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茜色の家  作者: 大神みや
丘の上の小さな家

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1/19

茜色の町

丘の上の桜が、夕方の風に揺れていた。


小さな家の屋上に立つと、海までの町がよく見えた。屋根が並び、その向こうで、夕陽が海へゆっくり沈んでいく。


ここから見える夕陽は、町で一番だと思っている。


根拠はない。


ただ、毎日見ても飽きなかった。


斜面の桜の向こうを、電車が走っていく。少し遅れて、音だけが丘まで届いた。


ガタン、ゴトン。


男は屋上の手すりから手を離した。


家の中には、必要なものしかない。小さな台所と、寝る場所と、風呂。窓際には湯のみが一つ置かれている。


一人で暮らすには、それで足りた。


朝、畑から抜いてきた大根が、台所の隅に二本ある。洗濯物はもう取り込んだ。明日の朝に食べる米も、炊飯器にセットしてある。


暮らしは、だいたい同じ形をしていた。


同じ形なら、間違えずに済む。


仕事をしていた頃は、予定表の空白が怖かった。空白には、誰かの頼みや急な変更や、返事をしなければならない電話が入り込んできた。今は、朝に水をやり、夕方に戸を閉める。その間に何も起きないことが、男にはありがたかった。


戸を閉め、丘を下りる。


夕飯の時間だった。


*


轟屋の引き戸を開けると、醤油と煮物の匂いがした。


カウンターの奥で、女将が鍋をのぞいている。


「先生、今日は少し遅かったね」


「桜を見ていました」


「毎日見てるのに?」


「毎日違うので」


女将は、ふうん、と笑った。


いつもの端の席に座る。隣では、にしさんが焼酎の水割りを飲んでいた。向かいのままさんは、すでに頬が赤い。


男の前には、何も言わなくても湯のみが置かれる。酒は飲まない。誰も理由を聞かない。


「先生は花見もしないで、丘で一人かい」


「しましたよ。一人で」


「それを花見と言うかねえ」


ままさんが笑う。にしさんは何も言わず、湯のみを置いた。


女将が小鉢を二つ出してくる。たけのこの土佐煮と、わかめのおひたしだった。


「今日は、これ」


「いただきます」


たけのこはやわらかく、少し甘かった。わかめには生姜がきいている。


「うまいですね」


「先生がそれを言うと、主人が喜ぶんだよ」


厨房の奥で、主人の背中が少しだけ動いた。


男はもう一口、たけのこを食べた。


「今日はアジもいいよ」


女将が言った。


「では、お願いします」


「最初からそう言えばいいのに。先生は遠慮しすぎ」


「遠慮しているわけでは」


「毎日、同じものを頼む人が言ってもねえ」


ままさんが、空になったグラスを差し出した。


「女将、もう一杯」


「ままさんは、今日はここまで」


「まだ一杯しか飲んでないよ」


「その一杯が大きいの」


笑い声が、店の小さな天井へ上がっていった。


外で、誰かが走る足音がした。


*


駅の反対側に、一人の女が立っていた。


パンプスのかかとが、石畳に細く鳴る。仕事帰りらしいスーツ姿で、大きなトートバッグの口から図面の筒がのぞいていた。


女は、町の向こうへ行く男の背中を見つけた。


足が止まる。


肩のあたり。歩き方。少しだけ猫背の背中。


あり得ないと思った。


けれど、目を離せなかった。


「……先生」


声は、届かなかった。


男は角を曲がった。


女は走り出した。パンプスが石に滑り、危うく転びそうになる。曲がり角を抜けた時には、もう背中はなかった。


息を整える間もなく、女は周りを見回した。


海の方へ続く道。商店の並ぶ通り。丘へ上がる細い坂道。


どこへ行ったのか、わからない。


女は商店街を歩いた。閉まりかけた八百屋の前で、店じまいをしていた老女に声をかける。


「すみません。眼鏡をかけた男の人を見ませんでしたか」


「先生のことかい?」


また、その呼び名だった。


「たぶん……そうです」


「さあねえ。夕方なら、駅の方へ下りるんじゃないかね」


礼を言って、女は坂を戻った。


胸のあたりが苦しい。走ったせいだけではなかった。


九年前、高校三年だった自分の前で、あの人は黒板に数式を書いていた。


進路が決まらず、教室の隅で黙っていた自分に、何気なく声をかけた。


その一言で、建築をやろうと思った。


あの時の先生にとっては、きっと何でもないことだった。


それでも、女には違った。


あの日から、会えないまま九年が過ぎた。


忙しくなるほど、思い出すことは減った。それでも、進路を聞かれるたび、あの教室の窓と、黒板の白い粉を思い出した。


今日、仕事でたまたまこの町へ来た。頼まれた書類を届けるだけの、半日もかからない仕事だった。


昼に買ったパンは、トートバッグの底でつぶれていた。食べることも忘れて、女は町を歩き続けていた。見つけたら何を言うのか、それさえ決められないまま、足だけが先へ進んだ。


帰れば、またいつもの現場が待っている。


だからこそ、見間違いのまま帰ることはできなかった。


駅前の魚屋にいた男へ、女はたずねた。


「すみません。今、こちらへ歩いていった男の人を見ませんでしたか」


「どんな男だい」


「三十歳くらいで、背が高くて。眼鏡をかけていて……」


言いながら、記憶と目の前の背中が重なっていく。


魚屋の男は、すぐにうなずいた。


「先生か。だったら轟屋じゃないか」


「先生……」


「駅前の飲み屋。ほら、あの提灯の店」


女は礼を言い、また走った。


提灯の灯りが見えた時、女は一度だけ立ち止まった。


戸を開けた先に、あの人がいなかったらどうしようと思った。


それでも、手はもう引き戸に触れていた。


*


轟屋では、主人がアジの開きを焼き始めていた。


脂の落ちる音が、小さく聞こえる。


「先生、今年は畑、何を植えるんだい」


ままさんが言った。


「まだ決めていません」


「また変な野菜じゃないだろうね」


「変な野菜は植えていません」


「去年の、白いナスは何だったのさ」


「白ナスです」


「だから、変な野菜だよ」


女将が吹き出した。


その時、引き戸が勢いよく開いた。


店の空気が、一度止まった。


入口に、女が立っていた。


肩で息をしている。頬に髪が張りついていた。トートバッグを握る手が、小さく震えている。


女の目が、カウンターの端で止まった。


男も、箸を持つ手を止めた。


女は口を開いた。


声が出ない。


何度か息を吸ってから、やっと言った。


「……先生」


男は女を見た。


泣くのをこらえているような顔だった。


けれど、思い出せない。


「あの……失礼ですが、どちら様でしょうか」


女の唇が震えた。


笑おうとしたのかもしれない。


次の瞬間、体が傾いた。


「ちょっと!」


女将が駆け寄るより早く、近くにいたにしさんが受け止めた。図面の筒が床に落ちて、からんと転がる。


「おい、大丈夫か」


「水、持ってきて」


「救急車か?」


店の中が急に騒がしくなった。


男は立ち上がったまま、女を見ていた。


知らないはずの顔だった。


けれど、胸の奥に、何かが引っかかる。


主人が焼いていたアジは、まだ網の上にあった。


いつもと変わらないはずの夕飯は、まだ一口も食べていなかった。

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