第06話 逃げ道と最終確認
机の上にはマリー侯爵夫人の招待状が一つ。手元の返信用羊皮紙はまだ白い。
セレナの背中が一瞬で冷える。椅子の背もたれが背骨に食い込む。
胸の奥で心臓が暴れる。肋骨を打つ音が頭蓋に響く。
彼女は手を伸ばす。魔力の鏡を引き寄せる。指先が震える。
「……緊急です」
鏡面に指で走り書きする。文字が青光る。
「ギルバートが詰問に来た。すべてを察知しているかもしれない」
返信を待つ。一秒が針のように刺さる。
胃が捩れる。冷たい汗が首筋を伝う。
鏡が震える。文字が滲むように浮かぶ。
「詳細を。今どこに」
セレナは息を詰める。耳を澄ます。階下から足音がしないか。
「書斎に。彼は出かけたはずだが……」
すぐに返信。文字の勢いが増している。
「安全確認。鏡を窓辺に。外の様子を映せ」
彼女は鏡を窓へ向ける。庭を見下ろす。
衛兵の数がいつもより多い。配置が変わっている。
「衛兵が増えている。動きが不自然」
鏡面に刻む指が滑る。
新しい文字。今度は別の筆跡だ。
「ベアトリスです。逃げ道は確保できていますか」
セレナの喉が乾く。嚥下する。
「裏庭の通用門。使用人用の通路」
返信が重なる。
「ではそこから。三十分後に合流を」
次の指示。文字が鋭い。
「エレオノーラです。証拠はすべて携帯を。一点も残すな」
セレナは机の引き出しを開ける。薄桃色の手紙。商工会の案内。白紙の脅迫。
すべてを革のポーチに詰める。重みが腕に沈む。
鏡が再び震える。
「詰問の内容は。具体的な言葉を」
彼女は目を閉じる。ギルバートの声を思い出す。
「『お前は何を知っている』。『鏡を弄んでいるな』」
鏡面が一瞬、強く光る。
「鏡の存在を把握か。ならば一刻も早く」
セレナは立ち上がる。膝ががくつく。
ポーチを肩にかける。革の紐が鎖のように重い。
「……今から脱出します」
彼女の囁きが、鏡を曇らせる。
最後の文字が浮かぶ。全員からのものだ。
「互助会は結束する。あなたは一人じゃない」
セレナは深く息を吸った。冷たい空気が肺を刺す。
拳を握りしめる。爪の痛みで意識を保つ。
彼女は書斎の扉へ手を伸ばした。ノブが冷たい。
背中で、魔力の鏡が微かな温もりを放っていた。机の上には舞踏会への招待状が三通。返信の下書きが一枚。
セレナの目は手紙ではなく、部屋の隅の収納に走った。
「……ここは危ない」
胸の鼓動が早すぎる。耳の中で脈打つ。
彼女は立ち上がる。椅子が軋む。
収納へ歩み寄る。足音を殺す。
手を伸ばす。取手が冷たい。
扉を開ける。きしむ音。
中は日常品で埋まっている。その奥に、月影亭の請求書控えが隠されていた。
紙束を取り出す。指が震える。
薄い紙が擦れる音が、部屋に響きすぎる。
窓の外を見る。衛兵の影が動く。
胃がきりきりと疼く。冷たい汗が背中を伝う。
「移動させなければ」
彼女の囁きは消え入りそうだ。
仮面のペンダントを握りしめる。魔力を込める。
微かな暖かさが掌に広がる。
もう一方の手で、魔力の鏡を取り出す。
表面を請求書にかざす。青光が走る。
「証拠画像、送信完了」
鏡に刻む文字が滲む。
「原本を安全な場所へ移動します」
返信がすぐに来る。
「了解。推奨隠匿場所を送信」
鏡面に地図が浮かび上がる。屋敷の外だ。
セレナの喉が乾く。飲み込む。
「……時間がない」
彼女は請求書控えをポーチにしまう。
革の感触が冷たい。
収納の扉を閉める。鍵がない。
代わりに隠しボタンを押す。魔力の光が一瞬走る。
簡易的な魔法ロックがかかる。
彼女は一息つく。肺が冷たい。
机の上の招待状に視線を戻す。
返信を書くふりは、もうできない。
「これでよし」
セレナはポーチを肩にかけた。
重みが現実を刻む。
次の行動へ向け、一歩を踏み出した。
足元の絨毯が、音を吸い込んだ。
ベッドサイドの魔力鏡が、微かな震えを伝える。
青光が、顔を照らす。
「緊急議案。明日の公聴会、全会一致で決定」
エレオノーラの紋章が浮かぶ。
「証拠ファイルの最終確認を」
セレナは鏡を握り締めた。指先が白い。
呼吸が浅くなる。
「了解。今すぐ確認します」
返信を刻むと、鏡面が変わる。
時系列の証拠記録が、次々と流れる。
騎士団の書類。私的書簡。月影亭の控え。
