一 邂逅
風に雨の匂いが混じる。空気は微かに重みを増し、足元を彩る青々とした苔が色めき立つ。
九つの防衛ラインを陥落させても尚、共和国は古からの国境を保ったまま。かつて帝国の地だった敗戦地は、人が足を踏み入れることはなく、ただただ自然に還ってゆくばかり──。
ジープを下され、荒野を抜けて二週間近く。かつて帝国と共和国の間に横たわっていたこの森を抜ければ、本当の意味での共和国の入り口。帝国兵には墓場と呼ばれる国境に一番近い街だ。二人はただひたすらにそこを目指していた。
あと半日も行けば辿り着く。より強い警戒に神経を尖らせていたソルの緊張に水を差すように、空を犇く重い雲から雨が落ち始めたのは夕刻のことだった。
一週間分のデータの吸い出しを終え、ソルは耳にピアスを戻す。ふと顔を上げると、雨除けに入った洞窟の入り口にちょうどテンが戻ってきたところだった。広い肩には雁が二羽、力なく背負われている。
「ひどい雨だ。しばらく止みそうもない」
「火に当たれ」
棒切れで火をつつきながら、ソルは新しい薪を焚べる。先人が同じようにここで雨を凌いだのか、乾いた木が転がっていて助かった。日が傾きだすと途端に冷える。多少ならそのまま突き進んだのだが、どうもテンの言う通り、雨足は酷くなるばかりでしばらくは続きそうだ。
森に入ってから、テンは野営地を整えることはソルに任せ狩を行うようになった。エナジーバーが気に入らないという理由もあるだろうが、そもそも帝国から支給された戦闘糧食は片道分しかない。帰らぬ旅だと言われているようなものだ。けれど死にに行くのではない。なんとか有益な情報を持って、必ず帝国に帰り着く。
ソルが並々ならぬ決意に燃えている横で、濡れた服を乾かすためシャツまで全てを脱ぎ捨てたテンは、思い出したように岩壁に立て掛けていたライフルを差し出した。
「ありがとう。いい銃だ」
それを受け取りながら、ソルは小さく鼻で笑う。
「当たり前だろう。これは初期型とはいえ名銃だ。貴様の銃は本来ルーキーが使うものだ」
「これはこれで扱いやすいんだよ。俺は軽い方が好きだな」
言いながら、テンは狩ってきた雁を素早く捌いてゆく。毟られた羽が舞うたびに、ペゴがそれを目で追っている。残酷だ、と思わず目を背けたくなりながらも、ソルはじっとテンの手元を眺めていた。
命を糧にすること──民族の因習に反発し故郷を離れたテンが未だ食事の前に必ず祈る理由が、ほんの少しだけ感じられるようになってきた。
テンが素早く捌いた雁を棒切れに通して焼き始めると、ソルはようやく視線を逸らし洞窟の入り口をぼんやりと眺めた。雨音が葉に当たる音だけが、深い夜の中に降っている。
「静かだな」
帝国では叩き付ける風が常に鼓膜を殴り付けていた。それは荒野ばかりではない。イルガーデンが閉院してから、ソルの周りでは常に吹き荒んでいた。侮蔑や嘲笑、鬱陶しくて、煩くて堪らない砂嵐が。
ここは静かだ。この十年、こんなに心穏やかな時はなかった。
珍しくテンは答えずに、じっと赤々と揺らぐ炎を見詰めている。火の調節を真剣にしていると言うよりも、どこか沈んだ気配。
「貴様の故郷も近いな」
ふとソルはそう溢していた。それがテンの痛みだと、心のどこかで知っていたのに。一瞬その瞳が揺らいで見えたのは、炎のせいか。
「ああ、そうだな」
テンはそう言って、どうしてか安らかに微笑んだ。真名を預けた許嫁を想っているのか。ソルはその心に触れてみたくて手を伸ばす。
「顔を見せてやらないのか。妹に」
「二度と戻らぬと伝えて発った。それに彼女はきっと、もう誰かの子を産み育てているだろう」
それが、民族のためだから──。火を見詰め俯く横顔はそう言っている。テンの妹はそれで幸せなのだろうか。ついそんなことを考えてしまう。
「君に似ていた」
なに、と返すソルを見もせず、テンは相変わらず微笑んでいる。
「今はただ、俺について行きたいと一瞬でも願った自分を責めていないことを祈るばかりだ」
そこまで行き着くに、どれだけの時をテンが越えたのか。どれだけ悩み苦しんだのか。言わずとも、微かな空気で伝わってくる。
