最初の何日か
茜が海宮へ越してきたのは、再会から七週間後だった。
退職の意思を伝え、一か月かけて引き継ぎを終えた。最後の日まで、図面と現場の予定を後任へ渡した。それから、段ボール四つを抱えてきた。たけさんが見つけた部屋は、轟屋から歩いて十分ほどの古いアパートだった。
「畳は日焼けしてるが、駅に近い」
たけさんは鍵を渡した。
「家賃だけは遅らせるなよ」
「はい」
「返事がいいな。住まいのことで困ったら、うちへ来い」
たけさんは、部屋の中を一度見回した。畳の上に段ボールが四つ、窓際に図面の筒が二本。流し台の下には、前の住人が置いていったらしい洗剤が残っている。
「カーテンは、明日買え」
「なくても、しばらくは」
「夜、外から丸見えだ。仕事を始める前に、寝る場所を作れ」
茜は、部屋を見た。
「はい。今日、買います」
「それと、会社を辞めたからって、すぐ何でもうまくいくわけじゃないぞ」
「分かっています」
「分かってる人は、そう簡単に言わない」
たけさんはそう言って、鍵の使い方をもう一度確認した。
その夜、茜は駅前の店で安いカーテンを買った。帰ってから段ボールを一つずつ開け、服を押し入れへ入れた。建築の本だけは、箱のまま部屋の隅に残った。
手に取ると、前の会社の名前が入った付箋が挟まっている。茜はそれを剥がし、ゴミ箱へ捨てた。
眠る前、窓の外から電車の音がした。先生の家から聞こえた音と、同じ音だった。
段ボールには服と本、それから建築の道具が入っていた。窓を開けると、潮の匂いがした。
翌朝から、茜は轟屋に立った。
最初の仕事は、開店前の掃除だった。床を拭き、座敷の座布団を並べ、冷蔵庫の中を確認する。冷蔵庫には、魚と野菜と、名前のない小さな容器がいくつも入っていた。
「これは、何ですか」
「昨日の煮汁。今日、使えるかもしれないだろ」
女将は答えた。
「何日まで使えるかは、ちゃんと覚えておく。何でも取っておけばいいわけじゃない」
茜は、容器に日付を書いた。
仕事は、思っていたより細かかった。料理だけではない。仕入れの数、皿の欠け、予約の時間、常連の好み。店の一日は、いくつもの小さな判断でできている。
*
最初に女将が教えたのは、包丁ではなかった。
「昆布を水に入れておいて」
大きな鍋に水を張り、昆布を沈める。
「火はまだつけないんですか」
「つけない。待つんだよ」
女将は新じゃがを洗いながら言った。
「急ぐと、出汁が変になる」
茜は鍋を見た。水の中の昆布は、何も変わらないように見える。
「料理も、待つんですね」
「人も、野菜も、だいたいそう」
茜は返事をせず、鍋のふたを少しずらした。
昼には、新じゃがとひじきの煮物をつくった。茜はじゃがいもの皮をむき、女将は味を決める。主人は黙ってアジをおろしていた。
「そのじゃがいも、少し大きい」
「そろえます」
「急がなくていい。煮崩れるよりいい」
夕方、最初に来たのはままさんだった。
「あらまあ。本当に来たのね」
「今日から、お世話になります」
「若い子がいると、ひじきまで若く見えるねえ」
「ひじきは若返らないよ」
女将が言うと、店に笑いが起きた。
にしさんは、その後に入ってきた。
茜を見ると、少しだけ足を止める。
「先日は、ありがとうございました」
茜が頭を下げると、にしさんはうなずきもしなかった。
「ここで働くのか」
「はい」
「仕事は辞めたのか」
「辞めました」
「次の仕事は」
「まだ、決めていません」
にしさんは、焼酎の水割りを一口飲んだ。
「仕事を辞めて、先生のいる町へ来た。それだけ聞くと、ずいぶん簡単だな」
「簡単ではありませんでした」
「そうかい」
「会社には、引き継ぎをして、住む場所も探しました。ここで働けるかどうかも、まだ決まっていません」
茜は、声を荒らげずに言った。
「ただ、戻りたくない場所へ戻らないことだけは、自分で決めました」
にしさんは、しばらく茜を見た。
「先生のことは」
「先生に会えたのは、きっかけです」
茜は言った。
「でも、海宮へ来ることを決めたのは、私です」
にしさんは、ようやくおしぼりを畳んだ。
「なら、自分の飯は自分で食え」
「はい」
「店の飯を食うのは、働いた分だけだ」
「分かっています」
「それなら、しばらく見てる」
にしさんはおしぼりを受け取り、しばらく黙った。
「先生のために来たわけじゃないだろうな」
茜は顔を上げた。
「私が決めて来ました」
「ならいい」
言い方は、少しもやさしくなかった。
けれど、茜は目をそらさなかった。
「アジ、塩で」
にしさんはそう言って席についた。
主人が焼いたアジを、茜が運ぶ。大葉の表裏をまだ知らず、皿へ逆に敷いた。
「大葉、裏だ」
茜は固まった。
「すみません。直します」
「いい。次から覚えろ」
にしさんはアジを食べた。
「ひじきは」
茜が訊く。
「出せ」
小鉢を置くと、にしさんは一口食べた。
「じゃがいもが大きい」
茜の肩が少し下がる。
「でも、味は悪くない」
にしさんはそれだけ言った。
先生が来たのは、その少し後だった。
前掛け姿の茜を見て、足を止める。
「こんばんは」
「こんばんは」
茜は先生の前へ、ひじきの小鉢を置いた。
「今日は、新じゃが入りです」
「茜さんがつくったんですか」
「女将さんと」
先生は一口食べた。
「じゃがいもが、少し大きいですね」
茜は先生を見た。
「でも、おいしいです」
「先生、そこは無理に褒めなくていいです」
「無理ではありません」
「じゃがいもが大きいのに?」
「大きいから、食べた時に分かります」
先生の言い方が妙に真面目で、茜は笑った。
女将は厨房から二人を見ていたが、何も言わずに鍋の蓋を閉めた。
その時、にしさんが鼻を鳴らした。
「先生は、何でも甘いな」
先生は困ったように箸を置く。
茜は小さく笑った。
閉店後、女将が残ったひじきを椀へよそった。
「賄い。食べて帰りな」
茜は湯気の前で箸を取った。
自分が切ったじゃがいもは、やはり少し大きかった。
それでも、昆布を待ってつくった出汁の味がした。
明日は、もう少し揃えようと思った。
部屋へ戻ると、買ったばかりのカーテンが、夜の風で少し膨らんでいた。茜は窓を閉め、明日の勤務時間を書いた紙を冷蔵庫に貼った。
海宮での暮らしは、まだ始まったばかりだった。




