月不知のセレネー28
鍵山さんの演奏の余韻が部屋いっぱいに広がる。母の包丁の音も混ざっているけれどさっきよりは気にならなかった。むしろは母の作り出す包丁の音色さえ心地よく感じる。
『実はこの曲は昔から温めていた楽曲なんです』
鍵山さんは息を整えながらそう話した。
「そうだったんですね。どうりで完成度高いわけですね」
『ええ、私がまだボカロ曲作る前に構想していた曲なので……。まぁまだタイトルさえ決まってないんですけどね』
無名の名曲。私の頭の中にそんな矛盾した言葉が浮かんだ。知られていないという意味ではない。まだ名付けられていない。まだ生まれてさえいない。そんなニュアンスだ。
「タイトル決めって難しいですもんねぇ。私も毎回悩んでます。まぁ……。私の場合は最後にはいつも普通になっちゃうんですけどね」
そう話しながら私は自身の『異世界奇譚』のタイトルを思い浮かべた。私が考えたのは『自分たちの住む場所とは異なる世界での不思議な物語』という安直すぎるネーミングなのだ。我ながらどうかと思う。今の文くら系作品の方が何倍も創意工夫のあるタイトルを付けているのではないだろうか?
『そうなんですよ! カッコいいタイトルって難しいんですよね……。だから私たちのサークルでは海音ちゃんが全ての曲のタイトル考えてくれてるんですよね。情けないですが私には語彙力がないので……』
鍵山さんはそんな風に自虐すると『ふはぁ』と空気が漏れるような笑い声をこぼした。
「まぁまぁ。みんな才能には向き不向きがありますから。私もそうです。物語の世界観やキャラクターを作り出すのは得意ですが校正と校閲は苦手なんですよね。今は半井先生に手伝って貰ってどうにかやってますが……。だからきっと私は半人前の作家なんです。誰かの手を借りてやっと作品を作れてる感じなので」
『わかります! 私も誰かに手伝って貰わないと一人じゃ出来ないんですよねぇ』
鍵山さんはそう言うと友達を見つけたみたいに人懐っこく笑った。私もつられて同じように笑った。きっと私たちはよく似ているのだ。境遇も周りの人間関係も近いのだと思う。違うことがあるとすればビジネスパートナーが生きているか死んだかだけ……。
「……それにしても綺麗な曲でした。まるで月面を散策してるような。そんな曲調でしたね。あ! すいません。訳の分からない例え持ち出して」
『いえいえ。っていうかすごいです! よくそのイメージ浮かびましたね。実はこの曲は月の海の上を歩いているイメージで書いた曲なんですよ。クレーターの丘や渓谷を一人で歩いてる女の子を思い浮かべながら作ったんです。まぁ……。そうは言っても私は生まれてから一度も月を見たことないんですけどね。笑っちゃいますよね。私の名前にも『月』の字が入ってるのに』
鍵山さんはそう言うと悲しそうに『いつか見れたらいいんですけどね』と付け加えた。
思えば私自身、最後に月を見たのはかなり昔だった気がする。それこそ小学校の低学年の頃。あの頃はまだ眼鏡も掛けてなかったし肉眼でお月見したっけ……。そんな遠い記憶がよみがえった。
だから私も鍵山さんと似たようなものなのだ。当然知識としては知っているけれど二度とまともに見ることが叶わない。それはとても悲しいことだと思う。
そこまで考えて私は最初から見えないのと途中から見えなくなったのではどちらが悲しいのだろう? と思った。思えば私は二年というそれなりの時間を掛けて光を失ったのだ。今思い返すとそれは非常に怖い経験だったと思う。
徐々に光を失ったせいで家族も友達も犬も猫も……。そして月さえも次第にぼやけていった。私の視界に広がるそれはあまりにも絶望的でまるで少しずつ濁っていく水の中で目を開いているようだった。
だから私は色々なことを試した。目薬を大量に目に流し込んだり、視力が良くなるトレーニングを片っ端からやった。医者からは無駄だと言われたけれどそうするしかなかったのだ。まぁ結果だけ見れば医者の言った通りだったのだけれど。
私がそんなことを考えていると鍵山さんが『でも指先だけはしっかり月を覚えてるんです』と言った。
「指先だけ?」
『はい! 海音ちゃんが『月』の正確な模型買ってきてくれたんです。だから……。変な話ですが私は普通に目が見える人より月の地形には詳しいんです。少し撫でればそこがなんて名前の海か分かるくらいですからねぇ。ってあんまり役に立たない特技ですが』
鍵山さんは自身にツッコむとまた笑った。こうして話してみると明るくてよく笑う子だと感じる。
「それってすごいですよね。見たことがないものにすごく詳しいってかなり貴重だと思います」
『フフフ、そう言ってもらえると嬉しいです。まぁ、とは言っても見たことある人には敵わないんですけどね。結局、私は月を知らないんです。一番近しいのにその正確な姿さえ分からないんですからねぇ』
鍵山さんはそこまで話すと深いため息を吐いた。今日吐いた中で一番深いため息だと思う。
「あの……。もし良ければさっきの曲のタイトルの案出してもいいですか?」
『え!? いいんですか!? もちろんです! 作家さんに決めてもらえるなら最高です』
「ハハハ、実はさっきの話聞いてて思い立った言葉がありまして……」
私はそんな風に少しだけもったいぶった後に曲のタイトルを口にした――。




