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茜色の家  作者: 大神みや
丘の上の小さな家

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4/19

最初の何日か

茜が海宮へ越してきたのは、再会から七週間後だった。


退職の意思を伝え、一か月かけて引き継ぎを終えた。最後の日まで、図面と現場の予定を後任へ渡した。それから、段ボール四つを抱えてきた。たけさんが見つけた部屋は、轟屋から歩いて十分ほどの古いアパートだった。


「畳は日焼けしてるが、駅に近い」


たけさんは鍵を渡した。


「家賃だけは遅らせるなよ」


「はい」


「返事がいいな。住まいのことで困ったら、うちへ来い」


たけさんは、部屋の中を一度見回した。畳の上に段ボールが四つ、窓際に図面の筒が二本。流し台の下には、前の住人が置いていったらしい洗剤が残っている。


「カーテンは、明日買え」


「なくても、しばらくは」


「夜、外から丸見えだ。仕事を始める前に、寝る場所を作れ」


茜は、部屋を見た。


「はい。今日、買います」


「それと、会社を辞めたからって、すぐ何でもうまくいくわけじゃないぞ」


「分かっています」


「分かってる人は、そう簡単に言わない」


たけさんはそう言って、鍵の使い方をもう一度確認した。


その夜、茜は駅前の店で安いカーテンを買った。帰ってから段ボールを一つずつ開け、服を押し入れへ入れた。建築の本だけは、箱のまま部屋の隅に残った。


手に取ると、前の会社の名前が入った付箋が挟まっている。茜はそれを剥がし、ゴミ箱へ捨てた。


眠る前、窓の外から電車の音がした。先生の家から聞こえた音と、同じ音だった。


段ボールには服と本、それから建築の道具が入っていた。窓を開けると、潮の匂いがした。


翌朝から、茜は轟屋に立った。


最初の仕事は、開店前の掃除だった。床を拭き、座敷の座布団を並べ、冷蔵庫の中を確認する。冷蔵庫には、魚と野菜と、名前のない小さな容器がいくつも入っていた。


「これは、何ですか」


「昨日の煮汁。今日、使えるかもしれないだろ」


女将は答えた。


「何日まで使えるかは、ちゃんと覚えておく。何でも取っておけばいいわけじゃない」


茜は、容器に日付を書いた。


仕事は、思っていたより細かかった。料理だけではない。仕入れの数、皿の欠け、予約の時間、常連の好み。店の一日は、いくつもの小さな判断でできている。


*


最初に女将が教えたのは、包丁ではなかった。


「昆布を水に入れておいて」


大きな鍋に水を張り、昆布を沈める。


「火はまだつけないんですか」


「つけない。待つんだよ」


女将は新じゃがを洗いながら言った。


「急ぐと、出汁が変になる」


茜は鍋を見た。水の中の昆布は、何も変わらないように見える。


「料理も、待つんですね」


「人も、野菜も、だいたいそう」


茜は返事をせず、鍋のふたを少しずらした。


昼には、新じゃがとひじきの煮物をつくった。茜はじゃがいもの皮をむき、女将は味を決める。主人は黙ってアジをおろしていた。


「そのじゃがいも、少し大きい」


「そろえます」


「急がなくていい。煮崩れるよりいい」


夕方、最初に来たのはままさんだった。


「あらまあ。本当に来たのね」


「今日から、お世話になります」


「若い子がいると、ひじきまで若く見えるねえ」


「ひじきは若返らないよ」


女将が言うと、店に笑いが起きた。


にしさんは、その後に入ってきた。


茜を見ると、少しだけ足を止める。


「先日は、ありがとうございました」


茜が頭を下げると、にしさんはうなずきもしなかった。


「ここで働くのか」


「はい」


「仕事は辞めたのか」


「辞めました」


「次の仕事は」


「まだ、決めていません」


にしさんは、焼酎の水割りを一口飲んだ。


「仕事を辞めて、先生のいる町へ来た。それだけ聞くと、ずいぶん簡単だな」


「簡単ではありませんでした」


「そうかい」


「会社には、引き継ぎをして、住む場所も探しました。ここで働けるかどうかも、まだ決まっていません」


茜は、声を荒らげずに言った。


「ただ、戻りたくない場所へ戻らないことだけは、自分で決めました」


にしさんは、しばらく茜を見た。


「先生のことは」


「先生に会えたのは、きっかけです」


茜は言った。


「でも、海宮へ来ることを決めたのは、私です」


にしさんは、ようやくおしぼりを畳んだ。


「なら、自分の飯は自分で食え」


「はい」


「店の飯を食うのは、働いた分だけだ」


「分かっています」


「それなら、しばらく見てる」


にしさんはおしぼりを受け取り、しばらく黙った。


「先生のために来たわけじゃないだろうな」


茜は顔を上げた。


「私が決めて来ました」


「ならいい」


言い方は、少しもやさしくなかった。


けれど、茜は目をそらさなかった。


「アジ、塩で」


にしさんはそう言って席についた。


主人が焼いたアジを、茜が運ぶ。大葉の表裏をまだ知らず、皿へ逆に敷いた。


「大葉、裏だ」


茜は固まった。


「すみません。直します」


「いい。次から覚えろ」


にしさんはアジを食べた。


「ひじきは」


茜が訊く。


「出せ」


小鉢を置くと、にしさんは一口食べた。


「じゃがいもが大きい」


茜の肩が少し下がる。


「でも、味は悪くない」


にしさんはそれだけ言った。


先生が来たのは、その少し後だった。


前掛け姿の茜を見て、足を止める。


「こんばんは」


「こんばんは」


茜は先生の前へ、ひじきの小鉢を置いた。


「今日は、新じゃが入りです」


「茜さんがつくったんですか」


「女将さんと」


先生は一口食べた。


「じゃがいもが、少し大きいですね」


茜は先生を見た。


「でも、おいしいです」


「先生、そこは無理に褒めなくていいです」


「無理ではありません」


「じゃがいもが大きいのに?」


「大きいから、食べた時に分かります」


先生の言い方が妙に真面目で、茜は笑った。


女将は厨房から二人を見ていたが、何も言わずに鍋の蓋を閉めた。


その時、にしさんが鼻を鳴らした。


「先生は、何でも甘いな」


先生は困ったように箸を置く。


茜は小さく笑った。


閉店後、女将が残ったひじきを椀へよそった。


「賄い。食べて帰りな」


茜は湯気の前で箸を取った。


自分が切ったじゃがいもは、やはり少し大きかった。


それでも、昆布を待ってつくった出汁の味がした。


明日は、もう少し揃えようと思った。


部屋へ戻ると、買ったばかりのカーテンが、夜の風で少し膨らんでいた。茜は窓を閉め、明日の勤務時間を書いた紙を冷蔵庫に貼った。


海宮での暮らしは、まだ始まったばかりだった。


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