し伸べられるような、優しい子になるんだよ──。
痩せた膝の上で硬い骨の感触を感じながら、細い腕に抱かれ強く頷いた。そっと髪に口付けて、父はその手と同じ温度で微笑んだ。
まるで白昼夢。幼い日の思い出が、奥底で浮かんでは沈む。
何故父は、自分だけを帝国の人間として育てたのだろうか──。ソルは息を吸ってはそれを問い、息を吐いては呑み込んでいた。
あの花畑を離れてしばらく。木々の隙間から高い壁が見えた所まで辿り着いた頃には、太陽は真上に差し掛かっていた。国境は目の前だ。
強い陽射しから逃れるように、ソルとテンは剥き出しになった木の根に腰掛け、木陰でエナジーバーを齧っていた。少し前、アイリスは国境の警備に二人のことを攻撃しないよう説明すると言って駆けて行った。
説明でどうこうなるものか。そうも思うが、実際ソルは聖骸に攻撃されてはいない。テンもソルの友人だと言えば攻撃はされないのだろう。ソウゴはそこまでの力をこの共和国で持っていることを思い知らされる。帝国では、珍しくもない孤児院の院長をしていたのに──。
ふ、と息を吐き、ソルは思考を遠ざけた。考えても仕方がない。ソウゴに会えば分かることだ。
半分になったエナジーバーをもう一口齧り、奥歯で噛み締める。咀嚼に集中しながらも、またじわじわと思考が蘇る。人工的なベリーの味を舌先で感じながら、あの花畑で目の当たりにした不穏な感情をふと思い起こす。途端に悪寒が走り、それを振り払うようにソルは隣を振り返った。
「彼女は聖骸だ。そうだろう?」
支給されたエナジーバーの味に相変わらず眉を寄せていたテンが、突然のことに少し驚いた瞳を向けながらも頷いた。
「ああ、間違いないな」
「それが、あんな目で俺を見るなんて」
あんな、情を宿した瞳で──。
アイリスが聖骸であることなど聞かずとも分かっていたのだが、ソルの頭の中で第七防衛ラインで聞いたテンの言葉が蘇ったのだ。聖骸は、人間である。意識の上では。その意識とは何なのか、その輪郭がアイリスを見ているうちに指先に触れてくる気がして、必死で振り払っている。気味が悪くて仕方がない。
銀紙を握り潰す音に意識を戻すと、テンは真っ直ぐにソルを見詰めていた。油断している時にぶつけられるその虹彩の美しさに、ソルはいつも喉を引き攣らせる。
「ソウゴの心に影響をうけているのではないのか?」
ソウゴがソルを愛していたから、聖骸たちがその感情を受けているとしても、アイリスから向けられたものには繋がらない。そうソルは首を振る。
「いや、ソウゴは子供たちを愛してはいたが、純粋に父としてだ」
また脳の裏側で明滅を始めた記憶に引き摺られまいと、ソルは腕を組み自身の二の腕を握り締めた。震えはない、大丈夫。そう言い聞かせる。
じっとそんなソルを見詰めていたテンは、ふとしたように壁へ視線を流した。すうっと凪いでゆく瞳を覆うよう、下向きに生え揃った睫毛が深い影を落とす。
「興味深いな」
僅かに口端を持ち上げ微笑むテンの視線の先を追いかけて、ソルは身震いをする。
「気味が悪い」
アンドロイドが恋情や欲情を持つなんて、考えられないことだ。どちらも知らぬソルだが、どれだけその感情が非合理的かは分かる。戦争をしている今、それはあまりにも不必要なものだ。
しかし同時に、第八防衛ラインでの蛮行を記した文字が浮かぶ。報告書にはっきりと記されていた言葉は、相手が人間であれば長い歴史の中でも多分にあったことだ。いくら非難されたとしても、人間の本質は変わらない。しかし相手はアンドロイドだ。聖骸に性欲など、悍ましくて吐き気がする。
「何故気味が悪いんだ」
不意にテンに問われ、ソルは眉を寄せて睨み付ける。
「例え脳がまだ機能していたって、補助的とはいえ人工知能だって埋め込まれている。あれは人間ではないんだぞ。そんなものに情念を向けられて気味悪がらない貴様の方がどうかしている」
息巻くソルを見据える瞳は、やはりそよぎもしない。感情を読み取ることさえ困難で、強い不安感に鼓膜の奥で鼓動が低く轟き始める。
テンが突然ソルから視線を逸らした。その先には、周辺の植物の探知をしているペゴの姿がある。
「ペゴ」
