サイドストーリー:橋本大輔の視点
誠司が「別れよう」という言葉を奈緒に告げた翌日、俺のスマホに短い連絡が来た。
「奈緒とのことは、知ってる」
それだけだった。誠司からのメッセージはその一文だけで、返信を待つような終わり方でもなかった。
俺はしばらく、その文を眺めていた。
知ってる、か。何を知っているのか。どこまで知っているのか。それは分からない。でも、誠司がそう書いたということは、何かが伝わってしまっていたということだ。
電話した。出た。誠司の声は、静かだった。怒っていなかった。それがかえって、俺には辛かった。
「謝るなら奈緒に言えばいい。俺には必要ない」
「大輔。お前のことを憎んでるわけじゃない。ただ、もう関わりたくないだけだ」
「……それが、一番きつい」
電話が切れた。
その夜、俺は一人でビールを飲んだ。気分で飲む酒ではなかった。何かを麻痺させたくて飲んでいた。
俺と奈緒の間に、何があったか。正直に言えば、「何かあった」わけではない。少なくとも最初は。誠司と奈緒が付き合っていた三年間、俺はずっと良き親友として、二人の関係を見守っていた。奈緒のことは妹のように思っていた。誠司と三人でよく出かけた。それが楽しかった。
変化が生まれたのは、誠司が仕事で忙しくなり始めた頃からだった。出張が増え、帰宅が遅くなった。奈緒が「最近誠司と全然話せなくて」と漏らすことが増えた。俺はそのたびに「あいつは仕事に真剣なだけだよ」と言った。本当にそう思っていた。
だが、奈緒と二人で話す時間が増えるにつれて、俺の中に少しずつ何かが積もり始めた。それを認めたくなかった。誠司の恋人だ。俺には関係のない気持ちだ、と何度も言い聞かせた。
それでも、あの夜のカフェで、酔いが回って足がふらついたとき、奈緒が支えてくれたとき、俺は少しだけ余計なことを考えてしまった。
そして、その瞬間に誠司がいた。
ガラス越しの誠司の顔を、俺は一生忘れないだろう。怒っていなかった。ただ、何かが見えてしまったような、静かな顔だった。あの顔が、俺の胸に刺さった。
その後、俺は奈緒に「もう二人では会わない方がいい」と言うべきだった。誠司に「誤解だ、本当に何もない」と言いに行くべきだった。何もしなかった。
「昨日は楽しかった。また二人で会いたいな」
そのMINEを送ったのは俺だ。その言葉の意味が何であるか、俺には分かっていた。誠司の目に触れたとき、それが何を意味するかも、どこかで分かっていたかもしれない。
誠司が広島を去った後、俺と奈緒はしばらく一緒にいた。でも、それは幸せとは言えなかった。奈緒の心の中に誠司がいることを、俺は感じていた。奈緒も、俺が罪悪感を抱えていることを知っていた。
そして一年後、俺は会社でやらかした。小さな経費の使い込みだった。大した金額ではなかったが、発覚すると芋づる式に他のことも出てきた。奈緒とも揉めた。俺が情けない男だということが、全て明るみに出た。
誠司が名古屋で成功したらしいと聞いたのは、ちょうどその頃だった。
Webサービスが大手に買収された。すごい男になった。そういう話が、共通の知人経由で耳に入ってきた。
俺はそれを聞いて、笑う気にもなれなかった。
誠司は正しかった。あいつはいつも、静かに正しかった。怒鳴らず、わめかず、ただ自分の判断で動いた。俺はあの男の親友を名乗っていたが、本当の意味で彼を尊重していたのだろうか。
「お前のことを憎んでるわけじゃない」
その言葉が、ときどき頭に蘇る。憎まれた方が、まだ楽だったかもしれないと思う。憎まれれば、喧嘩できる。でも誠司は、ただ静かに去っていった。
俺はあの男に、謝れないまま今日も生きている。
いつか、謝れる日が来るだろうか。来ないかもしれない。それでも、誠司が幸せになっているなら、それで十分なのかもしれない。
俺には、そう思うしかなかった。




