働かせてください
一週間後の休みの日、茜は海宮へ向かう電車に乗った。
仕事の連絡は、家を出る前に一度だけ確認した。今日は返事をしないと決めて、携帯を鞄の底へしまう。
先生に会いたかった。
もう一度、五坪の家を見たかった。
その二つを、どちらかに決める必要はないと思った。
駅を出ると、潮の匂いがした。茜は坂道を上り、丘の畑へ向かった。
先生は、畑の隅で土をならしていた。
「おはようございます」
先生が顔を上げる。
「茜さん。来ましたね」
「はい。家を、もう一度見せていただけますか」
「どうぞ。まだ、片づいていませんが」
「前にも見せていただきました」
「そうでしたか」
先生は、茜が来たことを特別なこととは考えていないようだった。けれど、戸を開ける手つきは、前より少しゆっくりだった。
*
五坪の家は、数字から想像するより広く感じた。
玄関を入ると、台所と居間が一つにつながっている。窓は低く、朝の光が床の奥まで届くように向きを決められていた。窓を少し開けると、海からの風が台所を通り、小上がりの上へ抜けていく。
「風の通り道まで考えてあるんですね」
茜は窓の位置を見ながら言った。
「夕方になると、反対側の窓から風が入ります。日の入り方も、季節で少し変わるんです」
先生は、窓の留め具を確認した。
「私、こういう建築がしたかったんです。狭いから我慢するのではなく、狭いからこそ、光や風を丁寧に取り込む家」
先生は少し照れたように目をそらした。
「私はアイデアを出しただけです。町の大工さんが、土地に合わせて作ってくれました」
「でも、どこに何を置くかは、先生が決めたんですよね」
茜は小上がりの下の引き出しを開けた。米と乾物が、手前から使う順に並んでいる。食卓には湯のみが一つ、壁際には本が数冊だけ置かれていた。
「暮らし方まで、設計の中に入っているみたいです」
「決めておかないと、探す時間が増えるので」
「探す時間も、暮らしの一部ですよ」
「そうかもしれません」
先生は否定しなかった。
茜は、窓から見える町へ目を向けた。屋根の向こうに海があり、斜面の桜の枝が風に揺れている。小さな家なのに、外の景色まで部屋の一部になっていた。
その時、携帯が鳴った。
画面を見ると、会社からの連絡だった。茜は一度、先生を見た。
「出ても大丈夫です」
「はい」
茜は窓際で電話に出た。
「資料は共有フォルダに入れています」
「はい。確認します」
「今日は、戻れません」
電話を切っても、茜はしばらく画面を見ていた。
先生は、畑の方へ目をやったまま言った。
「何か、あったんですか」
「いえ。大丈夫です」
「悩んでいる顔をしています」
茜は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「そんな顔、分かるんですか」
「分かる時もあります」
「先生は、何でも見ているんですね」
「見えているだけで、分かっているとは限りません」
その言葉を聞いて、茜は携帯を鞄へしまった。
「自分が考えた案が、別の人の名前で提出されたことがあります」
先生は、すぐには返事をしなかった。
「説明を求めたら、チームで作ったものだからと言われました。そういうことが何度か続いて、何を作りたいのか分からなくなりました」
「建築が嫌いになったわけではないんですね」
「続けたいです」
茜は、今度は迷わず答えた。
「だから、辞めることが怖いんです。逃げるみたいで」
先月は、終電を逃すまで図面を直した。翌朝の会議では、自分の案について「説明できる人が話して」と言われた。残業代の申請を出すと、上司は「今は勉強の時間だろう」と笑った。
「その笑いを聞いた時、建築を続けたい気持ちと、ここから離れたい気持ちが同じ重さになりました」
先生は、土の上に置かれた小さな鉢を見た。
「辞めるかどうかは、自分で決めた方がいいと思います」
「先生は、畑の話にしないんですか」
「今日は、しない方がよさそうです」
茜は、久しぶりに声を出して笑った。
*
昼、二人は轟屋へ下りた。
