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第07話 公聴会、即断罪

 枕が冷たい。いつもと違う感触だ。

 セレナは目を開けた。窓の向こうはまだ闇が濃い。


 ベッドの脇には鏡があった。魔力の微かな光が浮かぶ。

「……さて」


 彼女は起き上がった。足を床に下ろす。石の冷たさが伝わる。

 暖炉の灰はすっかり冷えている。昨夜の炎の名残はない。


 ドアを叩く音がした。規則正しい三回。

「お入り」


 メイドが入ってきた。盆に乗った蠟燭を掲げている。

「おはようございます、ご主人様。お時間です」


 セレナは頷いた。メイドは黙って洗面器を運ぶ。

 水の音が室内に響く。冷たい水が顔を覚醒させる。


 鏡の前に座る。指が櫛を持ち上げる。

 髪が梳かされる。一本、また一本。


 ドレスが運ばれてきた。公聴会用の地味な灰色だ。

 メイドの手が背中のボタンを閉じていく。絹が肌に密着する。


 食堂へ向かう。廊下の窓から微かな夜明けの光。

 足音だけが石畳に響く。静まり返った屋敷の中。


 厨房にはもう火が灯っている。料理人の影が動く。

 パンの焼ける匂い。スープの湯気。


「席にお着きください」


 セレナは椅子に腰を下ろした。テーブルクロスが白い。

 皿が目の前に置かれる。銀器の冷たい触感。


 コップに水が注がれる。透明な液体が揺れる。

 彼女はそれをじっと見つめた。水面に自分の顔が映る。


 メイドがパンを切り分ける。刃が皮を裂く音。

 バターの塊が皿に滑る。黄色い固形がゆっくりと溶け始める。


 スプーンを持ち上げる。金属の重さ。

 スープを一口。温かさが喉を通る。


 窓の外が次第に明るくなる。闇が薄青色に変わる。

 鳥の声が一つ、また一つと加わる。


 セレナはテーブルの端に置かれた書類に目をやった。

 羊皮紙の束。捺された紋章が幾つも並ぶ。


 彼女はそっと息を吐いた。胸の奥で何かが固まる。

 指がスプーンの柄を強く握りしめた。指の関節が白くなる。


 もう一口、スープを口に運ぶ。今度は味がしない。

 喉がごくりと動く。飲み込む動作だけが残る。


 メイドが近づいた。声を潜めて言う。

「馬車は準備が整っております。お時間になり次第」


「ありがとう」


 セレナは立ち上がった。ドレスの裾が軽く揺れる。

 最後にコップの水を一気に飲む。冷たさが胃に落ちる。


 鏡の前で一呼吸。背筋を伸ばす。

 鏡の中の女が、静かに頷き返した。


 玄関へ向かう足取りは軽やかだ。

 だが、彼女の瞳の奥には、鋼のような光が灯っていた。 窓の外、空が白み始めていた。

 セレナはテーブルにパンとスープを並べた。


 玄関の扉が開く音がした。

 ギルバートが、よれよれの外套を脱いだ。


「早いな」

「おはよう。朝食ができています」


 彼女は湯気の立つ器を手に運んだ。

 スプーンの柄が、冷たく指に触れる。


 ギルバートは椅子に深く座り込んだ。

 彼は手早くパンを裂き、口に運んだ。


「今日は辺境の視察だ。夕方はわからん」

「かしこまりました」


 セレナは向かいの席に腰を下ろした。

 彼女の目は、スープの表面を静かに見つめる。


 ギルバートの咀嚼音だけが響く。

 彼は新聞を広げ、セレナに背を向けた。


 彼女の手が、膝の上でそっと握られる。

 爪が掌に、小さな痕を刻みつける。


「では、行ってきます」

「いってらっしゃい」


 ギルバートは外套を羽織り、扉を開けた。

 朝の光が、彼の影を長く伸ばした。


 扉が閉じる。

 鍵が、カチリと音を立てた。


 セレナはテーブルに手をついた。

 彼女の指先が、微かに震えている。


 残されたスープは、もう冷めていた。

 彼女はそれを、ゆっくりと飲み干した。 冷たい羊皮紙の束が、テーブルを覆う。

 蝋燭の炎が、文字を揺らし読み上げる。