呼びかけに振り返ったペゴは、何の警戒心もなくテンの足元へと駆け寄った。小さな手足で、一生懸命に。愛くるしいその姿にソルが肩の力を抜きかけた瞬間だった。テンは自身のサイドアームであるサバイバルナイフを抜くと、ペゴの頭部に狙いをすまし振り上げた。
間に合う──その判断は一瞬だった。ソルは銃を抜き、テンの眉間に向けて構えた。ぴたりと静止した切先は、あと一瞬でもソルが遅ければペゴの頭部に突き立てられていただろう。いや、テンの腕ならば止める間もなく刺し貫けただろう。
「撃てるのか」
銃口を向けられて尚、やはりテンの瞳は揺らぎもしない。けれどその奥底で、静かに燃えるものが見える気がしてならない。銃を抜いたのではない、抜かされたのだという焦燥感がソルの背筋を駆けた。
「貴様がペゴに何かするつもりなら迷わず撃ち殺す」
鼓動ばかりが激しく胸を叩く。突然のテンの暴挙に思うよりも動揺している。
「君は何故ペゴが壊されると悲しいんだ」
静かな問いに、ソルは引鉄にかけた指先に微かな力を込める。
「ペゴはドロイドだ。人間の脳も入っていない、君を肯定するだけの存在だ」
「いいからペゴを離せ」
ふ、と小さな笑みを漏らし、テンがナイフを下ろす。その音のない動作を睨みながら、ソルもまたじわじわと力を抜いた。鋭く磨がれた切先が革のケースに沈んだことを確認し、ソルもホルスターに銃を収め、腰を屈めて手を差し出す。
「こっちへおいで、ペゴ」
ペゴは何も分かっていないような顔でソルの足元に駆け寄った。丸い頭部を優しく撫で、傷がないことを確認すると、ソルは再びテンを睨み付ける。
「ペゴは、俺の支えだ」
幼い頃からずっと、ペゴだけがソルの支えだった。この気持ちはきっと、誰にも理解されないだろう。されたいとも思わないが、ペゴを傷付けようとしたテンに対して、その瞬間は煮えたぎるような怒りを覚えた。
一体何のためにこんな横暴を働いたのか、少しずつ信頼し始めていただけに、怒りが鎮火してゆけば新たな苦味が奥底から滲み出してくる。唇を浅く噛むソルを見据えながら、テンは静かに口を開いた。
「ペゴにはそれだけ強い愛情があるのに、アイリスは気味が悪いのか。それは共和国のアンドロイドだからか?」
分かりきったことを、と吐き捨てて、ソルはきびしく眉を寄せる。
「聖骸は、帝国を脅かす存在だ」
「アイリスは戦闘兵ではない」
「武器を持てば変わらん」
実際に聖骸は国際法の制約があり、単体ではそこまで秀でた戦闘兵器ではないのだ。建前上はただの人形アンドロイドである。それに武器を持たせているだけだが、やはり人にとっては脅威となることをこの戦争で帝国は思い知った。
ペゴを抱き締め、唸るように威嚇を続けるソルからふいと視線を逸らしたテンは、森を抜ける涼やかな風を受けるように瞳を細めた。
「彼女に心を許してみるといい。君の中で何が壊れるかな」
その言葉に、ソルは返事を返さなかった。
聖骸に心など許すわけがない。ペゴは確かにドロイドだ。けれど五歳の頃からずっとソルの一番の親友で、どんな時でも寄り添ってくれた。
質の低い人工知能故にそこまで高度なやり取りは出来ないが、ただソルに寄り添い、いつでも膝を抱え蹲る小さな背中を励ましてくれた大切な存在だ。
貴方は間違っていない。貴方は自分が正しいと思う道を進んでいる。だから大丈夫。私はずっと、ソルの味方──その言葉に救われた夜が、どれだけあっただろうか。
腕の中できょとんと見上げるペゴにそっと頬を摺り寄せて、ソルはまた浅く唇を噛んだ。
それきり口を開く気になれず、重苦しい空気の中で浅い呼吸を繰り返していると、太い幹に反響する足音が聞こえてきた。木々の隙間に明るい栗色の髪がひかる。軽やかな足取りで二人の前に戻ったアイリスは、息も上がっていない。三キロほどはあるはずだが。そういう微かな違和感から、ソルは嫌悪感をつのらせる。
当のアイリスはそんなことなど気にもせず、木漏れ日の煌めきが似合う笑みを浮かべている。けれどテンに叱責されてから、ソルと少し距離を取るようになった。
「お待たせ、行こう」
テンが腰を上げて荷物を背負い、ペゴをその上に乗せる。そのまま歩き出そうとする二つの背中に、ソルは慌てて声をかけた。
「本当に、大丈夫なんだろうな」
