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ガラス越しに見えた嘘、俺は全てを捨てて歩き出す  作者: ledled


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第1話:ガラス越しの光景

出張帰りの新幹線が広島駅のホームに滑り込んだのは、夜の七時を少し回った頃だった。


北山誠司は重いキャリーケースを引きながら改札を抜け、人波に流されるようにバスターミナルへ向かった。三日間の東京出張は思いのほか疲れた。打ち合わせが長引いて、ろくに睡眠も取れていない。今夜は奈緒と一緒に夕食でも食べながら、ゆっくりしたかった。


「今着いた。これから帰るよ」


スマホにメッセージを打ち込む。既読は、すぐにはつかなかった。奈緒は看護師なので、夜勤の日もある。今日は日勤だったはずだが、急なシフト変更があったのかもしれない。


バスを一本見送り、次のバスが来るまでの時間をつぶすため、誠司は駅近くの商店街を歩き始めた。出張中に買い忘れた土産でも探そうと思ったのだが、土産店はすでに閉まっていた。仕方なく、ぶらぶらと歩く。秋の夜風が少し肌寒く、誠司はジャケットの前ボタンを留めた。


コーヒーでも飲んで帰ろうか、と思ったとき、目の前に一軒のカフェが現れた。


「珈琲処 灯り屋」──こじんまりとした、落ち着いた雰囲気の店だ。奈緒とたまに来る店ではないが、以前に大輔と三人で来たことがある。窓際の席は通りから丸見えで、夜になるとアンバーの照明が温かく灯る。


ふと、その窓に目が止まった。


奈緒がいた。


二人掛けのテーブルに、誠司の恋人・藤田奈緒が座っていた。そしてその向かいには、誠司の親友・橋本大輔の姿があった。


最初は、何でもない光景に見えた。奈緒と大輔は昔から仲がよかった。誠司が引き合わせたのだし、三人で出かけることも少なくなかった。今日だって、偶然鉢合わせして一緒にコーヒーでも飲んでいるだけかもしれない。


そう思おうとした。


でも、違和感があった。


奈緒が笑っていた。声は聞こえないが、ガラス越しでも分かるくらい、弾けるように笑っていた。普段、誠司と二人でいるときに見せる笑顔とは、どこか違う。もっと軽くて、もっと無防備な笑い方だった。


大輔の方も、身を乗り出すようにして何かを話している。二人の距離が、誠司の知っている「友人同士」より、少しだけ近かった。


「……」


誠司は立ち尽くした。声をかければいい。扉を開けて、「ただいま」の一言でも言えばいい。それだけのことなのに、足が動かなかった。


胸の奥に、ある感覚が生まれていた。名前をつけるなら「疑念」と呼ぶべきか。あるいは「予感」か。いずれにしても、それは鋭くはなかった。むしろ、ひどく静かだった。心の底に、静かに水がしみ込んでいくような感覚だった。


誠司はゆっくりと踵を返した。


その夜、帰宅した誠司は特に何も言わなかった。奈緒からの返信は「今日は遅くなるから先に食べといて」というものだった。誠司はコンビニで買った弁当を一人で食べて、シャワーを浴びて、床についた。


何かを確かめるのが、怖かったわけではない。ただ、まだ何も起きていないのかもしれないと思うと、声を荒げる気にもなれなかった。


翌朝、奈緒が帰ってきたのは六時頃だった。


「ごめん、夜勤になっちゃって。ちゃんと食べた?」


気遣わしそうに言う奈緒の顔は、疲れているようで、しかし普段と変わらなかった。誠司は「うん」と短く答えた。


「昨日、大輔と会ってたの?」


何気ないトーンで、しかし目は奈緒の顔を見て聞いた。奈緒は一瞬だけ目を泳がせ、そして「あ、うん、そう」と笑った。


「偶然会ってね。せっかくだからコーヒーだけ付き合ってもらったの。誠司の誕生日もうすぐでしょ、プレゼント何がいいか相談してたんだよ。喜んでもらいたくて、大輔なら誠司の好み知ってるかなって思って」


奈緒の言葉は、滑らかだった。嘘をついているようには見えなかった。


誠司はゆっくりと息を吐いた。


「そっか。わざわざありがとう」


それだけ言って、コーヒーを淹れ始めた。奈緒は「疲れた〜」と言いながらソファに倒れ込んだ。


誠司は奈緒の背中を眺めながら、静かに考えていた。信じよう、と思った。信じたかった。でも、あのガラス越しに見た光景が、脳裏から消えなかった。奈緒の笑顔が、自分に向けるものとは少しだけ違って見えた、あの瞬間が。


きっと気のせいだ、と自分に言い聞かせながら、誠司はコーヒーカップをテーブルに置いた。


疑念というのは、不思議なものだ。証拠がなくても、消えない。それどころか、時間が経つほどに静かに、しかし確実に、根を張っていく。


誠司はその日一日、いつもと変わらない顔をしていた。仕事をして、夕食を作って、奈緒の帰りを待った。何も言わなかった。聞かなかった。ただ、心の中の水が、少しずつ底の方に溜まっていくのを感じていた。


奈緒が誠司の好物のハンバーグを作ってくれた夜、いつも通りに「おいしい」と言って箸を動かしながら、誠司はふとこんなことを思った。


今この瞬間も、俺は何も知らない人間のふりをしている。


この食卓が、この笑顔が、この「おいしいね」「そうでしょ」というやりとりが、どれほど長く続くのか、誠司には分からなかった。だが、一つだけ確かなことがあった。


あの夜、ガラス越しに見た光景を、誠司はもう忘れることができない。


どんなに美味しいハンバーグを食べても、どんなに奈緒が優しく笑いかけてきても、あの窓の中の二人の姿が、ずっと心のどこかに張り付いているのだと、この夜初めて気づいた。


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