 セレナの指先が、一枚を摘まんだ。

「月影亭」の紋章が、仄かに光る。


「三回。今月だけで」


 彼女は唇を結んだ。

 指の爪が、請求書の端を白く押す。


 隣には、別の証拠が並ぶ。

 使い古された恋文。安物の香水瓶。


 魔法鏡が微かに震える。

 青白い文字が、表面に浮かび上がる。


『全員、証拠提出完了。』

『公聴会は三日後。』


 セレナは鏡面を撫でた。

 返信の文字を、ひとつずつ刻んでいく。


『了解。ファイルは揃った。』

『最後に、目撃者の宣誓書を追加。』


 引き出しから革の封筒を取り出す。

 中から、騎士団員の署名が覗く。


 彼女は書類を順に重ねた。

 パリパリ、という乾いた音だけが響く。


 一番上に、離婚申請書を載せる。

 自らの署名が、すでに墨で滲んでいた。


 窓の外が薄明るくなる。

 鳥の声が、夜の終わりを告げた。


 セレナは書類の山を抱き上げた。

 重みが、腕にしっかりと伝わる。


「……よし」


 彼女は封筒に収めた。

 留め金が、カチリと音を立てて嵌まる。 通知書の署名が乾いていた。

 セレナは馬車の窓から街並みを追う。


 貴族院通信管理局の尖塔が視界に入る。

 建物は、魔力の淡い光を放っていた。


「証言の順序……」

 彼女は小声で呟く。


 膝の上で指が動く。

 一つ、また一つと点を結ぶ。


 馬車が石畳を軋ませる。

 その振動が、思考を整える。


 深呼吸をする。

 冷たい空気が肺を満たした。


「最初は日付の確認」

「次に、魔法鏡の記録……」


 窓に映る自分の顔を見つめる。

 瞳の奥に、決意の色が固まる。


 目的地が近づく。

 馬車の速度が緩んだ。


 セレナは証言書をしまう。

 革の感触が、手の平を支える。


「大丈夫」

 彼女はそっと胸に手を当てた。


 心臓の鼓動が、確かに打つ。

 一歩、また一歩と進む音だった。


 馬車が止まる。

 扉の向こうに、大理石の階段が見えた。 貴族院通信管理局の公聴会室は静まり返っていた。

 大理石の長卓に議員たちの影が並ぶ。魔力灯が証言台を浮かび上がらせる。


 セレナは証言台へ歩み出た。靴音だけが響く。重い扉が背後で閉ざされる。

 彼女は書類の束を台の上に置いた。革のファイルが、冷たい石面に触れる。


「宣誓します。私は真実を語ります」


 声は低く、しかし部屋の隅々まで届いた。

 彼女の目は議員席をまっすぐに見据える。一人の男が俯いた。ギルバートだ。


「証拠第一号。騎士団長代理ギルバート・ヴァンセインの経費請求書」


 羊皮紙が一枚、彼女の手から掲げられる。

 魔力光が、月影亭の紋章と金額を照らし出した。三桁の数字が並ぶ。


「公用旅費として申請されたこの金額は」

「実際には娼館での消費に充てられていました」


 議員席から微かなざわめきが起こる。

 ギルバートの拳が、膝の上で固くなる。指の関節が白く浮かび上がった。


「第二号。保守派貴族との私的文書」


 別の書類が取り出される。使い古された封筒。

 中からは、領地の魔石採掘権を巡る契約案が現れた。


「騎士団の視察日程と採掘権の入札日程」

「これらは意図的に重ねられ、特定の業者に有利に働きました」


 セレナの指が、日程表の一点を押さえる。

 隣に並べられたのは、騎士団の公式記録だ。二つは完璧に一致していた。


「第三号。魔法鏡の通信記録」


 彼女は小さな水晶板を掲げた。

 魔力を流し込む。板の表面に、青白い文字のやりとりが浮かぶ。


『次の入札は、二番手の業者に落とせ』

『了解。報酬はいつもの場所で』


 議員の一人が立ち上がった。老貴族の顔面が紅潮している。

「その記録の真偽を!」


「通信管理局の公証印が押されています」


 セレナは水晶板をそっと長卓に置いた。

 裏面には、通信管理局の刻印がくっきりと光っていた。


「証拠は全て、公的機関による検証を経ています」

