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茜色の家  作者: 大神みや
丘の上の小さな家

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3/19

働かせてください

一週間後の休みの日、茜は海宮へ向かう電車に乗った。


仕事の連絡は、家を出る前に一度だけ確認した。今日は返事をしないと決めて、携帯を鞄の底へしまう。


先生に会いたかった。


もう一度、五坪の家を見たかった。


その二つを、どちらかに決める必要はないと思った。


駅を出ると、潮の匂いがした。茜は坂道を上り、丘の畑へ向かった。


先生は、畑の隅で土をならしていた。


「おはようございます」


先生が顔を上げる。


「茜さん。来ましたね」


「はい。家を、もう一度見せていただけますか」


「どうぞ。まだ、片づいていませんが」


「前にも見せていただきました」


「そうでしたか」


先生は、茜が来たことを特別なこととは考えていないようだった。けれど、戸を開ける手つきは、前より少しゆっくりだった。


*


五坪の家は、数字から想像するより広く感じた。


玄関を入ると、台所と居間が一つにつながっている。窓は低く、朝の光が床の奥まで届くように向きを決められていた。窓を少し開けると、海からの風が台所を通り、小上がりの上へ抜けていく。


「風の通り道まで考えてあるんですね」


茜は窓の位置を見ながら言った。


「夕方になると、反対側の窓から風が入ります。日の入り方も、季節で少し変わるんです」


先生は、窓の留め具を確認した。


「私、こういう建築がしたかったんです。狭いから我慢するのではなく、狭いからこそ、光や風を丁寧に取り込む家」


先生は少し照れたように目をそらした。


「私はアイデアを出しただけです。町の大工さんが、土地に合わせて作ってくれました」


「でも、どこに何を置くかは、先生が決めたんですよね」


茜は小上がりの下の引き出しを開けた。米と乾物が、手前から使う順に並んでいる。食卓には湯のみが一つ、壁際には本が数冊だけ置かれていた。


「暮らし方まで、設計の中に入っているみたいです」


「決めておかないと、探す時間が増えるので」


「探す時間も、暮らしの一部ですよ」


「そうかもしれません」


先生は否定しなかった。


茜は、窓から見える町へ目を向けた。屋根の向こうに海があり、斜面の桜の枝が風に揺れている。小さな家なのに、外の景色まで部屋の一部になっていた。


その時、携帯が鳴った。


画面を見ると、会社からの連絡だった。茜は一度、先生を見た。


「出ても大丈夫です」


「はい」


茜は窓際で電話に出た。


「資料は共有フォルダに入れています」


「はい。確認します」


「今日は、戻れません」


電話を切っても、茜はしばらく画面を見ていた。


先生は、畑の方へ目をやったまま言った。


「何か、あったんですか」


「いえ。大丈夫です」


「悩んでいる顔をしています」


茜は笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「そんな顔、分かるんですか」


「分かる時もあります」


「先生は、何でも見ているんですね」


「見えているだけで、分かっているとは限りません」


その言葉を聞いて、茜は携帯を鞄へしまった。


「自分が考えた案が、別の人の名前で提出されたことがあります」


先生は、すぐには返事をしなかった。


「説明を求めたら、チームで作ったものだからと言われました。そういうことが何度か続いて、何を作りたいのか分からなくなりました」


「建築が嫌いになったわけではないんですね」


「続けたいです」


茜は、今度は迷わず答えた。


「だから、辞めることが怖いんです。逃げるみたいで」


先月は、終電を逃すまで図面を直した。翌朝の会議では、自分の案について「説明できる人が話して」と言われた。残業代の申請を出すと、上司は「今は勉強の時間だろう」と笑った。


