重い荷物
梅雨に入る前の夕方は、空が長く明るかった。
轟屋の厨房では、女将が春キャベツを刻んでいる。
「先生のところへ、これを持っていってくれる?」
茜の前に置かれたのは、大きな紙袋だった。
中には、キャベツの浅漬けと、煮魚の入った容器。それから、店で使う醤油の予備が一本入っている。
「醤油もですか」
「先生がこの前、買い忘れたって言ってたから」
「重いですね」
「坂があるからねえ」
女将は悪びれずに笑った。
茜は紙袋を持ち上げた。
「行ってきます」
*
坂の半分まで来たところで、茜は立ち止まった。
紙袋の持ち手が、指へ食い込む。醤油の瓶は、見た目よりずっと重い。
休めばいいと思うのに、休むと負けたような気がした。
坂の上から、先生が下りてきた。
畑で使っていたらしい軍手を、片方の手に持っている。
「こんにちは」
「こんにちは」
先生は紙袋を見て、すぐに近づいた。
「それは、僕のですか」
「女将さんからです」
「持ちます」
「大丈夫です」
「重そうです」
「大丈夫です」
茜は、少し強く言った。
先生の手が止まる。
「すみません」
茜は紙袋を持ち直した。
「自分で運ぶって言ったので」
「誰に」
「女将さんに」
先生は、茜の顔を見た。
「女将さんは、誰かに手伝ってもらってはいけないと言いましたか」
「言ってません」
「では、半分持ちましょう」
「前も半分でした」
「前より重そうなので」
茜は笑いそうになった。
けれど、指は痛かった。
「醤油だけ、お願いします」
先生は紙袋から瓶を出した。重さが抜けると、腕が急に軽くなる。
二人で、また坂を上り始めた。
坂を急ぐと、紙袋の中で容器が小さく鳴った。茜は歩幅を抑えた。自分が遅いと思われたくない気持ちと、無理をすると中身をこぼすという現実の間で、少しだけ迷った。
「女将さんは、先生に何でも届けるんですか」
「忘れ物が多いので」
「先生が?」
「醤油や、電池や、洗剤です」
「生活に必要なものばかりですね」
「必要なのに、買うのを忘れます」
「会社にいた頃」
茜が言った。
先生は、前を向いたまま待っている。
「重い物を持つことは、平気だったんです」
現場では、材料も道具も運んだ。女だからと止められるのが嫌で、男の人より先に持ったこともある。
「平気だと言い続けていたら、本当に平気だと思われました」
先生は、少しだけ歩く速さを落とした。
「頼まれた図面を描いても、会議では別の人が説明して。何か言うと、面倒な人みたいに言われて」
茜は笑った。
笑ったつもりだった。
「それでも、建築は好きだったから。辞める方が逃げるみたいで」
先生は何も言わない。
坂道に、二人の足音だけが続く。
「九年前も、私、似たような顔をしていたんだと思います」
先生が、こちらを見た。
「塾で?」
「はい。進路が決まらなくて。何を選んでも、どうせ途中でだめになると思っていました」
茜は、濡れ始めた坂道を見た。
「その時、先生が言ったんです」
先生は、少し眉を寄せた。
「何と」
「重い荷物を背負っていたら、遠くへは行けないって」
遠くで、風が木の葉を揺らした。
「なるべく身軽になった方がいいって。勉強の話をしていたのかもしれませんけど」
「たぶん、そうでしょうね」
「私は、違うふうに聞きました」
茜は、先生を見た。
「苦手なことや、できないことまで、全部一人で持たなくていいんだって」
先生は足を止めた。
丘の下では、町の屋根が薄い雲の下に並んでいる。
「そんなに、いいことを言いましたか」
「言いました」
「覚えていないのが、申し訳ないです」
「また謝る」
茜の声に、先生は目を伏せた。
「すみません」
「それです」
茜は、少しだけ笑った。
先生も、困ったように笑う。
*
家に着くと、先生は醤油を台所へ置いた。
茜は紙袋から浅漬けと煮魚を出す。
「女将さん、煮魚まで」
「先生、今日は轟屋に来ないんですか」
「畑の作業が長引いてしまって」
「じゃあ、これで夕飯ですね」
「そうなります」
茜は容器を並べながら、ふと手を止めた。
「ご飯はありますか」
「炊いてあります」
「よかった」
先生は、棚から湯のみを二つ出した。
「お茶を飲んでいきますか」
茜は、一瞬ためらった。
女将にも、届けたら戻ると言ってある。
けれど、外では雨が降り始めていた。
「少しだけ」
先生はお湯を沸かした。
小さな家に、湯の音がする。
茜は、壁際の棚を見ていた。前に見た時より、何かが増えたわけではない。それでも、今日は少し居心地が違う。
先生が湯のみを置く。
「会社を辞めたことは、逃げではないと思います」
茜の手が止まった。
「急に、どうして」
「さっきの話です」
先生は自分の湯のみを見ている。
「荷物を下ろすことは、逃げることとは違うので」
茜は、湯のみの湯気を見た。
胸の奥にあったものが、少しだけほどける。
「先生は、荷物を下ろせたんですか」
聞いてから、茜はしまったと思った。
先生の表情が、わずかに固くなる。
「……まだ、よくわかりません」
それだけ言って、先生はお茶を飲んだ。
茜も、それ以上は聞かなかった。
窓の外で、雨が屋根を叩いていた。
先生は、しばらくその音を聞いていた。
「茜さんも、無理にここへ来なくていいです」
「え」
「惣菜を届けるなら、女将さんに頼めば済みます。夕飯なら、轟屋で食べられますから」
先生は、茜の顔を見ないまま続けた。
「仕事を始めたばかりで、疲れているでしょう。坂を上ってくる時間があるなら、休んだ方がいいと思います」
茜は、湯のみを両手で包んだ。
先生の言っていることは、たぶん正しい。
自分のために、家へ来なくていいと言っている。困らせたくないだけなのだろう。
それでも、胸の奥に冷たいものが落ちた。
「そうですね」
茜は言った。
「明日からは、届けるだけにします」
先生は、ようやく顔を上げた。
「いや、そういう意味では」
「大丈夫です」
茜は笑った。
「私も、轟屋の仕事を覚えないといけないので」
先生は何か言おうとしたが、言葉を選ぶうちに黙った。
雨の音だけが、二人の間に残った。
帰る時、先生は玄関まで見送った。
茜は坂を下りながら、手のひらを見た。
紙袋の跡は、もう消えていた。