「騎士団長代理ギルバート・ヴァンセインは、職権を利用し」


 彼女は一呼吸置く。冷たい空気が喉を通る。

「少なくとも三件の公務不正に関与。保守派貴族五名と共謀していました」


 ギルバートが突っ立った。椅子が床を引っ掻く鋭い音。

「嘘だ! あの女は狂っている!」


「静粛に!」


 議長の槌の音が響く。ギルバートは衛兵に腕を掴まれた。

 彼の目が、証言台のセレナを刺す。憎悪に歪んだ視線。


 セレナはその目をまっすぐ受け止めた。

 彼女の表情は氷のように平静だった。


「私は騎士団長代理の妻として、長年にわたり疑念を抱いてきました」

「そして、証拠を収集する決意を固めました」


 彼女の手が、最後の書類を取り出す。

 それは厚い宣誓書の束だった。署名と指紋が幾重にも並ぶ。


「これらは、関係者十一名の宣誓供述書です」

「魔石採掘の現場監督、会計係、そして下級騎士たちの証言」


 彼女は書類を一枚ずつ広げていく。

 パリパリという音だけが、張り詰めた空気を切り裂く。


「ギルバート・ヴァンセインは、不正の隠蔽を命じ」

「拒否した者には、懲罰的な配置転換を行っていました」


 議員たちの間で、ささやきが渦巻く。

 一人、また一人と、証拠書類に目を通す手が動く。


「私の目的は復讐ではありません」

 セレナの声が、ささやきを沈黙させた。


「騎士団の腐敗を糺すこと。そして」

「この国に蔓延る不正を、一掃することです」


 彼女は証言台から一歩下がった。

 深く一礼する。黒髪が肩を滑る。


「私の証言は以上です」


 沈黙が部屋を支配する。

 やがて、議長の槌が一撃を下した。


「証拠書類は全て審査委員会に提出を」

「被告ギルバート・ヴァンセインは、直ちに身柄を拘束せよ」


 衛兵の足音が響く。ギルバートの怒鳴り声が短く跳ねる。

 彼は両腕を掴まれ、議場の外へ引きずり出されていった。


 その背中を、セレナは静かに見送った。

 彼女の胸の奥で、長い闇が静かに消えていく。


 彼女は書類を手に集め始めた。

 一枚、また一枚と、ファイルに納めていく。


 扉の前で彼女は振り返った。

 大理石の広間は、もう騒ぎは収まっていた。


 彼女は一歩を踏み出した。

 扉の向こうには、明るい廊下が続いていた。扉が開く。眩しい光が廊下から差し込んだ。

 記者たちの声が一斉に沸き起こる。


「騎士団長代理夫人! ご意見を!」

「不正暴露の動機は?」


 セレナの目が細くなる。閃光が幾つも炸裂した。

「公聴会での証言が全てです」


 彼女の足が歩みを止めない。石の床を叩く音は規則的だ。

 記者の群れが、その左右を埋める。


「離婚は?」

「今後のご予定は?」


「弁護士と協議します」

 彼女の声は乾いている。視線は前方の馬車を捉える。


 手が、鞄の留め金を探る。革の感触。

 指先が冷たい金属に触れた。


「互助会の存在についてお聞きします!」

 一人の記者の声が鋭く跳ねる。


 セレナの歩調が一瞬、乱れる。

 しかし彼女は振り返らない。背筋を伸ばした。


「今は何も申し上げられません」

 馬車の扉が目前にある。御者の手が開けている。


 最後の一歩。彼女は車内に身を投じた。

 扉が閉まる。外の喧噪が遠のく。


 車内の静寂が、耳を打つ。

 セレナは深く座り込む。背中が革のシートに沈む。


 彼女の手が、鞄を開ける。

 中から離婚申請書の控えが現れる。


「……ふう」

 吐息が、羊皮紙の表面を曇らせる。


 指が署名の上を撫でる。インクは乾いていた。

 彼女はそれをそっとしまった。


 窓の外、街並みが流れていく。

 陽射しが、石造りの建物を黄金に染める。


 手の平を開く。震えはもうない。

 拳を握り、また開く。確かな力が戻っている。


 彼女は目を閉じた。

 瞼の裏に、エレオノーラの言葉がよみがえる。


「次は、あなたの番よ」