不貞行為の記録映像。魔力の痕跡検知報告。
すべてが整然と並ぶ。
セレナの胸の内で、冷たい塊が溶けていく。
「……これで十分」
彼女は鏡を覗き込んだ。
「明日、これを見せる」
鏡が再び震える。別の紋章だ。
「ベアトリスより。最終調整完了。今夜は休め」
短い文章に、セレナの頬が緩む。
彼女は深く息を吸った。
「では、おやすみなさい」
返信を送ると、鏡の光が消える。
寝室が、静寂に包まれた。
セレナは鏡をテーブルに置く。
肘掛け椅子に腰を下ろし、明日の礼服に目をやる。
黒と銀のドレス。紋章は外されている。
彼女の手が、布地を撫でる。
「……さあ」
彼女は立ち上がり、暖炉の火を弱めた。
炎が、ゆらりと揺れる。
ベッドの傍らで、ポーチを開ける。
中から、一枚の紙を取り出した。
離婚成立通知書。ギルバートの署名がある。
セレナはそれを、鏡の横に置いた。
ベッドに入る。羽毛布団が体を包む。
天井を見つめ、目を閉じた。
外から、夜警の鐘が聞こえる。
彼女の呼吸が、深く整っていく。 通知書が月光に照らされる。署名は歪んでいた。
セレナは目を開けた。天井の木目が闇に浮かぶ。
「……終わった」
彼女は呟く。声は寝室に吸われた。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
影が壁で跳ねた。
体を横に向ける。羽毛布団がさらさら鳴る。
隣の枕は、冷たく平らだ。
「あの日から……」
口元が緩む。痛みはもうない。
彼女の手が布団の上を動く。
指先が、通知書の端に触れた。
「明日から」
深い息を吐く。胸の奥が軽い。
窓の外で、梟の声がする。
遠くの城の時計台が、鐘を打つ。
彼女はもう一度目を閉じた。
瞼の裏に、仲間たちの顔がよぎる。
エレオノーラの笑み。ベアトリスの頷き。
鏡に映る、無数の匿名の紋章。
足先が温まる。緊張が溶けていく。
肩の力が、床に沈んでいく。
夜風がカーテンを揺らす。
僅かな隙間から星が見えた。
セレナはそっと手を握った。
掌の中に、未来の形を感じる。
呼吸が深く長くなる。
思考の糸が、静かにほどけていく。
最後に、通知書を一瞥する。
月光が、署名のインクを銀に変えていた。
「……おやすみ」
彼女は枕に顔を埋めた。
羽毛の香りが、鼻腔を満たす。
意識が闇へ滑り落ちる。
足音もなく、深い眠りへ。
暖炉の炎が、最後の一閃を放つ。
そして静かに、灰の中へ沈んでいった。
寝室には、均等な呼吸だけが残る。
星明かりが、眠る横顔を優しく撫でる。
「……ふえっ」
声が漏れた。彼女は目を開ける。
天井が暗い。寝返りを打つ。羽毛布団が擦れる。
腕を伸ばす。隣は空っぽだ。
冷たい麻シーツだけが、掌に触れる。
セレナはゆっくりと起き上がる。
背筋が、夜の冷気に震えた。
窓辺に歩み寄る。石の床が足裏を冷やす。
外は漆黒。星も月も、雲に隠れている。
両手でカーテンを掴む。
布地が重い。ぎいっと音を立てて閉じる。
ベッドへ戻る。膝を抱える。
布団の温もりが、少しずつ消えていく。
額を膝に預ける。
瞼の裏に、あの光景が浮かぶ。
彼女は首を振る。
揺らぐ黒髪が、頬を撫でた。
「……だめだ」
低い呟きが、寝室に吸い込まれる。
セレナは布団を蹴る。足を床に下ろす。
暖炉の灰を一瞥する。
もう火はない。冷たい石だけが残る。
化粧台へ歩く。椅子に腰を下ろす。
鏡に映るのは、青白い顔だ。
右手を伸ばし、引出しを開ける。
中から、一枚の羊皮紙が現れる。
月影亭。三文字が、闇の中で鈍く光る。
彼女はそれを握りしめる。紙が軋む。
左手は、仮面のペンダントを探る。
金属の冷たさが、鎖骨に伝わる。
「……よし」
彼女は立ち上がる。羊皮紙を胸に押し当てる。
深呼吸を一つ。吐息が白く濁る。
ベッドへ戻り、布団をかぶる。
羊皮紙を枕の下に滑り込ませる。
ペンダントを握ったまま、目を閉じる。
金属の縁が、掌に食い込む。
次に目を覚ますとき。
もう、迷いはない。
呼吸が、ゆっくりと整っていく。
握り締めた拳だけが、微かに震えていた。
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