五坪の家
目を開けると、知らない天井があった。
まだ夜だった。
窓の外は青くもならず、遠くで波の音だけがしている。女はしばらく息をひそめて、天井の木目を見ていた。
頭が重い。喉が乾いている。
身じろぎすると、薄い毛布が膝から落ちた。狭い部屋だった。小さな台所と低い棚。その向こうに、黒い窓がある。
壁は白く、床は木だった。ものが少ないというより、置く場所を最初から決めているように見える。椅子は一脚だけで、食卓の上には湯のみが一つ。壁際に本が数冊と、畑で使うらしい小さな鋏が置かれていた。
どこに何があるか、すぐ分かる家だった。
それなのに、女は自分がどこにいるのか分からなかった。
昨夜のことを思い出そうとした。
轟屋へ入った。
先生がいた。
「……先生」と呼んだ。
その後が、ない。
枕元には水と、女将の字らしい丸いメモが置かれていた。
> 診療所の先生に見てもらいました。疲れと空腹だそうです。
> 朝まで、ゆっくり寝ていてね。
水を飲むと、冷たさが喉を下りた。
昨夜、女将と主人、それから強い顔をした漁師が、倒れた自分を店の奥へ運んだことを、ぼんやり思い出した。誰かが診療所へ電話をし、医師が来て、疲れと空腹だろうと言った。点滴も必要ない、朝まで一人にしない方がいい、と。
その時、先生が家の鍵を出した。
「ここなら、横になれます」
そう言ったらしい。
自分のために、床へ寝袋を敷いたのだ。
そのことが、かえって苦しかった。覚えていない人に親切にされると、自分だけが過去に取り残されたようだった。
そこで、部屋の隅に人影があることに気づいた。
床の寝袋で、先生が眠っていた。
昨夜の男だった。
女は毛布を握った。
先生。
呼びたかった。
けれど、先に浮かんだのは、あの言葉だった。
――どちら様でしょうか。
先生は、自分を覚えていない。
それなのに、自分はこの人の家で眠っている。
女は、そっと起き上がった。バッグと図面の筒は壁際にそろえて置かれている。先生のものだろう毛布が、寝袋の上には一枚もなかった。
戸を開けると、冷たい朝前の空気が入ってきた。
庭先の畑は、まだ闇の中だった。
*
始発前の駅には、人がいなかった。
女はベンチに座り、携帯を見た。会社からの連絡は来ていない。今日の朝には戻らなければならないのに、帰りたくなかった。
電車の時間まで、まだ少しある。
昨夜のまま、何も言わずに帰ることだけはできなかった。
携帯の画面には、会社からの着信履歴が三件あった。現場で確認するはずだった図面も、明日の会議の資料も、鞄の中にある。普段なら、朝の電車に乗り、駅から会社へ向かい、何事もなかったように席に座る。
けれど、昨日見た背中を、見なかったことにはできなかった。
空が白み始める頃、女は轟屋の前へ戻った。
暖簾は出ていない。けれど、裏口の奥から包丁の音がした。
ためらってから、女は戸を叩いた。
女将が出てきた。
「あら。もう起きたの」
「すみません。昨日は、ご迷惑を」
女は深く頭を下げた。
「謝らなくていいのよ。倒れた人を寝かせただけ」
「でも、先生の家まで」
女将は少し笑った。
「先生が家なら毛布があると言ったの。主人とにしさんで運んで、私が寝具を敷いた。先生は床で寝た。それだけ」
女は、ようやく息を吐いた。
「診療所の先生も、朝まで休めば大丈夫だって」
「すみません。本当に」
「だから、謝るより食べなさい」
女将は湯気の立つ椀を差し出した。味噌汁の中には、わかめと豆腐が入っている。
「始発まで、まだあるんでしょ」
女は椀を受け取った。
温かさに触れた途端、空腹だったことを思い出した。
「いただきます」
一口飲むと、目の奥が熱くなった。
「先生には、会わなくていいのかい」
女将が訊く。
女は椀を見た。
「会いたいです」
「どうして、そこまで会いたいの」
女将の声は、責めるものではなかった。
女は、少しだけ迷った。
「私が建築を続けていることを、伝えたいんです」
それだけでは足りない気がした。
「先生が覚えていなくても、私は先生に教わったことを、ずっと覚えているので」
「じゃあ、始発は一本遅らせな」
女将の言葉は、やさしくも強かった。
女は椀の底に残ったわかめを見た。帰る時間を遅らせる理由など、本当はもう十分にあった。けれど、それを自分で認めるのが怖かった。
*
朝の光が丘へ届く頃、女は先生の家の前に立っていた。
先生は畑で水をやっている。
「具合はどうですか」
「大丈夫です」
女は、昨夜より落ち着いた声で言えた。
「昨日は、ありがとうございました」
「どういたしまして」
先生はじょうろを置いた。
「女将さんから、朝ごはんを食べたと聞きました」
「連絡したんですか」
「心配していたので」
先生は、女の顔を見てから、畑へ視線を戻した。
「昨日は、かなり疲れているようでした」
「仕事で、少し」
「食事は」
「昨日は、昼から食べていませんでした」
先生は何も言わなかった。
先生は、女の顔色を見てから、畑の隅へ目をやった。
そこに置いてあった大根を一本抜き、土を払う。
「帰る前に、これを持っていきますか」
女は大根を見た。
「いいんですか」
「食べるものなので」
その言い方が先生らしくて、女は口元をゆるめた。
「先生」
先生は、困ったように眉を寄せる。
「昨日もそう呼ばれましたが」
「高校三年の時、塾で数学を教わっていました」
先生の顔が、少し動いた。
「塾で」
「私は進路が決まらなくて。先生が、私の描いた家の絵を見て、建築をやってみたらどうですかって」
先生は畑の芽を見たまま言った。
「そんなことを、言いましたか」
「言いました」
女は、今度は泣かなかった。
「だから、建築の学校へ行きました」
遠くで、始発の電車が走り出す。
ガタン、ゴトン。
「あの。まだ名乗っていませんでした」
先生が顔を上げる。
「茜です」
先生は少し間を置いた。
「茜さん」
名前を呼ばれただけで、九年分の朝が少し変わった。
「この家、先生が設計したんですか」
「一応は」
茜は少し笑った。
「また、見せてください」
先生は、すぐには答えなかった。
やがて、小さくうなずいた。
「はい」
茜は、もう一度だけ窓の位置と屋根の低さを見た。朝の光を受けた五坪の家は、思っていたより小さく、思っていたより遠かった。
「次の電車で、戻ります」
茜は言った。
先生はうなずいた。
「気をつけて」
茜は坂を下りた。駅へ向かう道の途中で、何度も振り返りそうになったが、振り返らなかった。
丘の上では、先生が抜いた大根を台所へ運んでいた。いつもなら、朝の仕事へ戻るだけの時間だった。けれどその日は、空いた椅子が一脚あることに気づいた。
誰かが座ったわけではない。
それでも、家の中に残った気配を、すぐには片づけられなかった。




