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第01話 薔薇の手紙と鏡の回廊

 引き出しの奥から一枚の手紙が現れた。

 セレナの指先が、滑らかな羊皮紙の感触を捉える。薔薇の香水が一瞬で書斎の空気を染めた。

「……これは」

 彼女の眉が微かに動いた。息が浅くなった。

 手紙には優雅な筆跡が並んでいる。愛の言葉が、時間と約束が、丁寧に綴られていた。日付は三ヶ月前。署名はない。

 香水の香りは濃厚だ。高級で甘い。彼女が知らない香りだ。

 胸の奥が冷たく締め付けられた。目の前がちらついた。

「そう、こと」

 セレナの唇が震えた。声にならない。手紙が揺れる。

 以前に見つけた請求書とは違う。これは個人的だ。情熱的だ。計画的な関係を示していた。

 彼女は机の縁に手をついた。指の関節が白くなる。

「ギルバート」

 名前を呟くだけだった。その先の言葉は出てこない。

 手紙を握りしめた。羊皮紙が皺になった。香りが彼女を包む。

 窓の外から馬車の音が聞こえる。日常の音が、全て嘘のように響いた。


 寝室の天井が、闇の中でぼんやりと浮かび上がっていた。

 セレナは目を開けたまま、羽毛布団の中で微動だにしない。肌にまとう薔薇の香水の気配が、現実と夢の境を溶かす。


 呼吸だけが、静かに規則的だ。胸の動きはほとんど見えない。まるで寝息を立てることを忘れたかのようだった。


 ふと、彼女の指が布団の上で軽く動いた。羊皮紙を握るような、あの感触を思い出すように。


 窓の外から、遠く馬蹄の音が響く。夜警の交替だ。彼女の瞼が、一度だけ、ゆっくりと閉じた。


 再び開いた目には、曇りがなかった。天井の木目を、一つ一つ追うように見つめる。思考だけが、深い闇の中で鮮明に回っていた。


 証拠の隠し場所。互助会への報告。エレオノーラの指示。ギルバートの詰問。

 言葉の断片が、頭の中で行き交う。整理される。結合される。


 彼女はゆっくりと、横向きになった。枕がわずかに軋む。

 冷たい麻布の感触が頬に伝わる。彼女はそこで呼吸を止めた。隣の枕は、空っぽで冷たかった。


 睫毛が、一度だけ震えた。それだけだ。

 すぐに、彼女の呼吸は再び深く、静かになった。計画を練るには、休息が要る。感情は、いまは必要ない。


 やがて、彼女の視界の端が緩んだ。天井の木目が、少しずつぼやけていく。

 思考の速度が落ちる。断片が霧のように散っていく。


 最後に、彼女の唇が、ごく僅かに動いた。音にはならない呟き。

「……明日」


 セレナの瞼が、ゆっくりと閉じた。長い睫毛が暗闇に落ちる。

 羽毛布団の下で、彼女の身体の力が完全に抜けた。深い眠りが、思考の残り香を優しく飲み込んでいく。


 部屋には、規則的な寝息だけが残った。浅く、静かで、確かなものだった。「行こう」


 セレナは手紙を胸に押し当てた。羊皮紙の皺が服の上からも感じられる。彼女はゆっくりと立ち上がった。足取りは軽くない。


 寝室の隅に置かれた鏡へ歩み寄る。大きくて古い。縁には蔦の彫刻が絡まる。普段は化粧用だ。


 彼女は息を吸い込んだ。吐く。


 鏡に映る自分を見つめた。顔色は悪い。目だけが異様に光っている。


「ここからしか、入れない」


 指先が鏡面に触れる。冷たい。すると、表面が水のように揺らぐ。触れた指先が吸い込まれていく。


 躊躇はなかった。もう後戻りはできない。


 セレナは鏡へと体を預けた。前のめりになる。視界が歪み、景色が溶ける。


 体が引きずり込まれる感覚。重力がなくなる。周囲が真っ白に変わる。


 彼女は目を閉じた。耳元で風のような音がする。ささやきのように。


 この空間は現実ではない。魔法で紡がれた仮想の場だ。鏡が結ぶ回廊だ。


「まだ、着かない」


 時間の感覚が鈍る。一分が長く感じられる。体がふわふわと漂う。


 彼女は胸の手紙を思い出した。羊皮紙の感触。甘い香り。また胸が締め付けられる。


「あの手紙を……見せなければ」


 互助会の仲間に。エレオノーラに。ベアトリスに。


 その思いが、漂う体を前に進ませる。白い虚空を押し分けるように。


 前方に光が見えてきた。ぼんやりと輝く。出口だ。


 セレナは速度を上げた。意識を集中させる。白い流れが体を包み、運んでいく。


 光が急速に近づく。眩しい。彼女は目を細めた。


「さあ、着く」


 光に飲み込まれる瞬間、足元に床の感触が戻る。しっかりとした石の冷たさだ。


 視界が徐々に形を取り戻す。


 そこは広い空間だった。無数の鏡が壁一面に並んでいる。それぞれに光がゆらめく。鏡の向こうには別の景色が映る。


 中央には、青白い光で浮かぶ文字の列。スレッドの一覧だ。タイトルが絶えず流れていく。


 匿名投稿用の透明な板が幾つも浮遊している。触れば文字が刻まれる仕組みだ。


 そして、一角に固まった鏡群。それらは暗号化され、深い色を帯びている。互助会専用の領域だ。


 セレナはその暗い鏡の方へ歩き出した。足音が空間に反響する。カツ、カツ、と。


 彼女の手は、まだ胸の上にあった。手紙を隠すように。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

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