5話・厄介な婚約者
次の日も、宣言通りアレクシ様は朝からナミュール家にやってきて、私が起きて準備してくるのをずっと談話室で待っていた。
「あの、次からはもう少し遅く来ていただけませんか?」
「ごめんね、迷惑だった?」
「えぇと……迷惑なわけでは……。お待たせしてしまうのも忍びないですし」
「リュシルを待っている時間も楽しいから気にしないで。それに、わざわざ着替えなくてもいいんだよ。もっと言うならリュシルの寝顔を眺めて待っていたいし、リュシルが起きて一番初めに見るのが僕であればいいと思ってる」
まるで歌うような口調で踏み込んだことを言ってくる彼に苦笑して、「現状通りでこれからもお願いします」と伝えると、彼は「残念」と肩を竦める。
なんだろう、この噛み合ってない感は。私のせいなのだろうか。前のリュシルだったらアレクシ様のこのテンションを受け入れてた?
「……えっと、ところで今日のご用件は……」
他の話題に逃げた私をアレクシ様は特に咎めず、「用がなくても僕はリュシルに会いに来たいんだけどな」とか言いながら何枚か書類を出した。
本当にこの人のテンションが分からない。私、昨日私と前のリュシルは違うって話したよね……? 私の夢だった……?
出された書類はどうやら私の家庭教師候補の経歴書のようだけれど、生憎と私には中身を読んでもどの経歴がどう凄いのかはいまいちピンとこない。
ただ恐らく由緒正しい家柄なのだろう彼が選んでくるだけあって、経歴が埋まっていてなんかすごそうな人ばかりだ。
「僕としては、このあたりが良いかなと思うんだけど、どうかな? ちなみにブシェ先生は僕たちの子どもの頃の先生だけど……それも憶えてないかな」
「……申し訳ないです」
「謝らないで。リュシルはこの先記憶がないことで僕に一つも謝ることはないからね」
むしろ……と何か言いかけたアレクシ様は私を見てはぐらかすように笑みを浮かべながら言葉を切って、私に家庭教師候補の書類を手渡す。
私はそれを受け取って何周か目を通してみるも、諦めて書類の束ごと彼に返した。
何を判断基準にしたらいいのかも、この国の常識すら全く分からないのに、無理に自力で決める必要はないだろう。現地のことは詳しい人に聞くのが一番だ。
「私には良し悪しが分からないので、アレクシ様にお任せいたします」
「そう、ならこっちで手配しておくね。それと……」
私の向かい側に座っていたアレクシ様が立ち上がって、私の隣に座り直してきた。
身体が触れるくらいの距離に座ってきたので、人一人分空けて私が座り直すと、彼は酷く不満そうな顔をする。
どうしよう、この人の情緒がずっと分からない。何をしたらお互い心穏やかな状態で帰っていただけるのだろうか。
「どうしてずっと敬語なの? 僕たちは婚約者なんだから、他人行儀な話し方は僕たちの関係に相応しくないよ」
「そう……なのですか?」
メラニーにヒントを求めようとしてメラニーの方向へ視線を滑らせようとすると、アレクシ様が私の顔を覗き込んできてメラニーが隠されてしまった。
「そうだよ。だから次に僕に対して敬語を使ったら、翌朝は君の寝顔を見に行くからね」
「頑張り…………頑張る、わ」
危なかった。早速明日起きたら部屋に彼がいるショッキング展開になるところだった。
「惜しかったな」
ぼそりとアレクシ様が呟いたけれど、その声色がやけに低くて不穏だったので聞こえなかったことにした。
アレクシ様が帰るのを玄関まで見送ると、彼は意外にもあっさりと帰っていった。
いや、あっさり……とはちょっと違った。私の髪を触って名残惜しそうに彼自身の長い指に絡めて弄ってから「今日はもう仕事休もうかな」と呟いていた。
アレクシ様の仕事ってなんだろうかと聞こうと口を開いた矢先、「明日も来るから」と告げて出て行ったのだった。
リュシルのことが好きなのかと思う反面、引く時はあっさり引くものだから、アレクシ様が何を考えているのか全く分からない。
そもそもお仕事が何なのかすら知らないのだから、私はまだ彼のことを何も知らない。
せめて明日はアレクシ様について話したいと考えたところで、毎朝妙に慌ただしく出て行くのを見るに、もしかしたら昼だと仕事の都合がつかないから朝に来ているのでは……と思い至った。
それは……そうなのでは……。私は記憶喪失かつ病み上がりだからのんびりと何もしない一日を過ごしていたし、てっきりそれがこの世界の貴族らしい――実際に私が知っている貴族像と同じかは知らない――暮らし方なのだと思っていたけれど、別に貴族にだってきっと仕事はあるのだ。領地経営とか、宮廷内での政治とか、たぶん……よく分からないけれど。
だから昼に来いと言っても無理な話だったのだ。定時という概念があるかは分からないけれど、朝に来るということは出勤前に来ているということなのだろうし。
だとしたら家庭教師の件といい、だいぶ負担をかけてしまっているのではないだろうか。まだ婚約者だとはいえ中身の私がリュシルとは別人なことはアレクシ様本人も知っているわけで、それなのに家庭教師の選定までお任せしてしまったのは良くなかったと思う。
明日また来ると言っていたし、せめて朝はお待たせしないようにしよう。私の起きる時間が遅くなればなるほど、彼の出勤時間がギリギリになってしまうのだろうから。
メラニーとともに自室に戻り、髪留めを緩めてもらう。
少し楽になった頭を緩く振ると、未だに見慣れない青い髪が視界に入った。
「メラニーにも家庭教師候補の書類を見てもらえば良かったわね。私だけではどう選べばいいのか分からなかったからアレクシ様にお任せしてしまったのだけれど」
「勿論私が拝見できればお役に立てたかと存じますが、オールヴェルニュ様は私にはお見せにならないでしょう」
「……なぜ?」
「あのお方は、お嬢様のことは何でもご自身で決めたいと思っていらっしゃるからです」
前はそうでもなかったと思うのですが、とメラニーが小さく付け加えるのを聞いて、私は首を傾げた。
前はそうでもなかったけれど、今はリュシルのことをなんでも決めたがる……? それは私という別人になったから、前のリュシルを取り戻そうとしたいだけではなくて?