こんなことを聞いても素直に吐かないことは分かっているが、やはり聞かずにはいられない。
「もちろん。みんなソルを一目見たがってる」
その言葉にぐっと眉を寄せるソルを前に、アイリスは慌てて両手を振った。
「大丈夫、ソルに近付いたらいけないってみんなに言っておいたから」
どの程度の街なのかは分からないが、無数の聖骸が一斉に近付いてきたらと思うと震え上がる。悍ましい想像に肩を震わせながらも、ソルは気丈に瞳を尖らせた。
「俺は敵国の人間だ。貴様が何と言おうとそう簡単に国境を越えさせるとは思えない。ここで、何人の帝国兵が殺されたか」
沢山の兵が偵察に赴き、何の成果も得られずに命を散らした。それを思うとやはりテンのように警戒を解く気にはなれない。
無意識に重心が下り、ソルが全身で威嚇を示す。それを敏感に察したのか、アイリスは僅かに後退り、ソルを刺激しないよう距離を取る。その大きな瞳には何故か、やはり慈愛に似たものすら感じる。
「私たちは戦争がしたいわけじゃない。帝国の土地を奪いたいわけでもない」
それはひどく静かな声だった。
「ただ、巡礼がしたいだけ」
巡礼──ソルは思わずその言葉を呟いた。信仰を持たないソルには分からない。巡礼をしたいだけで人の命を奪うその感覚が、あまりにも傲慢に思えてしまう。
「別の場所を設定すれば済む話ではないのか」
例えば共和国が信仰するその神のお告げだとか、上の人間が嘘だろうとそう決めればそれで済む話だ。戦争となっても戦うのはアンドロイドだからか、脳を提供することは自発的だからか。その傲慢さが腹の底を重くする。
ソルの問いに、アイリスの微笑みが翳る。その正体は、悲しみか。
「帝国の王都がある場所は、神が生まれた地。私たちにとって最も大切な場所なんだ」
やはりそんな不明確なものに縋り付いて戦争を起こすなど、とてもではないが信じられない。
「土地を交換しようと掛け合った時代もあった。けれどそのたびに、帝国は強く反発したんだよ」
「だからといって、たかが祈りの場欲しさに戦争など、あまりにも横暴だ。どこだって変わらない。その辺で祈ればいいだろう」
わざと強い言葉で揺さぶろうとするも、アイリスは相変わらず寂しげな微笑みを崩さない。もっと怒り狂え。もっと壊れてみろ。身体の芯から信じているものを、こうも無情に見下しているのだから。
けれどアイリスは揺らぐこともなく、ひどく優しい声で言葉を繋いだ。
「巡礼は、宗徒が洗礼を受けるために行うもの。命を終える時、神の御許に向かうために。私たちにとって、それは最も大切なものなんだ。でも、何百年もそれが叶わなかった」
深緑の葉を引きちぎる強い風を受け、肩口まで伸びた薄い栗色の髪がひるがえる。あの花畑で、それが戦旗に見えた。彼女が戦闘兵であろうがなかろうが、二人の間に国家がある。勝利と、敗北がある。
「信仰を捨てたのに、どうしてあの地に留まるの?」
ソルに言っているのではない。それはもっと漠然とした問い掛けだ。或いは、祈りのような──。
つま先から震えが上がる感覚に、ソルは必死で全身に力を込めた。呑まれてなるか。負けてたまるか。この、魂だけは。
ソルに注がれていた視線がふと遠くへと伸びる。その先は、ソルの故郷、帝国の荒野だ。
「洗礼を受けられずに死んでしまえば、永遠に荒野を彷徨うしかない」
遥かを見据える双眸は、あまりにも澄んでいる。
「だから私たちは神兵となる道を選んだ。いつか神の御許へと導かれるときまで、魂を保つために」
魂──心に吐いたその同じ言葉がアイリスの薄い唇から放たれ、ソルはきつく拳を握り締める。汗の湿りが、搾り出るように関節の隙間に滲む。
不意にソルを見据える瞳が、涙を抱いたように煌めいた。
「ソルには見えない?」
アイリスの小さな手が、静かに自身の胸に触れる。
「私の魂は、まだここにある」
その言葉は、何故か慟哭のように胸の奥で響いた。
この戦争はここ十数年で始まった単なる大地を奪い合うものじゃない。幾百年形を変えて続く戦いなのだと、ソルはその時に初めて思い知った。
風が抜けた。二人の間を別つ、深緑の境界線が揺れる。ソルの身体の奥深く、血脈を揺らす鼓動が轟いていた──。




