第02話 孔雀亭からの内部告発
鏡面に新着通知が浮かんだ。
セレナの指が、冷たい鏡面に触れる。文字列が波紋のように広がる。
「内部告発:『孔雀亭』における宣言の詳細」
彼女の呼吸が一瞬止まった。目が走り読みを始める。
発信元は匿名。互助会専用の暗号化スレッドだ。
一行、また一行。文字が彼女の胸を突き刺す。
ギルバートの声が、鏡を通して聞こえてくるようだった。娼館「孔雀亭」の一室。酒に酔った調子。
「あの女は、法的に『抹殺』する」
宣言の詳細が列挙される。証拠隠滅。精神鑑定の工作。実家の追い落とし。
セレナの歯が下唇を噛んだ。血の味がした。
鏡面が冷たいまま、残酷な情報を映し続ける。
「証言者は、同席した娼婦の一人」
「彼女もまた、『抹殺』の対象とされた」
内部告発の動機がそこにあった。身の危険を感じた者の逆襲。
セレナの手が鏡から離れた。指先が震えている。
しかし、目は情報から離れない。一字一句、逃さずに読む。
「法的抹殺計画、進行段階:証拠収集フェーズ」
計画の骨子が明らかになる。日付。関係者のイニシャル。工作の具体的な手口。
彼女の顔から血の気が引いた。皮膚が蝋のように白い。
けれど、瞳の奥に炎が灯った。冷たい、確かな炎。
「……来るのね」
声は低く、渇いていた。震えは止まった。
鏡の向こうには、仲間がいた。警告を送ってくれた。
情報は武器だ。知っている者は、知られざる者に勝る。
セレナは、ゆっくりと背筋を伸ばした。深く息を吸った。
「全て、記録する」
彼女は指を再び鏡面に滑らせた。情報を保存する操作だ。
冷たい感触が、今は覚悟を固める鉄火のように感じられた。鏡面に保存完了の光が消えた。
セレナの指が鏡から離れる。魔法掲示板空間の青白い光が、彼女の横顔を冷たく照らす。
「書斎へ行く」
彼女の声は、空間に吸い込まれるように消えた。足が動き出す。互助会専用の鏡群から離れる。
出口へ向かう道。無数の鏡が彼女の背中を映す。表情のない顔。硬い肩の線。
鏡の回廊を抜ける。現実への接続点に立つ。彼女は一息つく。深く、長く。
「……戻る」
鏡面に手を当てる。表面が歪み、寝室の風景が浮かび上がる。自分のベッドが見える。
体が引きずり込まれる。視界が揺らぐ。軽い眩暈。
足元に絨毯の感触が戻る。寝室の暖かな空気が肌を包む。薔薇の香りはもうない。
窓の外は明るい。午前の光が差し込んでいる。時間はちゃんと流れていた。
セレナはゆっくりと歩き出す。寝室の扉を開ける。廊下に出る。
大理石の床。高い天井。窓から庭の緑が見える。全てが平穏な日常の顔をしている。
彼女の足音だけが響く。カツ、カツ、と規則的だ。速度は変わらない。
階段を下りる。手すりに触れる。木の感触は温もりを帯びている。
広間を通り過ぎる。使用人たちが掃除をしている。彼女を見て軽く会釈する。彼女は微かに頷き返す。
顔は平静だ。歩き方にも乱れはない。ただ、胸の内側で手紙が燃えている。
書斎は館の西側にある。長い廊下を進む。窓から見える庭の噴水が光る。
彼女の視線は真っ直ぐ前を見据えている。揺るがない。思考は既に書斎の内部を駆け巡る。
証拠は隠し場所にある。請求書の束。三ヶ月前の手紙。内部告発の記録。
全てが揃う。公聴会への武器が。
廊下の角を曲がる。書斎の重厚な扉が見えてきた。黒い木に金の飾り。
彼女の足が一瞬、ほんの一瞬、遅くなる。心臓が一度、強く打った。
それでも歩みは止まらない。手が扉の取手に伸びる。金属の冷たさが手のひらに伝わる。
「……中へ」
声には出さない。呟きだけが、胸の中で繰り返される。
取手を回す。カチリ、と音がする。扉が内側へ開く。
書斎の空気が流れ出してきた。革とインクの匂い。ギルバートの領域の匂いだ。
セレナは一歩、中へ踏み込んだ。背中で扉が静かに閉まる音がした。
書斎の机の上には請求書が並んでいた。三枚、五枚、十枚。
エレオノーラの指が一枚を摘んだ。その名は「琥珀商会」。
「この名、覚えていますか」
セレナは頷いた。ギルバートの愛人の一人が、この商会の令嬢だった。
次の書類。下級官吏の採用記録。名前の横に「紹介者:ギルバート・ヴァンセイン」。
「この人物、先月の騎士団装備調達を担当しました」
エレオノーラがもう一枚を差し出す。装備調達の請負は「琥珀商会」。
セレナの息が詰まった。点が線になった。
「贈収賄」
「ええ。縁故採用も」
机の上には別のファイルもあった。別の貴族の妻が提出した証拠。その夫の愛人は、別の商会「翡翠工房」の令嬢。翡翠工房は、同じく別の下級官吏を通じて、街灯修繕事業を請け負っていた。
その下級官吏の採用紹介者も、保守派の別の騎士。
パターンが浮かび上がる。不倫は単なる情事ではなかった。商会は令嬢を抱き、貴族は官吏を据え、仕事が流れる。
「私的な裏切りだけじゃない」
セレナの声が震えた。
「組織の腐敗です」
エレオノーラの目が鋭く光った。
「ネットワークです。あなたの夫は、その一つの結節点に過ぎない」
セレナは机に手をついた。革の冷たさが伝わる。
彼女の絶望は、いま、怒りに変わった。個人を超えた、大きな何かへの怒り。
「潰さなくては」
「ええ、一つ残らず」
書類の束が、重く机を叩いた。音が静かな書斎に響く。
戦いの範囲は、もはや一人の夫などではなかった。
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