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茜色の家  作者: 大神みや
丘の上の小さな家

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7/19

重い荷物

梅雨に入る前の夕方は、空が長く明るかった。


轟屋の厨房では、女将が春キャベツを刻んでいる。


「先生のところへ、これを持っていってくれる?」


茜の前に置かれたのは、大きな紙袋だった。


中には、キャベツの浅漬けと、煮魚の入った容器。それから、店で使う醤油の予備が一本入っている。


「醤油もですか」


「先生がこの前、買い忘れたって言ってたから」


「重いですね」


「坂があるからねえ」


女将は悪びれずに笑った。


茜は紙袋を持ち上げた。


「行ってきます」


*


坂の半分まで来たところで、茜は立ち止まった。


紙袋の持ち手が、指へ食い込む。醤油の瓶は、見た目よりずっと重い。


休めばいいと思うのに、休むと負けたような気がした。


坂の上から、先生が下りてきた。


畑で使っていたらしい軍手を、片方の手に持っている。


「こんにちは」


「こんにちは」


先生は紙袋を見て、すぐに近づいた。


「それは、僕のですか」


「女将さんからです」


「持ちます」


「大丈夫です」


「重そうです」


「大丈夫です」


茜は、少し強く言った。


先生の手が止まる。


「すみません」


茜は紙袋を持ち直した。


「自分で運ぶって言ったので」


「誰に」


「女将さんに」


先生は、茜の顔を見た。


「女将さんは、誰かに手伝ってもらってはいけないと言いましたか」


「言ってません」


「では、半分持ちましょう」


「前も半分でした」


「前より重そうなので」


茜は笑いそうになった。


けれど、指は痛かった。


「醤油だけ、お願いします」


先生は紙袋から瓶を出した。重さが抜けると、腕が急に軽くなる。


二人で、また坂を上り始めた。


坂を急ぐと、紙袋の中で容器が小さく鳴った。茜は歩幅を抑えた。自分が遅いと思われたくない気持ちと、無理をすると中身をこぼすという現実の間で、少しだけ迷った。


「女将さんは、先生に何でも届けるんですか」


「忘れ物が多いので」


「先生が?」


「醤油や、電池や、洗剤です」


「生活に必要なものばかりですね」


「必要なのに、買うのを忘れます」


「会社にいた頃」


茜が言った。


先生は、前を向いたまま待っている。


「重い物を持つことは、平気だったんです」


現場では、材料も道具も運んだ。女だからと止められるのが嫌で、男の人より先に持ったこともある。


「平気だと言い続けていたら、本当に平気だと思われました」


先生は、少しだけ歩く速さを落とした。


「頼まれた図面を描いても、会議では別の人が説明して。何か言うと、面倒な人みたいに言われて」


茜は笑った。


笑ったつもりだった。


「それでも、建築は好きだったから。辞める方が逃げるみたいで」


先生は何も言わない。


坂道に、二人の足音だけが続く。


「九年前も、私、似たような顔をしていたんだと思います」


先生が、こちらを見た。


「塾で?」


「はい。進路が決まらなくて。何を選んでも、どうせ途中でだめになると思っていました」


茜は、濡れ始めた坂道を見た。


「その時、先生が言ったんです」


先生は、少し眉を寄せた。


「何と」


「重い荷物を背負っていたら、遠くへは行けないって」


遠くで、風が木の葉を揺らした。


「なるべく身軽になった方がいいって。勉強の話をしていたのかもしれませんけど」


「たぶん、そうでしょうね」


「私は、違うふうに聞きました」


茜は、先生を見た。


「苦手なことや、できないことまで、全部一人で持たなくていいんだって」


先生は足を止めた。


丘の下では、町の屋根が薄い雲の下に並んでいる。


「そんなに、いいことを言いましたか」


「言いました」


「覚えていないのが、申し訳ないです」


「また謝る」


茜の声に、先生は目を伏せた。


「すみません」


「それです」


茜は、少しだけ笑った。


先生も、困ったように笑う。


*


家に着くと、先生は醤油を台所へ置いた。


茜は紙袋から浅漬けと煮魚を出す。


「女将さん、煮魚まで」


「先生、今日は轟屋に来ないんですか」


「畑の作業が長引いてしまって」


「じゃあ、これで夕飯ですね」


「そうなります」


茜は容器を並べながら、ふと手を止めた。


「ご飯はありますか」


「炊いてあります」


「よかった」


先生は、棚から湯のみを二つ出した。


「お茶を飲んでいきますか」


茜は、一瞬ためらった。


女将にも、届けたら戻ると言ってある。


けれど、外では雨が降り始めていた。


「少しだけ」


先生はお湯を沸かした。


小さな家に、湯の音がする。


茜は、壁際の棚を見ていた。前に見た時より、何かが増えたわけではない。それでも、今日は少し居心地が違う。


先生が湯のみを置く。


「会社を辞めたことは、逃げではないと思います」


茜の手が止まった。


「急に、どうして」


「さっきの話です」


先生は自分の湯のみを見ている。


「荷物を下ろすことは、逃げることとは違うので」


茜は、湯のみの湯気を見た。


胸の奥にあったものが、少しだけほどける。


「先生は、荷物を下ろせたんですか」


聞いてから、茜はしまったと思った。


先生の表情が、わずかに固くなる。


「……まだ、よくわかりません」


それだけ言って、先生はお茶を飲んだ。


茜も、それ以上は聞かなかった。


窓の外で、雨が屋根を叩いていた。


先生は、しばらくその音を聞いていた。


「茜さんも、無理にここへ来なくていいです」


「え」


「惣菜を届けるなら、女将さんに頼めば済みます。夕飯なら、轟屋で食べられますから」


先生は、茜の顔を見ないまま続けた。


「仕事を始めたばかりで、疲れているでしょう。坂を上ってくる時間があるなら、休んだ方がいいと思います」


茜は、湯のみを両手で包んだ。


先生の言っていることは、たぶん正しい。


自分のために、家へ来なくていいと言っている。困らせたくないだけなのだろう。


それでも、胸の奥に冷たいものが落ちた。


「そうですね」


茜は言った。


「明日からは、届けるだけにします」


先生は、ようやく顔を上げた。


「いや、そういう意味では」


「大丈夫です」


茜は笑った。


「私も、轟屋の仕事を覚えないといけないので」


先生は何か言おうとしたが、言葉を選ぶうちに黙った。


雨の音だけが、二人の間に残った。


帰る時、先生は玄関まで見送った。


茜は坂を下りながら、手のひらを見た。


紙袋の跡は、もう消えていた。


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