五月の節句
五月に入ると、海宮の風は少し強くなった。
港の近くの家にも、丘の上の家にも、鯉のぼりが揚がっている。轟屋の前には、近所の子どもたちが描いた紙の鯉が、ひもの上で揺れていた。
「ここ、結んでいい?」
赤い紙の鯉を持った子が、女将へ訊く。
「いいよ。飛んでいかないように、しっかりね」
茜は子どもたちの隣にしゃがみ、ひもの結び目を一つずつ確かめた。赤、青、黄色。目の位置も、鱗の数も、それぞれ違う。
「この子は、少し下にした方が泳ぐよ」
茜が言うと、子どもはひもの長さを測り直した。
「風が来た時、隣の鯉とぶつからないようにするんですか」
「それもあるし、ひもの重さが一か所に集まらないようにするの」
先生が、店の軒下からひもの端を持ち上げた。
「こちらは、もう少し高くても大丈夫ですか」
「高くすると、下を通る人の頭に当たるかもしれません。子どもたちの目に入る高さで、風の通り道も残したいです」
二人でひもの位置を少しずつ動かした。鯉は屋根の影に入りすぎず、歩道へ垂れ下がることもなくなった。
「泳いでる!」
子どもたちが声を上げた。
にしさんが魚の箱を抱えて通りかかり、足を止める。
「一つ結びじゃ、夕方まで持たねえぞ」
「二つにします」
茜は結び目を二重にした。
「結び方にも、理由があるんですね」
先生が言うと、にしさんは鼻を鳴らした。
「理由のねえ結び方なんざ、ほどけた時に困るだけだ」
それだけ言い、にしさんは店の裏へ消えていった。
*
昼になると、女将が柏餅を盆にのせて出した。白い餅の間から、味噌あんの甘い匂いがする。
「柏の葉は、餅を包むためだけじゃないんだよ。香りも移るし、乾きにくくなる」
「家も、見えないところに理由があるんですね」
茜が言うと、先生は餅を見ながらうなずいた。
「窓の位置も、風の通り道も、使う人には見えないところで働いています」
「先生の新しい部屋も、少しずつ使いやすくなってるんだってねえ」
女将が、茜の方を見た。
「棚の取っ手を直したり、道具を置く場所を決めたりしているだけです」
「それだけ何度も通っているってことだろ」
にしさんが、柏餅の葉を皿の端へ置いた。
茜は返事に困り、餅を一口食べた。味噌あんの塩気が、甘さの後から追いかけてくる。
「仕事の相談があるからです」
「仕事の相談がなくなったら、行かなくなるのかい」
女将が訊いた。
「なくならないと思います。家は、使っているうちに気になるところが出てくるので」
先生は真面目な顔で答えた。
「そうだねえ」
女将はそれ以上からかわず、茜の皿へ柏餅をもう一つ置いた。
にしさんだけが、ため息をついた。
「家の話をしている時の先生は、魚より鈍いな」
「魚の話ですか」
先生が訊く。
「何でもねえ」
店の中に、子どもたちの笑い声が入ってきた。紙の鯉が、風にあおられて軒先を叩いている。
昼過ぎ、風が一度強くなった。ひもの端が金具に引かれ、紙の鯉が同じ方向へ傾く。
「外れないかな」
子どもの一人が心配そうに見上げた。
茜は脚立を借り、結び目の下へ細い布を巻いた。紙が直接ひもに擦れないようにするためだった。
「これで、少し長持ちします」
「紙なのに、長持ちするの?」
「風に当たる場所だから、当たり方をやわらげるの。来年も使えるかもしれないでしょう」
女将が、店の奥から古い箱を出してきた。中には、去年の紙の鯉が何匹か残っている。
「しまう時に、折れないようにしておくんだよ。毎年、少しずつ増えていくからねえ」
茜は箱の中をのぞいた。色の薄くなった鯉も、端の破れを補修した鯉もいる。町の風を何度も受けてきた跡が、紙の一匹ずつに残っていた。
「新しいものだけじゃなくて、去年のものも一緒に泳ぐんですね」
「そうさ。覚えているものがあると、今年の風も分かるからね」
*
午後、子どもたちが一匹の紙の鯉を茜へ差し出した。
緑色の鯉で、片方の目が少しだけ大きい。
「これ、丘の家に飾ってもいいよ」
「私がですか」
「先生の家。窓が新しくなったから、見えるところにして」
先生は、子どもたちと茜を交互に見た。
「飾ってもいいでしょうか」
「もちろんです。せっかく描いてくれたので」
茜が答えると、子どもは嬉しそうにうなずいた。
丘へ向かう途中、先生は紙の鯉を折れないように抱えていた。家に着くと、新しい部屋の窓を開ける。
「窓の近くなら、外からも見えます」
「雨が入ると濡れます」
「では、軒の下にしましょう。風は通りますが、雨は当たりにくいです」
茜は窓から軒の深さを見て、ひもの長さを決めた。先生が椅子を押さえ、茜が結び目を作る。
「一つで大丈夫ですか」
「二つにします。にしさんが、夕方まで持たないと言っていました」
先生は、茜の手元を見ていた。
「その結び方は、覚えておきます」
紙の鯉は、窓の横で小さく揺れた。部屋の中からも、庭の畑からも見える位置だった。
「ここなら、家の中にいる時も風が分かります」
先生が言う。
「風が強ければ、窓を閉める目印にもなります」
「紙の鯉が、家の役に立つんですね」
「飾りにも、役割はあります」
茜は笑った。
先生は、鯉の向きを直した。
「この部屋は、まだ使い方を探しているところです」
「私も、仕事道具の置き場所を考えながら見ています」
「茜さんが使う場所なので、決めてもらえると助かります」
その言い方は自然だった。任せると言われたことが、茜には嬉しかった。
「では、机は窓から少し離して、午前の光が入る壁側に置きましょう。午後は、鯉の影が机に落ちるかもしれません」
「影がある方が、図面は見やすいですか」
「紙が白いので、少し助かります」
先生は、机を置く場所の床へ鉛筆で小さな印をつけた。
「ここなら、通る道も残ります」
二人は、紙の鯉を見上げた。風が吹くたび、緑の身体が窓のそばで揺れている。
*
轟屋へ戻ると、子どもたちが店先へ集まっていた。
「飾れた?」
「軒の下にしました。よく見えますよ」
茜が答えると、子どもたちは顔を見合わせて笑った。
女将が、先生の袖についた細い紙くずを払った。
「丘の家にも、町の風が入るようになったねえ」
「窓は、前から開きます」
先生が答える。
「そういうところだよ」
女将は笑い、茜へ湯のみを渡した。
にしさんが、店先の鯉の結び目を確認する。
「明日の朝、ほどけてたら結び直せ」
「はい」
「先生のところのもな」
先生はうなずいた。
「二人で見ます」
茜はその言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。先生は深い意味を考えた様子もなく、緑の鯉が風に耐えられるかどうかを気にしている。
けれど、町の行事の一匹が丘の家にも飾られた。そのことだけで、家が少し海宮の景色に近づいた気がした。
夕方の風が、紙の鯉を一斉に揺らした。轟屋の前で、子どもたちの描いた鯉が、海の方へ頭を向けて泳いでいる。
茜は湯のみを両手で包み、しばらくその風景を見ていた。