「さあ食おう。塩を持ってきた俺に感謝をして」
いつものように砕けた調子で戯けるテンからは、もうまとわりつくような重い湿度を感じない。
食事を終えて直ぐにテンは眠りに落ちた。見張は交代だ。緊張感が続く戦地での休息は一分も無駄にはできない。そういう意味では、寝付きや寝起きのいいテンはありがたい。
テンが起きるまで見張を続けながら、ソルはライフルごと膝を抱え洞窟の外を見詰めた。
深い暗闇の中、雨音が近付いてくる気配がする。霧は濃くなり、土の匂いが強く鼻先を撫でてゆく。夜の闇などもう怖くもないのになぜか、少しだけ身体が震えた。
交代で眠り、朝日が昇る前に二人は洞窟を出て再び歩き出した。雨は止み、森は深い霧に呑み込まれている。ペゴから定期的に送られてくる地形を確認しながら、注意深く足を運ぶ。
ぬかるんだ土や、大蛇に似た根が大地を覆い森は思うよりも足場が悪い。息が上がるソルとは対照的に、テンは口笛でも吹きそうな様子。背負ったリュックにペゴを乗せていると言うのに、ソルよりも明らかに軽やかだ。その涼しい横顔を時折恨みがましく睨みながら、ソルはテンを真似て深い呼吸を意識して歩き続けた。
荒野にいたソルにとって、森は未知の領域だ。目印になりそうな倒木や枝葉の広がりに個性はあるものの、苔に抱かれた大木の群れが続くと同じ景色に思えてしまう。正直一人だったら精神的に参ってしまっていただろう。
そうやって弱る心を奮い立たせながら歩き続けるうちに、空気が少しづつ変わってきた。大木の影で、蔓草に侵食された戦車が傾いている。注意深く見回せば、辺りには古い戦争の傷跡が瘡蓋にもならずまだ血を流していた。
風化できずに転がったままのヘルメット。爆撃で深く抉れた大地が苔に覆われる姿。ここはこの戦争が始まった時、最も激しく人が殺し合った場所だ。
アカデミーで知識として詰め込んだと思っていた。けれど戦地の現実は、いつも思うよりも凄惨だ。
物悲しさに胸を痛めていると、ペゴの周辺探知システムが異常を検知した。ソルは少し前をゆくテンの肩を引き、一度足を止めた。
「五百メートル先に何かいる」
小さな反応だ。木々が視界を塞いでいる森の中でこの距離からの捕捉は不可能。ここはもう共和国の地。ここまで一度も聖骸には出会わなかったが、ソルの全身を一瞬にして緊張が駆け抜けた。
足音を立てぬよう慎重に距離を詰めながら、ソルは肩にかけていたライフルを手に持ち替える。本来は偵察が目的だ。この反応が聖骸だとしてもここでことを起こしたくはないが、単体ならば処理したほうが早いだろう。
木々に身を隠しながら近付いてゆくと、少し開けた平地に少女が座り込んでいた。肩上で切り揃えられた髪を微かに揺らし俯いて、項垂れているようにも見える。
「聖骸だ」
顰めた声で囁き、ソルがライフルを構えた瞬間だった。これまで黙り込んでいたテンがおもむろに手で制し銃口を下げた。
「待て」
「何をする、聖骸だぞ」
「冷静になれ、様子が変だ」
苛立ちを抑え言われた通り観察してみると、確かに座り込む聖骸の右脚は地面に埋め込まれた古いトラバサミに挟まれているようだ。
「罠にかかっている。好都合だ」
再び構えようとしたものの、やはりテンはそれを許さない。まだ向こうは気付いていない。こんな好機を逃せば仲間を呼ばれるかもしれない。その苛立ちに、ソルは鋭くテンを睨み付ける。
「退けないと、その手ごと撃ち抜くぞ」
思わず少し声を荒げた瞬間、こちらに背を向けていた聖骸が振り返った。翻る栗色の髪が、朝のするどい光に透かされ細い軌道を描く。
「誰!」
アンドロイドとは思えない、生身の少女の声が木々に跳ね返り響き渡った。
「言わんこっちゃない!」
「待つんだソル!」
ソルはテンを振り払うように無理矢理ライフルを構える。早く始末しなければ、やられる──。
「ソル」
少女の声がその名を呼んだ瞬間、モスグリーンの瞳がちらりと揺れた気がした。その刹那、赤い閃光がソルの眼球を貫いた。
「くそっ……!」