 口元が、ほんのりと緩む。

 セレナは窓から流れる光を見つめた。


 馬車が緩やかに曲がる。

 自宅の門柱が見えてきた。


「よし」

 彼女は身を起こす。ドレスの皺を伸ばす。


 扉が開く。庭の薔薇の香りが漂う。

 セレナは一歩を踏み出した。


 足跡が、砂利道に一つ刻まれる。

 彼女の背中に、夕陽が長い影を落とす。書斎兼応接間の扉が重い。

 セレナは手を伸ばした。金属の取っ手が冷たい。


 部屋の中は薄暗い。カーテンが閉ざされている。

 ギルバートの影が、デスクの向こうに見える。


「入りたまえ」


 声には、くすんだ怒りの残響がある。

 セレナは一歩踏み込む。扉が閉まる音が響く。


 彼女は客席に腰を下ろす。

 革の感触が、肌に密着する。


 ギルバートは書類の束を投げ出した。

 羊皮紙が、デスクを滑る。


「よくも……よくもあんな真似を」

「証拠は全て真実です」


 セレナの声は平らだ。目は相手を見据える。

 ギルバートの拳が、机を叩く。木が軋む。


「騎士団を辞めさせられた。貴族の地位も危うい」

「それはあなたが選んだ道」


 彼女は膝の上で手を組む。

 指が互いに絡まる。力がこもる。


「何が欲しい。金か? それとも復讐か」

「離婚です」


 彼女の言葉が、空気を切り裂く。

 ギルバートの目が血走る。体が前のめりになる。


「そんな……そんなはずが。俺はお前を」

「愛していました」


 セレナが口を挟む。声は静かだが、揺るがない。

「だからこそ、許せない」


 彼女の瞳の奥に、過去の光景が走る。

 月影亭の看板。使い古された香水の瓶。


「証拠は揃っています。公聴会も終わりました」

「これ以上、争う意味はありません」


 ギルバートの肩が震える。怒りか、恐怖か。

 彼はデスクの抽斗を開ける。中から一巻の羊皮紙。


「……条件を飲む。だが一つだけ」

「何です?」


「互助会の存在を明かすな」

 ギルバートの目が、狡猾な光を宿す。


「お前の背後に誰がいるか、俺にはわかる」

「あの王妃様だろ?」


 セレナの呼吸が一瞬止まる。

 しかし表情は崩さない。睫毛が微かに震えるだけ。


「それは推測です」

「推測が証拠になることもある」


 彼は羊皮紙を差し出す。

 離婚合意書。条件は破格の慰謝料と財産分与。


「ここにサインしろ。すべてを水に流す」

「……そうすれば?」


「お前も俺も、この件から解放される」

 ギルバートの口元が歪む。それは笑いだった。


 セレナは書類を受け取る。紙の重みを感じる。

 彼女の目が条文を走る。数字が列をなす。


「考えさせてください」

「今だ」


 机を叩く音。セレナの肩が跳ねる。

 彼女はゆっくりと顔を上げる。


「……わかりました」

 彼女は羽根ペンに手を伸ばす。インク壺が置かれている。


 ペン先が紙に触れる。一瞬、ためらう。

 そして、流れるような文字が記される。


 サインが完了する。彼女は書類を押し返す。

「これで終わりですね」


「ああ。二度と会うな」

 ギルバートは書類を奪うように引き寄せた。


 セレナは立ち上がる。膝が少し震えるのを感じる。

 彼女は背筋を伸ばす。深呼吸を一つ。


「では、失礼します」

「ああ。出て行け」


 彼女は扉へ向かう。足取りは軽い。

 取っ手を握る。金属の冷たさが最後の感覚。


「……さようなら、ギルバート」

 声は微かに震えた。それは演技ではない。


 扉が開く。廊下の光が差し込む。

 彼女は一歩を踏み出した。後ろで扉が閉まる音。


 背中に、決別の重みを感じる。

 そして胸の奥で、何かが静かに砕ける音。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

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