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茜色の家  作者: 大神みや
丘の上の小さな家

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2/19

五坪の家

目を開けると、知らない天井があった。


まだ夜だった。


窓の外は青くもならず、遠くで波の音だけがしている。女はしばらく息をひそめて、天井の木目を見ていた。


頭が重い。喉が乾いている。


身じろぎすると、薄い毛布が膝から落ちた。狭い部屋だった。小さな台所と低い棚。その向こうに、黒い窓がある。


壁は白く、床は木だった。ものが少ないというより、置く場所を最初から決めているように見える。椅子は一脚だけで、食卓の上には湯のみが一つ。壁際に本が数冊と、畑で使うらしい小さな鋏が置かれていた。


どこに何があるか、すぐ分かる家だった。


それなのに、女は自分がどこにいるのか分からなかった。


昨夜のことを思い出そうとした。


轟屋へ入った。


先生がいた。


「……先生」と呼んだ。


その後が、ない。


枕元には水と、女将の字らしい丸いメモが置かれていた。


> 診療所の先生に見てもらいました。疲れと空腹だそうです。

> 朝まで、ゆっくり寝ていてね。


水を飲むと、冷たさが喉を下りた。


昨夜、女将と主人、それから強い顔をした漁師が、倒れた自分を店の奥へ運んだことを、ぼんやり思い出した。誰かが診療所へ電話をし、医師が来て、疲れと空腹だろうと言った。点滴も必要ない、朝まで一人にしない方がいい、と。


その時、先生が家の鍵を出した。


「ここなら、横になれます」


そう言ったらしい。


自分のために、床へ寝袋を敷いたのだ。


そのことが、かえって苦しかった。覚えていない人に親切にされると、自分だけが過去に取り残されたようだった。


そこで、部屋の隅に人影があることに気づいた。


床の寝袋で、先生が眠っていた。


昨夜の男だった。


女は毛布を握った。


先生。


呼びたかった。


けれど、先に浮かんだのは、あの言葉だった。


――どちら様でしょうか。


先生は、自分を覚えていない。


それなのに、自分はこの人の家で眠っている。


女は、そっと起き上がった。バッグと図面の筒は壁際にそろえて置かれている。先生のものだろう毛布が、寝袋の上には一枚もなかった。


戸を開けると、冷たい朝前の空気が入ってきた。


庭先の畑は、まだ闇の中だった。


*


始発前の駅には、人がいなかった。


女はベンチに座り、携帯を見た。会社からの連絡は来ていない。今日の朝には戻らなければならないのに、帰りたくなかった。


電車の時間まで、まだ少しある。


昨夜のまま、何も言わずに帰ることだけはできなかった。


携帯の画面には、会社からの着信履歴が三件あった。現場で確認するはずだった図面も、明日の会議の資料も、鞄の中にある。普段なら、朝の電車に乗り、駅から会社へ向かい、何事もなかったように席に座る。


けれど、昨日見た背中を、見なかったことにはできなかった。


空が白み始める頃、女は轟屋の前へ戻った。


暖簾は出ていない。けれど、裏口の奥から包丁の音がした。


ためらってから、女は戸を叩いた。


女将が出てきた。


「あら。もう起きたの」


「すみません。昨日は、ご迷惑を」


女は深く頭を下げた。


「謝らなくていいのよ。倒れた人を寝かせただけ」


「でも、先生の家まで」


女将は少し笑った。


「先生が家なら毛布があると言ったの。主人とにしさんで運んで、私が寝具を敷いた。先生は床で寝た。それだけ」


女は、ようやく息を吐いた。


「診療所の先生も、朝まで休めば大丈夫だって」


「すみません。本当に」


「だから、謝るより食べなさい」


女将は湯気の立つ椀を差し出した。味噌汁の中には、わかめと豆腐が入っている。


「始発まで、まだあるんでしょ」


女は椀を受け取った。


温かさに触れた途端、空腹だったことを思い出した。


「いただきます」


一口飲むと、目の奥が熱くなった。


「先生には、会わなくていいのかい」


女将が訊く。


女は椀を見た。


「会いたいです」


「どうして、そこまで会いたいの」


女将の声は、責めるものではなかった。


女は、少しだけ迷った。


「私が建築を続けていることを、伝えたいんです」


それだけでは足りない気がした。


「先生が覚えていなくても、私は先生に教わったことを、ずっと覚えているので」


「じゃあ、始発は一本遅らせな」


女将の言葉は、やさしくも強かった。


女は椀の底に残ったわかめを見た。帰る時間を遅らせる理由など、本当はもう十分にあった。けれど、それを自分で認めるのが怖かった。


*


朝の光が丘へ届く頃、女は先生の家の前に立っていた。


先生は畑で水をやっている。


「具合はどうですか」


「大丈夫です」


女は、昨夜より落ち着いた声で言えた。


「昨日は、ありがとうございました」


「どういたしまして」


先生はじょうろを置いた。


「女将さんから、朝ごはんを食べたと聞きました」


「連絡したんですか」


「心配していたので」


先生は、女の顔を見てから、畑へ視線を戻した。


「昨日は、かなり疲れているようでした」


「仕事で、少し」


「食事は」


「昨日は、昼から食べていませんでした」


先生は何も言わなかった。


先生は、女の顔色を見てから、畑の隅へ目をやった。

そこに置いてあった大根を一本抜き、土を払う。


「帰る前に、これを持っていきますか」


女は大根を見た。


「いいんですか」


「食べるものなので」


その言い方が先生らしくて、女は口元をゆるめた。


「先生」


先生は、困ったように眉を寄せる。


「昨日もそう呼ばれましたが」


「高校三年の時、塾で数学を教わっていました」


先生の顔が、少し動いた。


「塾で」


「私は進路が決まらなくて。先生が、私の描いた家の絵を見て、建築をやってみたらどうですかって」


先生は畑の芽を見たまま言った。


「そんなことを、言いましたか」


「言いました」


女は、今度は泣かなかった。


「だから、建築の学校へ行きました」


遠くで、始発の電車が走り出す。


ガタン、ゴトン。


「あの。まだ名乗っていませんでした」


先生が顔を上げる。


「茜です」


先生は少し間を置いた。


「茜さん」


名前を呼ばれただけで、九年分の朝が少し変わった。


「この家、先生が設計したんですか」


「一応は」


茜は少し笑った。


「また、見せてください」


先生は、すぐには答えなかった。


やがて、小さくうなずいた。


「はい」


茜は、もう一度だけ窓の位置と屋根の低さを見た。朝の光を受けた五坪の家は、思っていたより小さく、思っていたより遠かった。


「次の電車で、戻ります」


茜は言った。


先生はうなずいた。


「気をつけて」


茜は坂を下りた。駅へ向かう道の途中で、何度も振り返りそうになったが、振り返らなかった。


丘の上では、先生が抜いた大根を台所へ運んでいた。いつもなら、朝の仕事へ戻るだけの時間だった。けれどその日は、空いた椅子が一脚あることに気づいた。


誰かが座ったわけではない。


それでも、家の中に残った気配を、すぐには片づけられなかった。


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