第6話:もう遅い
スケーリルの買収が正式に決まったのは、秋も終わりに差し掛かった頃だった。
トワイライトテクノロジーズとの交渉は二ヶ月以上かかった。誠司は弁護士を立て、条件を一つ一つ確認した。最終的に合意した金額は、誠司の想定より大きかった。サービスの継続運営は保証され、誠司はCTOとして三年間関わる契約になった。
これで、しばらくは動ける。
手続きが全て終わった夜、誠司は一人でさきかぜに行った。咲に「買収が決まりました」と伝えた。
「本当に! おめでとうございます」
咲は心から喜んでくれた。その笑顔を見て、誠司は少しだけ胸が温かくなった。
「お祝い、何か食べに行きましょうか」
「いいですね。どこがいいですか」
二人で店を出て、夜の街を並んで歩いた。特別なレストランではなく、いつも行く居酒屋に入った。それで十分だった。
誠司が名古屋に来てからの一年を振り返ると、咲のことが自然と思い浮かんだ。大した事件があったわけでもない。ただ、この人がそこにいてくれた、それだけのことが、誠司にとってはずいぶん大きなことになっていた。
「咲さん」
「はい」
「俺と付き合ってもらえますか」
咲は少し目を丸くして、それから、ゆっくりと笑った。
「はい」
それだけだった。どちらも余分なことは言わなかった。
居酒屋を出た帰り道、二人で並んで歩きながら、誠司はふと広島の街のことを思った。あの夜、カフェのガラス越しに見た光景。冷たいベンチに座って、ため息をついていた頃の自分。あれがなければ、誠司はまだ同じ場所に立っていただろう。
不思議な気持ちだった。感謝するとは言えない。ただ、それがあったから今があるのだと、静かに思った。
翌朝、奈緒からMINEが届いた。
「誠司、ちゃんと話したい。もう一度だけ会えない? 私、後悔してる。あなたのことが忘れられない」
誠司はその文を読んで、しばらくスマホを置いた。
コーヒーを入れて、窓の外を見た。秋晴れの空が広がっていた。
奈緒のことは、今でも嫌いではない。三年間、それなりに大切な時間を共有した。ただ、何かが壊れた。それはどちらが悪いという話ではなく、ただそういう結末になった、ということだ。
誠司はスマホを手に取り、返信を打った。
「もう遅い」
送信した。既読がついた。返信は来なかった。
誠司はスマホをテーブルに置き、コーヒーを一口飲んだ。
怒りはなかった。後悔もなかった。ほんの少しだけ、胸の奥が静かに痛んだ。それは悲しみではなく、もっと穏やかな何かだった。かつてそこに何かがあって、今はなくなった、という感覚。
終わったことは、終わった。
誠司は窓の外に目を戻した。
今日、咲と昼ごはんを食べる約束をしている。店が昼の時間に閉まるので、週に一度だけ二人で近くのランチに行くようになった。大した話をするわけでもない。でも、その時間が、誠司には心地よかった。
スケーリルの新機能の仕様書が、テーブルの上に広げてあった。今日中に確認して、チームに共有しなければならない。午後には打ち合わせが一件ある。やることが、また山積みだった。
誠司は立ち上がり、シャツに着替えた。
昨日まで積み上げてきたものは、確かにある。これからも積み上げていくものが、目の前にある。それで十分だ。
名古屋の秋の空は、澄んでいた。
ガラス越しに見た夜から、一年以上が過ぎた。あの夜、誠司の心に生まれた静かな疑念は、今はもう跡形もなかった。その代わりに残っているのは、自分の足で選んだ今この場所と、隣に立ってくれる人の笑顔だった。
もう遅い──あの言葉は、誠司が奈緒に送った言葉だったが、同時に誠司自身への言葉でもあった気がした。立ち止まっていた時間はもう戻らない。だからこそ、今を動くしかない。
誠司はドアを開け、外へ出た。