あの時と同じだ。あの、第七防衛ラインで襲われた時と──。
「ソル!」
何故か自分の名を叫ぶ少女の声を聞きながら、ソルは必死で瞼を擦りながら後ずさる。
「何故俺の名を呼ぶ、何故だ!」
混乱と焦りが冷静さを奪ってゆく。見えない視界で暴れるソルを、テンの腕が倒れないように支えた。それすらも煩わしくて、苛立ちばかりが加速する。
「君は神兵だね」
この混沌とした状況に似つかわしくない落ち着いた声が触れ合った肩から響く。
「貴方は敵」
低くなった少女の声に、ソルはようやく瞼を開きぼやける視界でなんとか聖骸の姿を睨み付ける。
「こいつは敵じゃない!」
いや、この少女にしてみれば敵ではあるのだろうか。テンは帝国に手を貸しているのだから。混乱を退けるために、ソルは一度強く頭を振る。
「俺の、敵じゃない」
ソルを攻撃する気はないが、テンのことはそうではない。テンに攻撃させないためには、ソルの敵ではないと伝えることが一番手っ取り早いのではないか。
そう考えて絞り出したソルの言葉に、少女はゆっくりと瞬きをした。
「ソルの、友達?」
「違う」
「ソルノトモダチデス」
「余計なことを言うな」
しばらくじっとテンを見詰めた少女は、ふとしたように眉を下げた。
「あれ、貴方、ヒィメル族だね」
「テンだ」
「私はアイリス。ごめんなさい、森の民を敵だなんて言って」
混乱が収束しないソルを置いて、二人は少しづつ警戒心を解いてゆく。
「君に危害を加えるつもりはない。その罠を外すから、お互い友好的に話をすると約束してくれるか?」
「もちろん。ソルの友達ならテンは敵じゃない」
テンが聖骸の少女──アイリスに向かい歩き出す。
「テン、待て!」
ソルの静止も聞かずアイリスの元に辿り着くと、その手は細い足に噛み付くトラバサミを躊躇なく解除してしまった。罠にかかっていた聖骸が自由になったことに慌てて銃を構えるソルなど構うこともなく、テンはアイリスに手を差し伸べる。その手を取って立ち上がったアイリスは、右脚を曲げ地面につかないように庇っている。
「痛い、のか」
思わずソルが問い掛けると、驚いた顔がソルを振り返る。
「おかしなことを聞くんだね。痛いよ。こんなに血が出てる」
確かに、トラバサミが食い込んでいた箇所の灰色のスラックスは赤く染まっている。しかし、それは血液などではない。
ソルが再び混乱から黙り込んでいると、テンを見上げたアイリスは、その幼さの残る顔に似合う純真な笑みを浮かべた。
「ありがとう、テン」
どういたしまして、と返し、テンはそっと手を引いた。その視線がふと自身の赤くなった指先に落ち、そのまま静かに握り込む。何かを確かめるように。
ソルも無意識にその先を追いかけたが、突然アイリスが右脚を庇いながら片足で跳ねるように移動を始め、慌てて銃を構え直す。しかし側の岩に腰を下ろした彼女は手際よく足の手当てをするだけだ。
「君は何故ソルを知っているんだ」
テンは脈絡もなく、軽い調子で問い掛ける。いきなり核心に迫ることを聞くとは思わず、ソルは思わず息を呑む。けれどアイリスは白い頰を持ち上げると、嬉しそうに弾んだ声で答えた。
「ソウゴが教えてくれた。ソルは宝物だから、見付けても傷付けてはいけないって。きっとたった一人で苦しんでいるから、解放してあげないとって」
一体何を言っているのか、理解が追いつかない。やはりこれはソウゴの意志なのか。ソルを敵と見做さない、プログラム。一体何故、何のために。ソウゴはソルを帝国に一人残し、逃げたのに。
愕然とするソルを振り返った瞳は、見たことがないほど、あまりにも澄み切っている。
「皆貴方を探していたんだよ、ソル」
皆──その言葉が、脳を這って回り始める。
「もう大丈夫。この国に辿り着いたんだもん」
あまりにも屈託なく、アイリスはそう言い切った。
いいようのない感情が全身を軋ませる。愛した国から蔑まれ生きてきたのに、敵である聖骸からもたらされる、圧倒的な許容。存在を受け入れられることは、求めていたもののはずだ。けれど嫌悪感だけが汗と共にソルの肌を粟立たせていた。




