坂道の途中で
五月の終わり、轟屋の店先に青梅が届いた。
にしさんの船で使う氷を頼んでいる店から、毎年少し分けてもらうのだと女将は言った。
「梅仕事は、急ぐんだよ」
大きなざるに梅を広げながら、女将は茜へ言った。
「傷んでるのを先に取って」
茜は一つずつ手に取った。硬くて、まだ青い。近づけると、かすかに甘い匂いがする。
「これは?」
「それは大丈夫」
「こっちは」
「少し傷が深いから、よけとこう」
建物の傷なら、どこから水が入るかを考える。
梅の傷は、まだよくわからなかった。
「先生の家にも、持っていくかい」
女将が、何気なく言った。
茜の手が止まる。
「先生にですか」
「あの人、梅酒は飲まないけど、梅干しは食べるんだよ」
「知ってるんですか」
「毎晩ご飯を食べてりゃ、そりゃ分かるさ」
女将は梅を一つ、茜の手のひらに載せた。
「去年の梅干しが、まだ少し残ってる。おにぎりにでもして持っていきな」
「私がですか」
「坂を上がるだけだよ」
女将の言い方に、茜は少し笑った。
坂を上がるだけではないことを、女将はきっと知っている。
*
夕方、茜は小さな包みを持って店を出た。
中には、梅干しのおにぎりが二つと、新玉ねぎの煮びたしが入っている。
丘へ続く坂は、思っていたより急だった。
アパートから轟屋までの道なら、もう迷わない。けれど、先生の家へ行く道は、まだ少し落ち着かない。
丘の家の前まで来ると、道路脇に堆肥の袋が二つ置かれていた。たけさんの軽トラックは、もう坂を下りている。
畑から出てきた先生が、収穫した大根の葉がのぞく布袋を肩に下げている。
「こんばんは」
「こんばんは」
茜は包みを持ち直した。
「女将さんからです。梅干しのおにぎりと、煮びたし」
「そうですか」
先生は包みを見た。
「女将さんは、何でも知っていますね」
「梅干しが好きなことも?」
「それは、たぶん。毎日食べているから」
茜は少し笑った。
「たけさんが届けてくれたんですか」
「はい。家の前まで運んでくれました。畑へ入れるのは、僕の仕事です」
「持ちます」
「大丈夫です」
「でも、坂ですよ」
「茜さんも、包みを持っているので」
「これは軽いです」
茜は堆肥の袋へ手を伸ばした。
「運びます」
「大丈夫です」
「でも、二人で持った方が早いです」
先生は少し迷ったあと、袋の反対側を持った。
二人で運ぶと、重い袋も畑の脇まで動かせた。
「海宮は、坂が多いですね」
「海へ行く時は、楽です」
「帰りが大変そうです」
「だから、帰りはゆっくりでいいんです」
茜は、先生の方を見た。
冗談なのか、本気なのか、よくわからなかった。
「先生は、いつも一人で上るんですか」
「そうですね」
「大変じゃないですか」
「慣れました」
それも、たぶん本当だった。
堆肥を畑の脇へ置くと、先生は家の前から坂の下を見た。町の屋根が夕方の光を受けている。電車が海沿いを走り、そのあとから音が届いた。
ガタン、ゴトン。
茜は、息を吐いた。
「きれいですね」
「家まで来ても、坂の途中みたいですね」
「丘の上には、まだ道が続いていますから」
先生は何も言わなかった。
けれど、すぐに歩き出さなかった。
*
先生は、茜の包みを受け取った。
「ありがとうございます」
「女将さんに言ってください」
「茜さんにも」
茜は、少しだけうなずいた。
先生は土の袋を畑の脇へ運び、茜はその様子を見ていた。
苗の間には、前に見たより葉が増えている。
「何を植えてるんですか」
「トマトと、ナスと、大葉です」
「大葉」
茜は思わず言った。
「表を上にして出さないといけない大葉ですね」
先生が、こちらを見た。
「何かありましたか」
「大葉に表と裏があるって、にしさんに教わりました」
「そうですか」
「先生も知ってました?」
「知りませんでした」
「本当に?」
「僕は、畑からそのまま食べるので」
茜は笑った。
先生も、少し遅れて笑った。
その時、茜の携帯が鳴った。
画面には、前の会社の番号が出ている。
茜はすぐには取れなかった。
先生は、畑の土を見ている。
「出なくていいんですか」
「……出ます」
茜は家から少し離れた。
「もしもし」
電話の相手は、以前の上司だった。引き継ぎが終わった資料について、確認したいことがあるという。
茜は必要なことだけ答え、短く電話を切った。
電話を切ると、先生が少し離れた所に立っていた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
茜は笑おうとしたが、うまくできなかった。
先生は、おにぎりの包みを持ち上げた。
「よかったら、一つ食べますか」
「先生の分では」
「二つあります」
「でも」
「女将さんは、たぶん二人分だと思って渡したんでしょう」
その言い方に、茜は少しだけ笑った。
先生は縁側を示した。
家の前の縁側に、二人で腰を下ろした。庭を見渡せる高さで、畑の葉が夕方の風に揺れている。
梅干しのおにぎりは、まだ温かかった。
茜はひと口食べた。
酸っぱさのあとに、ごはんの甘さが残る。
「おいしいです」
「女将さんの梅干しですから」
「知っています」
先生は、梅干しの種を紙に包んだ。
「会社の人からですか」
「はい。もう辞めたのに、まだ自分の仕事のように連絡が来ます」
「それは、困りますね」
「困ります。でも、返せることは返しておきたいんです。私が途中で投げたと思われたくないので」
先生はしばらく海の方を見た。
「最後まで片づけることと、戻ることは違います」
茜は、すぐには答えなかった。
「先生は、そういうことを考えて暮らしているんですか」
「考えないようにしています」
「でも、今のは考えていました」
「そうかもしれません」
風が、家の軒先を通り抜けた。
茜は包みを畳んだ。
「今日は、これで帰ります」
「もう少し、休んでいっても」
先生は言いかけて、やめた。
「いえ。明日の朝、轟屋があります」
「そうですね」
茜は立ち上がった。
坂を下りる前に、畑を振り返る。小さな苗の間に、土の袋が置かれていた。
一人で持てるものでも、反対側を持つ人がいれば、少し早く運べる。
そのことを、茜はまだ先生に言わなかった。
坂の下では、夕方の灯りが一つずつついていった。
途中までしか来ていない気がした。
でも、今はそれでよかった。




