半人前
六月に入ると、轟屋の暖簾が風でよく揺れた。
昼のうちに雨が降り、夕方には止んでいる。濡れた道路には、店の灯りが細く映っていた。
茜は、開店前から厨房にいた。
轟屋で働き始めて、三週間が過ぎていた。朝の仕込みから夜の片づけまで、立っている時間が長い。足の裏が痛くても、帰る前に明日の仕込みを確認するようになった。
「茜ちゃん、給料の振込先はこれでいいかい」
女将が帳面を差し出す。
「はい」
「休みは、週に一度は取るんだよ。若いからって、毎日来ちゃ駄目だ」
「でも、まだ覚えることが」
「覚えるために休むんだよ。疲れたまま包丁を持つと、手元が狂うからね」
茜は、返事をしながら、自分が前の会社でも同じように休みを後回しにしていたことを思い出した。
新玉ねぎを薄く切り、かき揚げの衣を用意する。女将に教わった通りにしたつもりだったが、玉ねぎの太さがそろわない。
「茜ちゃん」
女将が横からのぞいた。
「もう少し細く。火の通りが変わるから」
「はい」
茜は包丁を持ち直した。
昨日より細く。
その言葉だけを考えると、今度は細くしすぎた。
「難しいですね」
「最初からうまくできる人はいないよ」
女将は茜の切った玉ねぎを半分取り、残りを自分で切り始めた。
包丁の音は、茜のものより静かだった。
*
その夜、店は早くから混んだ。
雨が上がったからか、漁から戻った人たちが何人か連れ立って入ってくる。いつもの常連に、見慣れない顔も混じっていた。
「生ビール、三つ」
「はい」
「アジ、二人前」
「刺身とたたき、どちらにしますか」
「任せる」
茜は注文を紙に書き、厨房へ渡す。
その間にも、別の席から声が飛ぶ。
「お姉ちゃん、焼酎おかわり」
「はい。ただいま」
いつもより早く動かなければと思った。
グラスを取り、氷を入れる。水割りをつくり、運ぶ。
カウンターの端で、にしさんがこちらを見ていた。
「焦るな」
「焦ってません」
言ってから、自分の声が少し強いことに気づいた。
にしさんは何も言わず、箸を置いた。
茜は目をそらし、次の注文を取りに行った。
アジの刺身を運ぶ時、隣の席から腕が伸びた。通ろうとした茜の肩がぶつかる。
皿が傾いた。
一切れだけ、床に落ちた。
店の中が静かになった。
「すみません」
茜はすぐに皿を引いた。
「新しいのをお持ちします」
「いいよ、一切れだろ」
客は気にしていないようだった。
けれど、茜は首を振った。
「いえ。少しお待ちください」
厨房へ戻ると、主人がアジを切っていた。
何も言わず、新しい皿をつくる。
茜は、床を拭いた。
女将が近くに来る。
「大丈夫?」
「はい」
「大丈夫って言う人ほど、手を見せたがらないんだよ」
「すみません」
「謝らなくていい。働くなら、働ける状態でいることも仕事だよ」
「手、見せて」
茜の手の甲には、皿の縁が当たった赤い跡があった。
「これくらい」
「冷やしてから戻りな」
「まだ注文が」
「あるから言ってるの」
女将の声は低かった。
茜は、蛇口の水に手を当てた。
冷たかった。
その間にも、店の音は止まらない。
自分だけが、遅れている気がした。
*
客が帰り、暖簾をしまう頃には、雨がまた降り始めていた。
茜は厨房の床を拭いていた。
何度も拭いた場所なのに、魚のうろこが一枚、見つかる。
「もういい」
主人が言った。
「まだ、ここが」
「明日でいい」
「明日もあるから、今日やります」
主人は少し黙った。
「茜」
名前を呼ばれて、茜の手が止まる。
「今は、半人前だ」
胸の奥が、急に熱くなった。
わかっている。
何もできないまま来た。包丁も、皿も、客の顔も、まだ覚えきれていない。
それでも、言われたくなかった。
前の会社では、半人前だと言われないために、分からないことまで分かったふりをした。ここでは、分からないまま立っている自分を、隠す場所がなかった。
「はい」
茜は雑巾を強く絞った。
「だから、半人前の分だけ、ちゃんとやれ」
主人は、そう言った。
「一人前の仕事を急ぐな」
「半人前の私が、給料をいただいていいんでしょうか」
茜が訊くと、主人は顔を上げた。
「働いた分は払う」
「でも」
「半人前だから、働いた分まで減らす理由にはならない」
主人はそれだけ言って、まな板の水を流した。
茜は顔を上げた。
主人はもう、まな板を洗っている。
怒られたのか、励まされたのか、すぐにはわからなかった。
女将が、隣で乾いた布巾をたたんだ。
「主人は、あれで褒めてるんだよ」
「褒めてません」
「うちでは、あれが褒めてる方」
茜は、少しだけ笑った。
戸口の近くで、にしさんが傘を開こうとしていた。
「茜」
呼ばれて、茜は振り返る。
「明日は、アジが早い。昼前に来い」
「はい」
「先生の都合で、店の仕事を変えるなよ」
茜は一度だけ息をのんだ。
「変えません」
「ならいい」
にしさんは、そのまま雨の中へ出た。
*
店を出ると、軒下に先生が立っていた。
濡れた傘を閉じ、手にはもう一本、透明な傘を持っている。
「まだいたんですか」
茜が言うと、先生は少し首を振った。
「さっき来ました。女将さんに、茜さんがまだ片づけをしていると聞いたので」
「どうして」
「傘を」
先生は、もう一本を差し出した。
「アパートまで、雨が強いので」
茜は傘を見た。
「先生のは」
「僕のはあります」
「でも、わざわざ」
「女将さんが、渡してきてほしいと」
茜は、少しだけ笑った。
「女将さんは、本当に何でも知っていますね」
「そうですね」
雨は、細く降っている。
茜は傘を受け取った。
「ありがとうございます」
「手は、大丈夫ですか」
茜は驚いて、手の甲を見た。
「見えてました?」
「少し」
「平気です」
先生はそれ以上、聞かなかった。
二人は店の前で、それぞれ傘を開いた。
「先生」
茜が呼ぶ。
「はい」
「私、半人前なんだそうです」
先生は少し考えた。
「まだ、という意味でしょう」
「まだ?」
「半人前で終わる人に、次から覚えろとは言わないと思います」
茜は、雨の向こうで先生を見た。
「先生も、そういう言い方をしますね」
「そうでしょうか」
「はい」
茜は傘の柄を握り直した。
「明日も、行きます」
「ええ」
「大葉の表も、もう間違えません」
先生は、少し笑った。
「それは、よかったです」
茜は雨の中を歩き出した。
背中に、女将が結び直してくれた前掛けの感触が、まだ残っていた。




