茜色の町
丘の上の桜が、夕方の風に揺れていた。
小さな家の屋上に立つと、海までの町がよく見えた。屋根が並び、その向こうで、夕陽が海へゆっくり沈んでいく。
ここから見える夕陽は、町で一番だと思っている。
根拠はない。
ただ、毎日見ても飽きなかった。
斜面の桜の向こうを、電車が走っていく。少し遅れて、音だけが丘まで届いた。
ガタン、ゴトン。
男は屋上の手すりから手を離した。
家の中には、必要なものしかない。小さな台所と、寝る場所と、風呂。窓際には湯のみが一つ置かれている。
一人で暮らすには、それで足りた。
朝、畑から抜いてきた大根が、台所の隅に二本ある。洗濯物はもう取り込んだ。明日の朝に食べる米も、炊飯器にセットしてある。
暮らしは、だいたい同じ形をしていた。
同じ形なら、間違えずに済む。
仕事をしていた頃は、予定表の空白が怖かった。空白には、誰かの頼みや急な変更や、返事をしなければならない電話が入り込んできた。今は、朝に水をやり、夕方に戸を閉める。その間に何も起きないことが、男にはありがたかった。
戸を閉め、丘を下りる。
夕飯の時間だった。
*
轟屋の引き戸を開けると、醤油と煮物の匂いがした。
カウンターの奥で、女将が鍋をのぞいている。
「先生、今日は少し遅かったね」
「桜を見ていました」
「毎日見てるのに?」
「毎日違うので」
女将は、ふうん、と笑った。
いつもの端の席に座る。隣では、にしさんが焼酎の水割りを飲んでいた。向かいのままさんは、すでに頬が赤い。
男の前には、何も言わなくても湯のみが置かれる。酒は飲まない。誰も理由を聞かない。
「先生は花見もしないで、丘で一人かい」
「しましたよ。一人で」
「それを花見と言うかねえ」
ままさんが笑う。にしさんは何も言わず、湯のみを置いた。
女将が小鉢を二つ出してくる。たけのこの土佐煮と、わかめのおひたしだった。
「今日は、これ」
「いただきます」
たけのこはやわらかく、少し甘かった。わかめには生姜がきいている。
「うまいですね」
「先生がそれを言うと、主人が喜ぶんだよ」
厨房の奥で、主人の背中が少しだけ動いた。
男はもう一口、たけのこを食べた。
「今日はアジもいいよ」
女将が言った。
「では、お願いします」
「最初からそう言えばいいのに。先生は遠慮しすぎ」
「遠慮しているわけでは」
「毎日、同じものを頼む人が言ってもねえ」
ままさんが、空になったグラスを差し出した。
「女将、もう一杯」
「ままさんは、今日はここまで」
「まだ一杯しか飲んでないよ」
「その一杯が大きいの」
笑い声が、店の小さな天井へ上がっていった。
外で、誰かが走る足音がした。
*
駅の反対側に、一人の女が立っていた。
パンプスのかかとが、石畳に細く鳴る。仕事帰りらしいスーツ姿で、大きなトートバッグの口から図面の筒がのぞいていた。
女は、町の向こうへ行く男の背中を見つけた。
足が止まる。
肩のあたり。歩き方。少しだけ猫背の背中。
あり得ないと思った。
けれど、目を離せなかった。
「……先生」
声は、届かなかった。
男は角を曲がった。
女は走り出した。パンプスが石に滑り、危うく転びそうになる。曲がり角を抜けた時には、もう背中はなかった。
息を整える間もなく、女は周りを見回した。
海の方へ続く道。商店の並ぶ通り。丘へ上がる細い坂道。
どこへ行ったのか、わからない。
女は商店街を歩いた。閉まりかけた八百屋の前で、店じまいをしていた老女に声をかける。
「すみません。眼鏡をかけた男の人を見ませんでしたか」
「先生のことかい?」
また、その呼び名だった。
「たぶん……そうです」
「さあねえ。夕方なら、駅の方へ下りるんじゃないかね」
礼を言って、女は坂を戻った。
胸のあたりが苦しい。走ったせいだけではなかった。
九年前、高校三年だった自分の前で、あの人は黒板に数式を書いていた。
進路が決まらず、教室の隅で黙っていた自分に、何気なく声をかけた。
その一言で、建築をやろうと思った。
あの時の先生にとっては、きっと何でもないことだった。
それでも、女には違った。
あの日から、会えないまま九年が過ぎた。
忙しくなるほど、思い出すことは減った。それでも、進路を聞かれるたび、あの教室の窓と、黒板の白い粉を思い出した。
今日、仕事でたまたまこの町へ来た。頼まれた書類を届けるだけの、半日もかからない仕事だった。
昼に買ったパンは、トートバッグの底でつぶれていた。食べることも忘れて、女は町を歩き続けていた。見つけたら何を言うのか、それさえ決められないまま、足だけが先へ進んだ。
帰れば、またいつもの現場が待っている。
だからこそ、見間違いのまま帰ることはできなかった。
駅前の魚屋にいた男へ、女はたずねた。
「すみません。今、こちらへ歩いていった男の人を見ませんでしたか」
「どんな男だい」
「三十歳くらいで、背が高くて。眼鏡をかけていて……」
言いながら、記憶と目の前の背中が重なっていく。
魚屋の男は、すぐにうなずいた。
「先生か。だったら轟屋じゃないか」
「先生……」
「駅前の飲み屋。ほら、あの提灯の店」
女は礼を言い、また走った。
提灯の灯りが見えた時、女は一度だけ立ち止まった。
戸を開けた先に、あの人がいなかったらどうしようと思った。
それでも、手はもう引き戸に触れていた。
*
轟屋では、主人がアジの開きを焼き始めていた。
脂の落ちる音が、小さく聞こえる。
「先生、今年は畑、何を植えるんだい」
ままさんが言った。
「まだ決めていません」
「また変な野菜じゃないだろうね」
「変な野菜は植えていません」
「去年の、白いナスは何だったのさ」
「白ナスです」
「だから、変な野菜だよ」
女将が吹き出した。
その時、引き戸が勢いよく開いた。
店の空気が、一度止まった。
入口に、女が立っていた。
肩で息をしている。頬に髪が張りついていた。トートバッグを握る手が、小さく震えている。
女の目が、カウンターの端で止まった。
男も、箸を持つ手を止めた。
女は口を開いた。
声が出ない。
何度か息を吸ってから、やっと言った。
「……先生」
男は女を見た。
泣くのをこらえているような顔だった。
けれど、思い出せない。
「あの……失礼ですが、どちら様でしょうか」
女の唇が震えた。
笑おうとしたのかもしれない。
次の瞬間、体が傾いた。
「ちょっと!」
女将が駆け寄るより早く、近くにいたにしさんが受け止めた。図面の筒が床に落ちて、からんと転がる。
「おい、大丈夫か」
「水、持ってきて」
「救急車か?」
店の中が急に騒がしくなった。
男は立ち上がったまま、女を見ていた。
知らないはずの顔だった。
けれど、胸の奥に、何かが引っかかる。
主人が焼いていたアジは、まだ網の上にあった。
いつもと変わらないはずの夕飯は、まだ一口も食べていなかった。




