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茜色の家  作者: 大神みや
丘の上の小さな家

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5/19

坂道の途中で

五月の終わり、轟屋の店先に青梅が届いた。


にしさんの船で使う氷を頼んでいる店から、毎年少し分けてもらうのだと女将は言った。


「梅仕事は、急ぐんだよ」


大きなざるに梅を広げながら、女将は茜へ言った。


「傷んでるのを先に取って」


茜は一つずつ手に取った。硬くて、まだ青い。近づけると、かすかに甘い匂いがする。


「これは?」


「それは大丈夫」


「こっちは」


「少し傷が深いから、よけとこう」


建物の傷なら、どこから水が入るかを考える。


梅の傷は、まだよくわからなかった。


「先生の家にも、持っていくかい」


女将が、何気なく言った。


茜の手が止まる。


「先生にですか」


「あの人、梅酒は飲まないけど、梅干しは食べるんだよ」


「知ってるんですか」


「毎晩ご飯を食べてりゃ、そりゃ分かるさ」


女将は梅を一つ、茜の手のひらに載せた。


「去年の梅干しが、まだ少し残ってる。おにぎりにでもして持っていきな」


「私がですか」


「坂を上がるだけだよ」


女将の言い方に、茜は少し笑った。


坂を上がるだけではないことを、女将はきっと知っている。


*


夕方、茜は小さな包みを持って店を出た。


中には、梅干しのおにぎりが二つと、新玉ねぎの煮びたしが入っている。


丘へ続く坂は、思っていたより急だった。


アパートから轟屋までの道なら、もう迷わない。けれど、先生の家へ行く道は、まだ少し落ち着かない。


丘の家の前まで来ると、道路脇に堆肥の袋が二つ置かれていた。たけさんの軽トラックは、もう坂を下りている。


畑から出てきた先生が、収穫した大根の葉がのぞく布袋を肩に下げている。


「こんばんは」


「こんばんは」


茜は包みを持ち直した。


「女将さんからです。梅干しのおにぎりと、煮びたし」


「そうですか」


先生は包みを見た。


「女将さんは、何でも知っていますね」


「梅干しが好きなことも?」


「それは、たぶん。毎日食べているから」


茜は少し笑った。


「たけさんが届けてくれたんですか」


「はい。家の前まで運んでくれました。畑へ入れるのは、僕の仕事です」


「持ちます」


「大丈夫です」


「でも、坂ですよ」


「茜さんも、包みを持っているので」


「これは軽いです」


茜は堆肥の袋へ手を伸ばした。


「運びます」


「大丈夫です」


「でも、二人で持った方が早いです」


先生は少し迷ったあと、袋の反対側を持った。


二人で運ぶと、重い袋も畑の脇まで動かせた。


「海宮は、坂が多いですね」


「海へ行く時は、楽です」


「帰りが大変そうです」


「だから、帰りはゆっくりでいいんです」


茜は、先生の方を見た。


冗談なのか、本気なのか、よくわからなかった。


「先生は、いつも一人で上るんですか」


「そうですね」


「大変じゃないですか」


「慣れました」


それも、たぶん本当だった。


堆肥を畑の脇へ置くと、先生は家の前から坂の下を見た。町の屋根が夕方の光を受けている。電車が海沿いを走り、そのあとから音が届いた。


ガタン、ゴトン。


茜は、息を吐いた。


「きれいですね」


「家まで来ても、坂の途中みたいですね」


「丘の上には、まだ道が続いていますから」


先生は何も言わなかった。


けれど、すぐに歩き出さなかった。


*


先生は、茜の包みを受け取った。


「ありがとうございます」


「女将さんに言ってください」


「茜さんにも」


茜は、少しだけうなずいた。


先生は土の袋を畑の脇へ運び、茜はその様子を見ていた。


苗の間には、前に見たより葉が増えている。


「何を植えてるんですか」


「トマトと、ナスと、大葉です」


「大葉」


茜は思わず言った。


「表を上にして出さないといけない大葉ですね」


先生が、こちらを見た。


「何かありましたか」


「大葉に表と裏があるって、にしさんに教わりました」


「そうですか」


「先生も知ってました?」


「知りませんでした」


「本当に?」


「僕は、畑からそのまま食べるので」


茜は笑った。


先生も、少し遅れて笑った。


その時、茜の携帯が鳴った。


画面には、前の会社の番号が出ている。


茜はすぐには取れなかった。


先生は、畑の土を見ている。


「出なくていいんですか」


「……出ます」


茜は家から少し離れた。


「もしもし」


電話の相手は、以前の上司だった。引き継ぎが終わった資料について、確認したいことがあるという。


茜は必要なことだけ答え、短く電話を切った。


電話を切ると、先生が少し離れた所に立っていた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫です」


茜は笑おうとしたが、うまくできなかった。


先生は、おにぎりの包みを持ち上げた。


「よかったら、一つ食べますか」


「先生の分では」


「二つあります」


「でも」


「女将さんは、たぶん二人分だと思って渡したんでしょう」


その言い方に、茜は少しだけ笑った。


先生は縁側を示した。


家の前の縁側に、二人で腰を下ろした。庭を見渡せる高さで、畑の葉が夕方の風に揺れている。


梅干しのおにぎりは、まだ温かかった。


茜はひと口食べた。


酸っぱさのあとに、ごはんの甘さが残る。


「おいしいです」


「女将さんの梅干しですから」


「知っています」


先生は、梅干しの種を紙に包んだ。


「会社の人からですか」


「はい。もう辞めたのに、まだ自分の仕事のように連絡が来ます」


「それは、困りますね」


「困ります。でも、返せることは返しておきたいんです。私が途中で投げたと思われたくないので」


先生はしばらく海の方を見た。


「最後まで片づけることと、戻ることは違います」


茜は、すぐには答えなかった。


「先生は、そういうことを考えて暮らしているんですか」


「考えないようにしています」


「でも、今のは考えていました」


「そうかもしれません」


風が、家の軒先を通り抜けた。


茜は包みを畳んだ。


「今日は、これで帰ります」


「もう少し、休んでいっても」


先生は言いかけて、やめた。


「いえ。明日の朝、轟屋があります」


「そうですね」


茜は立ち上がった。


坂を下りる前に、畑を振り返る。小さな苗の間に、土の袋が置かれていた。


一人で持てるものでも、反対側を持つ人がいれば、少し早く運べる。


そのことを、茜はまだ先生に言わなかった。


坂の下では、夕方の灯りが一つずつついていった。


途中までしか来ていない気がした。


でも、今はそれでよかった。


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