昼の店には、港から届いた釜揚げしらすと、新玉ねぎが並んでいた。女将はしらすを大根おろしにのせ、主人は新玉ねぎとわかめの味噌汁を作っている。
「今日は海のものが早かったんだよ」
女将が、茜の椀へ味噌汁をよそった。
「朝の船が戻ると、町の台所も忙しくなるんですね」
「忙しいけど、誰かが余分に持ってくる。うちだけで食べきれないからねえ」
その時、近所の女性が小さな籠を持って入ってきた。
「庭の豆が採れすぎたから、使っておくれ」
「ありがたいねえ。夕方には煮物にしよう」
女将は籠を受け取り、茜へ渡した。
茜は、豆の重さを手のひらで確かめた。港のしらすも、畑の豆も、誰かの手からこの店へ集まってくる。店では、それを別の誰かへ渡すために、火を入れ、味を整え、皿にのせている。
「ここには、毎日いろいろなものが届くんですね」
「海と畑と、人のついでだよ」
女将が笑った。
その言葉を聞いた時、茜の中で何かが小さく弾けた。
海宮には、都会で探していたものとは違う宝物が、足元に転がっている。誰かが採った豆を受け取り、別の誰かのために料理をする。町の人は、それを特別なことだと思っていない。
自分も、この輪の中で働きたい。
ここに住みたい。
そう思った次の瞬間、茜は口を開いていた。
「変なことを言うかもしれませんけど」
言ってから、自分でも驚いた。
女将が顔を上げ、主人の包丁が止まり、にしさんも箸を置いた。
「もし、仕事を辞めて、海宮で暮らせるようになったら」
茜は膝の上で手を握った。
「轟屋で働かせてもらえませんか」
しばらく、誰も声を出さなかった。
茜自身も、なぜ突然そんなことを言ったのか分からなかった。けれど、口にしてしまった言葉は、自分の中にあった気持ちから出てきたものだった。
「えっ、ちょっと。どうしたの、急に」
女将が、目を丸くした。
たけさんが、少し遅れて口を開いた。
「今の会社はどうする。住む所は。勢いで言ってるなら、俺は賛成しないぞ」
茜は、はっと顔を上げた。自分が何を口にしたのか、ようやく現実の言葉として聞こえてきた。
「分かっています」
にしさんが、低い声で言う。
「先生を追って来るなら、やめろ」
茜は、先生を見た。
「先生に会えたことは、きっかけです。でも、この町で働きたいと思ったのは、私です」
にしさんは、茜の顔をしばらく見た。
「その言葉、忘れるなよ」
「はい」
主人が、初めて口を開いた。
「いいよ」
女将が、主人を振り返った。
「えっ、いいのかい?」
主人は、しらすの小鉢を一つ、茜の方へ寄せた。
「ただし、辞めることと、ここで働くことは別だ」
「はい」
「今の仕事を、自分で片づけてこい。住む所も決めろ。それから、もう一度ここへ来い」
茜は、ゆっくりとうなずいた。
女将はまだ驚いた顔をしていたが、主人の方を見て、ふう、と息を吐いた。
「主人が決めたなら、仕方ないかねえ」
「その時に、まだここで働きたいと思っていたらね」
「はい」
先生は何も言わなかった。ただ、茜の前の湯のみが空いていることに気づき、急須を取った。
「今日は、夕方に戻るんですか」
「はい。夕方には」
「それまでに、食べておいた方がいいです」
「先生は、そういうところだけ先生ですね」
茜が言うと、女将が笑った。
茜は注がれるお茶の湯気を見た。
すぐに帰る場所にはならない。
それでも、自分で戻って来てもいい場所を見つけた気がした。
*
東京へ戻る電車の中で、茜は退職届の下書きを携帯に打った。
けれど、送信するところで指が止まった。
なんで、あんなことを言ってしまったのだろう。
仕事を辞めて、本当に大丈夫なのか。家賃も保険も、自分で払わなければならない。海宮へ行っても、轟屋で働ける保証はない。
窓の外を流れる町の灯りが、トンネルの中で消えた。
それでも、今日の言葉を取り消したくはなかった。
退職届は、まだ送らない。数字を確認し、引き継ぎをして、住む場所を探す。それから、もう一度、自分の足で海宮へ来る。
茜は携帯を伏せた。
先に動いてしまった自分と、あとから追いついてくる現実。その両方を抱えたまま、東京へ戻っていった。