「その笑いを聞いた時、建築を続けたい気持ちと、ここから離れたい気持ちが同じ重さになりました」


先生は、土の上に置かれた小さな鉢を見た。


「辞めるかどうかは、自分で決めた方がいいと思います」


「先生は、畑の話にしないんですか」


「今日は、しない方がよさそうです」


茜は、久しぶりに声を出して笑った。


*


昼、二人は轟屋へ下りた。


昼の店には、港から届いた釜揚げしらすと、新玉ねぎが並んでいた。女将はしらすを大根おろしにのせ、主人は新玉ねぎとわかめの味噌汁を作っている。


「今日は海のものが早かったんだよ」


女将が、茜の椀へ味噌汁をよそった。


「朝の船が戻ると、町の台所も忙しくなるんですね」


「忙しいけど、誰かが余分に持ってくる。うちだけで食べきれないからねえ」


その時、近所の女性が小さな籠を持って入ってきた。


「庭の豆が採れすぎたから、使っておくれ」


「ありがたいねえ。夕方には煮物にしよう」


女将は籠を受け取り、茜へ渡した。


茜は、豆の重さを手のひらで確かめた。港のしらすも、畑の豆も、誰かの手からこの店へ集まってくる。店では、それを別の誰かへ渡すために、火を入れ、味を整え、皿にのせている。


「ここには、毎日いろいろなものが届くんですね」


「海と畑と、人のついでだよ」


女将が笑った。


その言葉を聞いた時、茜の中で何かが小さく弾けた。


海宮には、都会で探していたものとは違う宝物が、足元に転がっている。誰かが採った豆を受け取り、別の誰かのために料理をする。町の人は、それを特別なことだと思っていない。


自分も、この輪の中で働きたい。


ここに住みたい。


そう思った次の瞬間、茜は口を開いていた。


「変なことを言うかもしれませんけど」


言ってから、自分でも驚いた。


女将が顔を上げ、主人の包丁が止まり、にしさんも箸を置いた。


「もし、仕事を辞めて、海宮で暮らせるようになったら」


茜は膝の上で手を握った。


「轟屋で働かせてもらえませんか」


しばらく、誰も声を出さなかった。


茜自身も、なぜ突然そんなことを言ったのか分からなかった。けれど、口にしてしまった言葉は、自分の中にあった気持ちから出てきたものだった。


「えっ、ちょっと。どうしたの、急に」


女将が、目を丸くした。


たけさんが、少し遅れて口を開いた。


「今の会社はどうする。住む所は。勢いで言ってるなら、俺は賛成しないぞ」


茜は、はっと顔を上げた。自分が何を口にしたのか、ようやく現実の言葉として聞こえてきた。


「分かっています」


にしさんが、低い声で言う。


「先生を追って来るなら、やめろ」


茜は、先生を見た。


「先生に会えたことは、きっかけです。でも、この町で働きたいと思ったのは、私です」


にしさんは、茜の顔をしばらく見た。


「その言葉、忘れるなよ」


「はい」


主人が、初めて口を開いた。


「いいよ」


女将が、主人を振り返った。


「えっ、いいのかい?」


主人は、しらすの小鉢を一つ、茜の方へ寄せた。


「ただし、辞めることと、ここで働くことは別だ」


「はい」


「今の仕事を、自分で片づけてこい。住む所も決めろ。それから、もう一度ここへ来い」


茜は、ゆっくりとうなずいた。


女将はまだ驚いた顔をしていたが、主人の方を見て、ふう、と息を吐いた。


「主人が決めたなら、仕方ないかねえ」


「その時に、まだここで働きたいと思っていたらね」


「はい」


先生は何も言わなかった。ただ、茜の前の湯のみが空いていることに気づき、急須を取った。


「今日は、夕方に戻るんですか」


「はい。夕方には」


「それまでに、食べておいた方がいいです」


「先生は、そういうところだけ先生ですね」


茜が言うと、女将が笑った。


茜は注がれるお茶の湯気を見た。


すぐに帰る場所にはならない。


それでも、自分で戻って来てもいい場所を見つけた気がした。


*


東京へ戻る電車の中で、茜は退職届の下書きを携帯に打った。


けれど、送信するところで指が止まった。


なんで、あんなことを言ってしまったのだろう。


仕事を辞めて、本当に大丈夫なのか。家賃も保険も、自分で払わなければならない。海宮へ行っても、轟屋で働ける保証はない。


窓の外を流れる町の灯りが、トンネルの中で消えた。


それでも、今日の言葉を取り消したくはなかった。


退職届は、まだ送らない。数字を確認し、引き継ぎをして、住む場所を探す。それから、もう一度、自分の足で海宮へ来る。


茜は携帯を伏せた。


先に動いてしまった自分と、あとから追いついてくる現実。その両方を抱えたまま、東京へ戻っていった。


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