月不知のセレネー32
柏木くんから受け取った名刺をまじまじと眺める。これはいったい誰の名刺だろう? 状況的に柏木くんの名刺だろうか? だとしたら彼はボカロPということになる……。そんな考えが頭を駆け巡った。
「これは柏木くんの?」
私は疑問をそのまま彼に尋ねた。我ながら思考停止な質問だと思う。
「そだよー」
「ボカロPやってたんだね……」
「まぁね。でもまぁ、アレよ。『インビジブルムーン』と比べたら天と地。月とすっぽんみたいなもん。あ! もちろんウチがスッポンね」
柏木くんはそう言うと自分で言ったことにウケたように「フッ」と笑った。あまり面白くない冗談だ。
「てことは昔から鍵山さんたちのこと知ってたの?」
「うーん。知ってたと言えば知ってたし、知らなかったと言えば知らなかったかな? だって『インビジブルムーン』ってボカロPとしては有名だったからね。とはいえ……。直接面識はないかな? 何回かネット上で絡んだことはあるけどお互い顔知らなかったしね」
ネット上で知り合い以上友達未満……。きっとそんな感じなのだろうか? 正直ネットに疎い私からしたらよく分からない。
「ふーん……」
「あ! 聞いといてその反応なくない!?」
「ごめんごめん。最近周りでいろんなことありすぎて驚くのにも飽きてたんだ。別に柏木くんの経歴にケチ付けたわけじゃないから気にしないで」
私はそんな弁明にもならないような言い訳した。本当に最近は驚くのにも流石に飽きた気がする。
そうこうしていると個室の襖越しに「失礼します」という声が聞こえた。そしてゆっくりと襖がスライドしていく。
「お料理お持ちしました」
横芝さんはそう言うとお盆に乗せた料理とビールを私たちの前に並べてくれた。注文した生ビールと軟骨唐揚げと突き出しの小鉢。そして刺身の盛り合わせと和牛の和風ステーキと春巻き。そんな宴会的なメニューがテーブルに並ぶ。
「え? こんなにいいんですか?」
「はい! もう予約キャンセルのお客様が注文した料理ですので。あとは……。デザートにマンゴープリンもありますので最後におっしゃってくださいね」
横芝さんはそう言ってニッコリ笑った。その笑顔はまるで恵比寿様のようだ――。
「ずいぶん豪華だね」
横芝さんが行ってしまうと柏木くんが料理を眺めながら感心したように言った。
「本当にね。いや……。マジで」
「さすが陽子ちゃんだよ。やっぱり持つべきものはコネクションだねぇ」
柏木くんの言葉に私は思わず苦笑いした。確かにコネを持つのは大事だけれど、行きつけの居酒屋の店員さんとの関係をコネクションと言って良いものなのだろうか?
「で? 話の続き。柏木くんはけっこう長いことボカロPやってるってことでOK?」
乾杯を終えると私は再び彼に話を振った。柏木くんは料理をつまみながら「うん、まぁ。そうね。かれこれ一〇年はやってるから間違ってはいないよ。来歴だけなら『インビジブルムーン』よりちょい先輩だしね。ま、俺がやってることなんて音源をサイトにアップしたり、それ系のイベントで配布してるだけだけどね」と言った。そしてさもありなんと「ふあぁぁ」と大あくびする。
「ふーん。ボカロって単体のイベントもやってるのね」
「おいおい、陽子ちゃん。一応ボカロP相手にしてるんだからそれぐらいは勉強しとかなきゃだめでしょ? ……うんとね。ちょっとこれ見て」
柏木くんは皮肉っぽく言うとさっきまで触っていたタブレットを拾ってブラウザで何やら検索し始めた。そして検索が終わると私にタブレットを差し出す。
「これは?」
私はタブレットを受け取ると画面を確認した。そこには『ボーカロイド系即売会一覧』と表示されている。
「それがボカロのリアルイベントの一覧だよ。俺が出たのはその中で上の三つくらいかな? けっこう盛り上がってるんだ」
「そうなんだ。知らなかったよ」
私は軽く相づちを打つとタブレットを操作してイベントの概要をチェックしてみた。どうやら大きなイベントは数百サークルが一堂に会するらしい。柏木くんの言うとおり割と大きなイベントのようだ。
それから柏木くんは事細かに私の疑問に答えてくれた。ボカロPがどうやって曲作りしているかだとか、どこの投稿サイトが人気だとか、イベントに参加するサークルはどんなだとか……。そんなサブカルな情報。
「――ま、そんな感じよ。けっこう奥深いでしょ?」
「そうね。思ってたよりずっと」
「うん。そうなんだよー。いや、本当に。だからやりこむといろんなことしたくなるんだよねぇ」
そう話す柏木くんの顔は少し誇らしげに見えた。おそらく私が企画部にいた頃と同じような気持ちなのだと思う。自分のやるべきことを居場所でやれる。それは非常に幸せなことなのだから。




