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月不知のセレネー27

 そんな風に鍵山さんと話していると母が帰ってきた。玄関からビニールの買い物袋が擦れる音が聞こえる。音から察するに今日はかなり買い込んできたらしい。

「……母が帰ってきたみたいです」

 私は毛恥ずかしい気持ちを隠しつつ彼女にそんな言い訳をした。言い訳している横から「御苑ー。今日はスパゲッティーだからねぇ」という声が聞こえた。母はしっかり者だけれど少しデリカシーが足りないのだ。まぁ、私が通話してるとは思わなかったのだろうけれど。

『フフフ、明るいお母様ですね』

 スピーカー越しに鍵山さんのそんな声が聞こえた。恥ずかしい。流石に顔が熱くなる。

「ハハハ……。まぁ」

 私はそうやって語尾を濁して笑うことしか出来なかった――。


 それから私は母の夕飯作りの音を聞きながら鍵山さんと歌詞の打ち合わせをした。私が歌詞を諳んじて鍵山さんがそれに対して感想を言う。そんな音と言葉のキャッチボールだ。

『すごいです! やっぱりプロの作家さんって言葉選びが綺麗ですねぇ』

「ありがとうございます。そう言ってもらえるとすごく嬉しいです」

『いやほんと! すごいです! こんな短時間でここまで歌詞が書けるなんて』

 鍵山さんにそう言われてさっきとは違った意味で顔が熱くなった。文芸くらぶで貰う感想以上に嬉しい。素直にそう思う。

『実は私も一曲作ってみたんです。まだ仮ですが……』

 鍵山さんは恥ずかしそうにそう言うとポロンとピアノを鳴らした。

「すごい! 鍵山さんも早いじゃないですか」

『ハハハ、まぁ……。実はこの話をいただいたときにはもうできあがってたんですけどね……。良かったら聞いてくれますか?』

「はい是非」

 私がそう答えると彼女はピアノの鍵盤を叩き始めた――。


 私は彼女の演奏をスピーカー越しに黙って聴いた。曲調はドビュッシーに近い。どうやら彼女の作曲スタイルとはポップスよりはクラシック寄りのようだ。

 綺麗な旋律を聴いていると見たこともないはずの彼女の姿が瞼の裏に浮かんだ。艶やかな長い黒髪。色白で切れ長な目。すっとした鼻筋と小さな口。そんな少女が私の頭の中でグランドピアノを弾いている。その姿はまるでギリシャ神話の女神のようだ。

 思えば彼女の名前はセレネーだったっけ……。今更そんなことを思い出した。アルテミスやヘカテーと同じ月の女神。彼女はそんなファンタジックな名前なのだ。しかも私みたいにペンネームではなく本名……。そう考えると非常に希有な名前だと思う。

 私がそんなことを考えていると演奏はサビの部分に入った。どこかで聴いたことのあるような懐かしい曲調だ。もしかしたらコード進行自体はよく使われているものなのかも知れない。

 でもそのメロディは今まで聴いたどんな曲よりも美しかった。ここまで言うと過言に聞こえると思うけれどクラシックの作曲家の曲よりも遙かに感情を揺さぶられた。それくらい彼女の作ったその曲は素晴らしかったのだ。魂を削って作り上げた音……。聴いていてそう感じた。

 サビが終わるとフェードアウトするみたいにピアノが音が途切れた。そして鍵山さんの小さなため息がこぼれる。

「素晴らしいです!」

 私は素直に思っていたことを口にした。そして反射的に拍手もした。我ながら小学生みたいなリアクションだと思う。

『ありがとうございます』

 鍵山さんは照れた様子で言うと再びため息を吐いた。


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