月不知のセレネー31
店内に入ると馴染みの店員の横芝さんがカウンターで伝票整理していた。彼女は五〇代前半くらいの女性で長年ここで働いている。私の入社当時には既にベテランっぽかったのでおそらく二〇年くらいはこの店で働いているのではないだろうか?
「いらっしゃぁい」
横芝さんはまるで近所のおばさんみたいに私たちを出迎えてくれた。彼女は非常に気さくな人物なのだ。
「こんばんは。急な予約ですいません」
「いえいえ、大丈夫ですよ。ちょうど予約キャンセルがあったからむしろ助かりました」
彼女はそう言うと顔に皺を寄せて笑った。営業スマイルではない。これは本当に私たちの来店を喜んでいるような顔だと思う。
それから横芝さんは私たちを店の奥の個室に案内してくれた。
「七時半から団体さん入ってるんですよ。だからうるさかったらごめんなさいね」
「いえいえ。こちらこそ当日に無理に予約しましたので」
そんなやりとりをしながら奥の個室に通される。室内には掘りごたつ式のテーブルが置かれ、壁には日本画風の風景画が飾られていた。実にちょうど良い部屋。ありふれた居酒屋のありふれた個室。そんな感じだ。
「とりあえず生ひとつ……。柏木くんは? 何飲む?」
「んじゃ俺は……。うん。俺も生で」
「了解! すいません。じゃあ生二つと軟骨唐揚げお願いします。あとは決まったら追加します」
私はそんな調子で横芝さんにオーダーを伝えた。ビールと鳥軟骨の唐揚げ。居酒屋の定番メニュー。
「はいはい……。軟骨と生ふたつですね。あとですね……。実は今日のキャンセル分の料理が余ってるんですが良かったらお出ししますか? もちろんお代はけっこうですので」
「え? いいんですか?」
「はい。春川さんには普段からよく利用してもらってますのでこれくらいはさせてください」
彼女はそう言うとおばちゃんみたいに左手を前に突き出して振る仕草をした。まぁ実際年相応のおばちゃんなのだけれど。
「ありがとうございます! ではせっかくなのでいただきます」
「はいはい! じゃあそちらも一緒にお持ちしますねぇ」
彼女はそう言いながらオーダー用紙を前掛けにしまうと立ち上がって「それではごゆっくりお過ごしください」と言った――。
それから私たちは向かい合って料理が来るのを待った。柏木くんはタブレットPCをバッグから取り出して何やらチェックしている。
「今日はお疲れ様!」
「はい、お疲れ様です」
柏木くんはタブレットから視線を一瞬あげてそう返事した。そして再びタブレットに視線を落とす。
「今度は鍵山さんにも会わせるからね。何なら京極さんが山梨行くとき同行してもらってもいいし」
「はい……。そうっすね」
今度は視線をあげずに答える。
「とにかく相手はボカロPさんだからね。ちょっとでも勉強しとかないとね……。私なんかぜんぜん畑違いだしさ」
「まぁ陽子ちゃんはそうだろうね。だってボカロ曲あんま知んないんでしょ?」
柏木くんはそこまで話すとタブレットにカバーを付けて横の座布団に投げた。
「そうだね。正直あんまり……。ってかまったく分からないかな」
「うーん……。そりゃちょっと難儀だねぇ」
柏木くんはそう言うと腕組みして唸った。
「難儀って?」
「いんや。大したことじゃないんだけどさ……。ボカロPって大概個性の塊だからね。なんつーか自分の価値観曲げない人が多いんだよね。それでいて物腰は柔らかって感じ……。だから下手に接するとやっかいなんだよねぇー。ま、これは俺個人の感想だけどさ」
柏木くんはそこまで言うと胸ポケットからたばこを取り出した。そして口にくわえて火を付けることなく唇でたばこを上下に揺らす。
「……大丈夫よ。ここ喫煙可だから」
「うん。陽子ちゃんタバコ大丈夫な人?」
「あんまり好きじゃないけど平気だよ。でも直接私に吹きかけないでね」
私がそう言いきると同時に彼はタバコに火を付けた。匂いから察するにこれはメビウス系の匂いだと思う。
「とにかく。ボカロPへの接し方は注意した方がいいよ。特に『インビジブルムーン』は良くも悪くもクセが強いサークルだからね」
「ずいぶん詳しいのね」
「ああ、そりゃあね。だって……」
彼はそう言いかけるとタバコの煙を天井に向かって吐き出した。
「だって? 何よ?」
「うん。だって俺も同じ穴の狢だもん。ほら」
柏木くんはそう言うと胸ポケットから名刺を取り出して私に差し出した。名刺には『同人音楽サークル スターブレイク ボカロP ほしのかしわ』と書かれていた。




