第2話:壊れ始めた確信
それから二週間、誠司は何も変えなかった。
奈緒との生活は表面上、何も変わっていなかった。週末には一緒に近所のスーパーへ買い物に出かけ、誠司が料理を作り、奈緒が洗い物をする。夜はソファに並んで座り、テレビを見る。たまに奈緒が寝落ちして、誠司が毛布をかけてやる。そういう時間が、誠司はずっと好きだった。
今も、嫌いになったわけではない。ただ、同じ景色がどこか遠くに見えるようになっていた。
誠司は仕事柄、細かいことに気づく性質だった。システムのログを見れば、どこで何が起きたか大抵把握できる。人の行動も、パターンで読む習慣がある。奈緒の変化を感じたのも、きっとそのせいだ。
スマホを伏せて置くようになった。以前は充電しながらテーブルの上に置きっぱなしだったのに、最近は必ずポケットかバッグの中にしまう。入浴中もスマホを持ち込むようになった。それ自体は不思議ではないが、以前はそんなことをしなかった。
誠司は何も言わなかった。問い詰めても、奈緒が「誤解だ」と言えば終わりだ。証拠もない。自分の勘違いかもしれない。そう言い聞かせながら、誠司は日々を過ごした。
ある平日の朝のことだった。
奈緒が夜勤明けで眠っている間に、誠司はリビングで仕事の書類を整理していた。テーブルの上に、奈緒がうっかり置いていったスマホがあった。
普段なら、見ない。見ようとも思わない。
その時、スマホの画面が点灯した。
MINEの通知だった。ロック画面に、メッセージの一部が表示されていた。
送信者の名前は「だいちゃん」。それが大輔のことだと、誠司には分かった。奈緒は大輔のことを昔から「だいちゃん」と呼んでいた。
表示されたのは、たった一行だった。
「昨日は楽しかった。また二人で会いたいな」
誠司は、しばらくその画面を見つめた。
心臓が大きく一度、跳ねた。その後は、静かだった。怒りで手が震えるとか、涙が出るとか、そういうことはなかった。ただ、胸の中にあった「まだ何も起きていないかもしれない」という薄い期待が、すうっと溶けていくのを感じた。
昨日は楽しかった。
昨日、奈緒は「病院の同僚と飲み会があって遅くなる」と言っていた。帰宅したのは十一時を過ぎていた。誠司は先に寝た。
また二人で会いたい。
誠司はスマホから目を離し、窓の外を見た。秋の朝の光が、薄く差し込んでいた。
奈緒が嘘をついているとか、大輔が裏切り者だとか、そういう言葉を頭の中で転がす気にはなれなかった。怒りも悲しみも、この瞬間はまだ来ていなかった。ただ、一つのことが、静かに確定したと感じた。
この関係は、終わる。
誠司は書類の整理を再開した。コーヒーを一口飲んで、仕事のメールを確認した。いつもと変わらない朝のルーティンをこなしながら、頭の中では別のことを考え始めていた。
会社を辞めるなら、何ヶ月前に申し出ればいいか。引っ越し費用はどれくらいかかるか。名古屋に知人が一人いた。以前、転職の誘いを断ったが、今なら話を聞いてもいいかもしれない。
誠司はフリーランスとして独立することを、以前から漠然と考えていた。技術力には自信があった。何年か前から個人プロジェクトとして開発を続けているWebサービスも、そろそろ形になってきていた。踏み出すタイミングを測りかねていただけで、やる気も準備も、半分は整っていた。
今がそのタイミングなのかもしれない、と思った。
奈緒のことを責める気はなかった。大輔を憎む気もなかった。ただ、もうここには自分の場所がないと、静かに、しかし確実に感じていた。
その日の夜、奈緒が夕食の後にスマホを見ながら小さく笑った。誠司は気づかないふりをした。
翌日、誠司はこっそりと転職サイトに登録した。名古屋のIT系企業の求人をいくつか調べた。フリーランスとして契約できそうな案件も検索した。貯金の残高を確認した。少なくとも半年は動けるだけの余裕があった。
誠司は誰にも何も言わなかった。奈緒にも、大輔にも、会社の同僚にも。ただ静かに、次の一手を考え始めていた。
感情的に動いても何も解決しない。それは誠司が、長年の仕事で学んだことだった。システムのバグも、人間関係のもつれも、結局は原因を正確に把握して、冷静に対処するしかない。怒鳴っても、泣いても、壊れたものは直らない。
その週の終わり、誠司は名古屋の知人・田村にメッセージを送った。「近いうちに一度、話を聞かせてほしい」と。田村からは翌日、「いつでも来い、待ってるぞ」という返事が来た。
誠司は少しだけ、肩の荷が降りた気がした。
次の一歩が見えてきた。あとは、タイミングだった。
ただ、一つだけ。
あの「また二人で会いたいな」という一行が、頭の中で何度もリプレイされた。それは怒りではなく、むしろ悲しみに近い感覚だった。大輔のことを、誠司は本当に親友だと思っていた。誰より信頼していた。それが、こんな形になるとは、想像もしていなかった。
人のことが分からなくなった気がした、とだけ、誠司はその夜、手帳に書き留めた。




