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茜色の家  作者: 大神みや
増えたもの

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17/19

ブリの季節

四月の終わり、にしさんが大きなブリを轟屋へ持ってきた。


店の裏口に置かれた発泡箱から、海の匂いがする。主人は魚を見て、すぐに包丁を研ぎ始めた。


「刺身と、照り焼き」


女将が言う。


「大根も煮ようか」


茜は大根を洗った。冬の大根より少し水っぽく、切った時の音も軽い。


「春の大根は、煮る時間を短くするんだよ」


「同じ大根でも、季節で違うんですね」


「同じじゃないから、季節があるのさ」


茜は鍋の火を弱めた。先生は今日は轟屋へ来ないと聞いていた。夕方になったら、ブリを届けながら家の様子を見に行くつもりだった。


*


夕方、にしさんはブリの切り身を包んだ紙を一つ、茜へ渡した。


「先生のところへ持ってけ」


「ありがとうございます。いつもすみません」


「今夜、照り焼きにして食べな」


茜は紙包みを受け取った。


「にしさんが届ければ」


「俺は港へ戻る」


言いながら、にしさんは空になった発泡箱を洗っている。


「今夜は一緒に食うんだろ。飯くらい、自分たちで決めろ」


その言い方には、からかう感じがなかった。茜は「行ってきます」とだけ答えた。


*


丘の家では、先生が新しい部屋の窓を拭いていた。


「今日は、轟屋へ来ないと聞いたので」


先生は、新しい部屋の壁際を指した。


「昼に見てもらった棚ですが、取っ手の位置を少し変えた方がいいでしょうか」


茜は図面を開き、壁からの距離を測った。


「この高さなら、座ったままでも手が届きます。棚の下に道具箱を置くなら、もう少し空けておきましょう」


「分かりました。茜さんに聞いてよかったです」


図面を畳んだ時には、外はもう暗くなり始めていた。


「相談していたら、夕飯の時間になりましたね」


茜は紙包みを持ち上げた。


「一緒に食べませんか。照り焼きにしましょう」


先生は少し驚いた。


「今からですか」


「はい。せっかくなので」


茜は言ってから、自分の言葉に少し驚いた。


「では、お願いします」


台所に立つと、茜はブリの包みを開いた。


「今夜、照り焼きにします」


「僕が米を研ぎます」


「水は、二合の線までです」


「分かりました」


先生は米を研ぎ、茜はブリへ生姜をすった。醤油とみりんを量り、砂糖を少し加える。


「もう少しだけ」


「甘くなりませんか」


「照りが出ます」


先生は言われた通りに砂糖を足した。


フライパンに入れると、醤油の匂いが立つ。


「火を弱くしてください」


「今ですか」


「今です」


二人の声が、まだ慣れない台所に重なった。


先生は大根を切った。大きさが少しずつ違う。


「先生、少し大きさが違います」


「すみません」


「煮る時間を変えれば大丈夫です。全部そろっていなくても、食べられます」


「茜さんは、何でも直し方を知っていますね」


「知っているわけではありません。見てから考えます」


その答えに、先生は包丁を置いた。


「それが、建築にも必要ですか」


「たぶん。図面どおりにいかない所を、見ないふりをしないことです」


先生は、鍋の中の大根を見た。


「暮らしも、図面どおりにはいかないでしょうね」


「だから、今日のうちに考えてみるんです」


*


食卓には、ブリの照り焼きと大根の煮物、味噌汁が並んだ。二人分の茶碗には、同じだけご飯が入っている。


「いただきます」


ブリは身が厚く、皮の近くに甘い照りが残っていた。


「おいしいです」


「本当に?」


「照りが出ています」


「砂糖を足したからです」


「そうでした」


食事の途中で、先生は一度だけ箸を止めた。


「いつもの部屋より、音が近いです」


「台所の音ですか」


「はい。食器を置く音や、水の音が聞こえます」


「嫌ですか」


「まだ、慣れていないだけです」


茜は、味噌汁を飲んだ。


「私は、少し安心します。音があると、家に誰かいると分かるので」


先生は、すぐには返事をしなかった。


「そういう違いも、暮らしてみないと分かりませんね」


食後、二人で皿を洗った。茜が洗い、先生が拭く。役割を決めたわけではないのに、自然にそうなった。


二人で片づけると、さっきまでの食卓がすぐに元の形へ戻った。けれど、部屋に残った魚と生姜の匂いは、まだ消えなかった。


「屋上へ上がりますか」


先生が言った。


「夜の景色も、きれいですか」


「昼とは、違います」


*


屋上へ出ると、麓を走る電車の明かりが、細い線になって町を横切った。海は黒く、沖の向こうには、遠い船の灯りがいくつか浮かんでいる。


丘の上は町の明かりから少し離れている。見上げると、雲の切れ間に星が多く見えた。


星の間を見上げていると、昼間の工事の音も、轟屋の包丁の音も、遠い出来事のように思えた。ここだけ時間の流れが少し遅い。


「贅沢ですね」


茜が言った。


「そう思います」


先生は手すりに手を置いた。


「前の暮らしでは、こんな時間はありませんでした」


「忙しかったんですか」


「毎日、余裕がありませんでした。仕事が終わっても、次の日のことを考えていた。静かな場所にいても、頭の中は静かにならなかったです」


遠くで電車が鉄橋を渡る音がした。明かりが一つずつ、丘の下へ消えていく。


「今は、違いますか」


先生は、すぐに答えなかった。


「今は、毎日が楽しいです」


茜は先生の横顔を見た。


「畑を見て、店へ行って、家の細かいところを直す。以前の僕なら、そんな一日を想像もしなかったと思います」


先生は、黒い海の向こうへ目を向けた。


「茜さんが来るようになったことも、その中にあります」


「家に人が来ると、音が増えます。考えることも増えます。でも、それが楽しいんです」


茜の胸の奥が、ゆっくり温かくなった。


「私も、先生の家へ来る理由が増えました」


「仕事の相談ですか」


「それだけでは、ないかもしれません」


言ってから、茜は星の方へ目を向けた。


先生は何も言わなかった。分かったのか、分からなかったのか、横顔からは読み取れない。


夜の海の向こうで、小さな明かりが揺れていた。


しばらくして、茜は階段へ向かった。


「今日は、帰ります」


「はい。送ります」


「坂を下るだけですから」


「では、途中まで」


二人は屋上を下り、玄関の前で立ち止まった。


「ブリ、おいしかったです」


「明日、女将さんに報告してください」


「はい」


茜が坂を下り始めると、先生はしばらく玄関の明かりをつけたまま見送っていた。


丘の上には、星の光と、台所に残った二人分の茶碗があった。

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