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茜色の家  作者: 大神みや
増えたもの

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18/19

五月の節句

五月に入ると、海宮の風は少し強くなった。


港の近くの家にも、丘の上の家にも、鯉のぼりが揚がっている。轟屋の前には、近所の子どもたちが描いた紙の鯉が、ひもの上で揺れていた。


「ここ、結んでいい?」


赤い紙の鯉を持った子が、女将へ訊く。


「いいよ。飛んでいかないように、しっかりね」


茜は子どもたちの隣にしゃがみ、ひもの結び目を一つずつ確かめた。赤、青、黄色。目の位置も、鱗の数も、それぞれ違う。


「この子は、少し下にした方が泳ぐよ」


茜が言うと、子どもはひもの長さを測り直した。


「風が来た時、隣の鯉とぶつからないようにするんですか」


「それもあるし、ひもの重さが一か所に集まらないようにするの」


先生が、店の軒下からひもの端を持ち上げた。


「こちらは、もう少し高くても大丈夫ですか」


「高くすると、下を通る人の頭に当たるかもしれません。子どもたちの目に入る高さで、風の通り道も残したいです」


二人でひもの位置を少しずつ動かした。鯉は屋根の影に入りすぎず、歩道へ垂れ下がることもなくなった。


「泳いでる!」


子どもたちが声を上げた。


にしさんが魚の箱を抱えて通りかかり、足を止める。


「一つ結びじゃ、夕方まで持たねえぞ」


「二つにします」


茜は結び目を二重にした。


「結び方にも、理由があるんですね」


先生が言うと、にしさんは鼻を鳴らした。


「理由のねえ結び方なんざ、ほどけた時に困るだけだ」


それだけ言い、にしさんは店の裏へ消えていった。


*


昼になると、女将が柏餅を盆にのせて出した。白い餅の間から、味噌あんの甘い匂いがする。


「柏の葉は、餅を包むためだけじゃないんだよ。香りも移るし、乾きにくくなる」


「家も、見えないところに理由があるんですね」


茜が言うと、先生は餅を見ながらうなずいた。


「窓の位置も、風の通り道も、使う人には見えないところで働いています」


「先生の新しい部屋も、少しずつ使いやすくなってるんだってねえ」


女将が、茜の方を見た。


「棚の取っ手を直したり、道具を置く場所を決めたりしているだけです」


「それだけ何度も通っているってことだろ」


にしさんが、柏餅の葉を皿の端へ置いた。


茜は返事に困り、餅を一口食べた。味噌あんの塩気が、甘さの後から追いかけてくる。


「仕事の相談があるからです」


「仕事の相談がなくなったら、行かなくなるのかい」


女将が訊いた。


「なくならないと思います。家は、使っているうちに気になるところが出てくるので」


先生は真面目な顔で答えた。


「そうだねえ」


女将はそれ以上からかわず、茜の皿へ柏餅をもう一つ置いた。


にしさんだけが、ため息をついた。


「家の話をしている時の先生は、魚より鈍いな」


「魚の話ですか」


先生が訊く。


「何でもねえ」


店の中に、子どもたちの笑い声が入ってきた。紙の鯉が、風にあおられて軒先を叩いている。


昼過ぎ、風が一度強くなった。ひもの端が金具に引かれ、紙の鯉が同じ方向へ傾く。


「外れないかな」


子どもの一人が心配そうに見上げた。


茜は脚立を借り、結び目の下へ細い布を巻いた。紙が直接ひもに擦れないようにするためだった。


「これで、少し長持ちします」


「紙なのに、長持ちするの?」


「風に当たる場所だから、当たり方をやわらげるの。来年も使えるかもしれないでしょう」


女将が、店の奥から古い箱を出してきた。中には、去年の紙の鯉が何匹か残っている。


「しまう時に、折れないようにしておくんだよ。毎年、少しずつ増えていくからねえ」


茜は箱の中をのぞいた。色の薄くなった鯉も、端の破れを補修した鯉もいる。町の風を何度も受けてきた跡が、紙の一匹ずつに残っていた。


「新しいものだけじゃなくて、去年のものも一緒に泳ぐんですね」


「そうさ。覚えているものがあると、今年の風も分かるからね」


*


午後、子どもたちが一匹の紙の鯉を茜へ差し出した。


緑色の鯉で、片方の目が少しだけ大きい。


「これ、丘の家に飾ってもいいよ」


「私がですか」


「先生の家。窓が新しくなったから、見えるところにして」


先生は、子どもたちと茜を交互に見た。


「飾ってもいいでしょうか」


「もちろんです。せっかく描いてくれたので」


茜が答えると、子どもは嬉しそうにうなずいた。


丘へ向かう途中、先生は紙の鯉を折れないように抱えていた。家に着くと、新しい部屋の窓を開ける。


「窓の近くなら、外からも見えます」


「雨が入ると濡れます」


「では、軒の下にしましょう。風は通りますが、雨は当たりにくいです」


茜は窓から軒の深さを見て、ひもの長さを決めた。先生が椅子を押さえ、茜が結び目を作る。


「一つで大丈夫ですか」


「二つにします。にしさんが、夕方まで持たないと言っていました」


先生は、茜の手元を見ていた。


「その結び方は、覚えておきます」


紙の鯉は、窓の横で小さく揺れた。部屋の中からも、庭の畑からも見える位置だった。


「ここなら、家の中にいる時も風が分かります」


先生が言う。


「風が強ければ、窓を閉める目印にもなります」


「紙の鯉が、家の役に立つんですね」


「飾りにも、役割はあります」


茜は笑った。


先生は、鯉の向きを直した。


「この部屋は、まだ使い方を探しているところです」


「私も、仕事道具の置き場所を考えながら見ています」


「茜さんが使う場所なので、決めてもらえると助かります」


その言い方は自然だった。任せると言われたことが、茜には嬉しかった。


「では、机は窓から少し離して、午前の光が入る壁側に置きましょう。午後は、鯉の影が机に落ちるかもしれません」


「影がある方が、図面は見やすいですか」


「紙が白いので、少し助かります」


先生は、机を置く場所の床へ鉛筆で小さな印をつけた。


「ここなら、通る道も残ります」


二人は、紙の鯉を見上げた。風が吹くたび、緑の身体が窓のそばで揺れている。


*


轟屋へ戻ると、子どもたちが店先へ集まっていた。


「飾れた?」


「軒の下にしました。よく見えますよ」


茜が答えると、子どもたちは顔を見合わせて笑った。


女将が、先生の袖についた細い紙くずを払った。


「丘の家にも、町の風が入るようになったねえ」


「窓は、前から開きます」


先生が答える。


「そういうところだよ」


女将は笑い、茜へ湯のみを渡した。


にしさんが、店先の鯉の結び目を確認する。


「明日の朝、ほどけてたら結び直せ」


「はい」


「先生のところのもな」


先生はうなずいた。


「二人で見ます」


茜はその言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。先生は深い意味を考えた様子もなく、緑の鯉が風に耐えられるかどうかを気にしている。


けれど、町の行事の一匹が丘の家にも飾られた。そのことだけで、家が少し海宮の景色に近づいた気がした。


夕方の風が、紙の鯉を一斉に揺らした。轟屋の前で、子どもたちの描いた鯉が、海の方へ頭を向けて泳いでいる。


茜は湯のみを両手で包み、しばらくその風景を見ていた。

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