「……アレクシ様がお決めになる家庭教師が悪い方なわけではありません。最高峰の先生をお連れになるでしょう。ですから、知識が偏りそうでしたら旦那様と奥様の許可を頂いた上で、僭越ながら私がお教えいたします」
「メラニーが教えてくれるなら助かるわ」
アレクシ様はいまいち信用していいかまだ分からないし、お父様とお母様にはそもそも私が本物のリュシルではないことを伝えていない。リュシルではない私のことを知ってもなお変わらず親身にしてくれるメラニーだけが頼りだ。
「……これは、オールヴェルニュ様が何をしたいのか分かる気がいたしますね」
「メラニー?」
「いいえ、なんでもありません。このメラニーが全身全霊でお嬢様をお支えいたします」
洗練されたお辞儀をするメラニーを見て、心強い味方がいて良かったとひとまず安堵したのだった。
そういえば、私はアレクシ様がアレクシ・オールヴェルニュというお名前で、リュシル・ナミュールの婚約者で、公爵子息なことくらいしか知らない。
両親との顔合わせで緊張していた席で婚約破棄の話をされ、同時に婚約者の存在を知り、翌日の朝にはアレクシ様本人がやってきて彼のペースに飲み込まれてしまっていた。
そもそも家庭教師の件だって、アレクシ様本人がああ言っているものの、本当に寄りかかっていいものなのだろうか。家庭教師への給料の支払いとかだってあるわけだし……。
今日の夕食の時に両親に確認しておいた方がよさそうだ。
「ねえメラニー、アレクシ様のことを教えてほしいのだけれど……、彼は公爵子息なのよね? ナミュール家は侯爵家だから、オールヴェルニュ家の方が家格が上……という認識は間違っていない?」
確かオールヴェルニュ家の方がナミュール家より家格が上だから、公的に婚約破棄を言い渡すのはオールヴェルニュ家からでないと、ナミュール家からでは失礼に当たる……という話だったはずだ。
「仰る通りでございます。補足させて頂くと、オールヴェルニュ家は皇室の分家筋で、皇帝に子どもが出来なかった代はオールヴェルニュ家から次の皇帝が御即位されます。つまり他の公爵家よりもさらに家格が上ということです」
「それは……、アレクシ様も皇帝になる可能性があるということ?」
もしこのまま婚約破棄をせずにアレクシ様が皇帝になったら、私が皇妃となる可能性があるのだろうか。
皇妃となると尚更責任の度合いも変わってくるし、控えめに言ってもかなり、本当にかなり嫌だ。この国の規模感すらまともに知らないのに、外交とかにも関わるだろう重大な役目が私に務まるとは思えない。体感数日前まではただの日本のしがない大学生だったんだけど……!?
「オールヴェルニュ様も皇位継承権はあります。しかし今の皇室には第三皇子までおりますし、皇太子殿下にはすでにご子息もおられます。あくまで保険のために放棄していないだけで、皇帝になることはないかと」
安堵の溜息を吐いた。
今からあなたは皇妃になります! とか言われたら逃げ出していたところだった。何か粗相をして国を滅ぼしかねないし。想像しただけで背筋が震える。
「オールヴェルニュ様とお嬢様は、お嬢様が4歳の頃からご交流があったそうですよ。10歳の頃に正式に婚約されました」
あったそう、ということはメラニーはリュシルが4歳の頃にはまだいなかったのだろうか。10歳の頃にはいたのかな、どうなのだろう。
「メラニーはいつからこの家で働き始めたの? ……そもそも私は何歳?」
「私はお嬢様が6歳の時に、お嬢様に拾って頂いてこのお屋敷にまいりましたが、私は当時12歳でした。今のお嬢様のお歳は18歳でございますよ。誕生日パーティーの時に倒れられたのです」
この世界で目覚める前の私は22歳だったから、若返ってなんだか得した気分だ。そもそも別人になっているのだから、得も何もないけれど。
ところで、メラニーを拾った……というのはどういうことだろうか。
口を開きかけた時、ノックが鳴って扉が開き、アニーが部屋に入ってきた。
「朝食の準備が整いましたが、こちらにお持ちしてよろしいでしょうか?」
「前はどうしていたのかしら」
急に行動を変えたら、私が別人であることどころか記憶喪失のことすら知らない人には不審がられてしまうだろう。困らない部分は前をなぞった方がいい。
「朝食はいつも自室でお過ごしでした。ちなみに、昼食はその時々で変わりましたが、夕食はご家族で食堂でお取りになるか、オールヴェルニュ様がお嬢様をご邸宅などにお招きでした」
なるほど、今後夕食を彼と取る可能性があるということか。
「分かったわ、ありがとう。朝食はこの部屋で取るから、持ってきてくれる?」
アニーにそう告げると、アニーはテキパキした動きでありつつ綺麗なお辞儀は忘れずにして、最小限の物音で部屋を出ていった。
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