ブリの季節
四月の終わり、にしさんが大きなブリを轟屋へ持ってきた。
店の裏口に置かれた発泡箱から、海の匂いがする。主人は魚を見て、すぐに包丁を研ぎ始めた。
「刺身と、照り焼き」
女将が言う。
「大根も煮ようか」
茜は大根を洗った。冬の大根より少し水っぽく、切った時の音も軽い。
「春の大根は、煮る時間を短くするんだよ」
「同じ大根でも、季節で違うんですね」
「同じじゃないから、季節があるのさ」
茜は鍋の火を弱めた。先生は今日は轟屋へ来ないと聞いていた。夕方になったら、ブリを届けながら家の様子を見に行くつもりだった。
*
夕方、にしさんはブリの切り身を包んだ紙を一つ、茜へ渡した。
「先生のところへ持ってけ」
「ありがとうございます。いつもすみません」
「今夜、照り焼きにして食べな」
茜は紙包みを受け取った。
「にしさんが届ければ」
「俺は港へ戻る」
言いながら、にしさんは空になった発泡箱を洗っている。
「今夜は一緒に食うんだろ。飯くらい、自分たちで決めろ」
その言い方には、からかう感じがなかった。茜は「行ってきます」とだけ答えた。
*
丘の家では、先生が新しい部屋の窓を拭いていた。
「今日は、轟屋へ来ないと聞いたので」
先生は、新しい部屋の壁際を指した。
「昼に見てもらった棚ですが、取っ手の位置を少し変えた方がいいでしょうか」
茜は図面を開き、壁からの距離を測った。
「この高さなら、座ったままでも手が届きます。棚の下に道具箱を置くなら、もう少し空けておきましょう」
「分かりました。茜さんに聞いてよかったです」
図面を畳んだ時には、外はもう暗くなり始めていた。
「相談していたら、夕飯の時間になりましたね」
茜は紙包みを持ち上げた。
「一緒に食べませんか。照り焼きにしましょう」
先生は少し驚いた。
「今からですか」
「はい。せっかくなので」
茜は言ってから、自分の言葉に少し驚いた。
「では、お願いします」
台所に立つと、茜はブリの包みを開いた。
「今夜、照り焼きにします」
「僕が米を研ぎます」
「水は、二合の線までです」
「分かりました」
先生は米を研ぎ、茜はブリへ生姜をすった。醤油とみりんを量り、砂糖を少し加える。
「もう少しだけ」
「甘くなりませんか」
「照りが出ます」
先生は言われた通りに砂糖を足した。
フライパンに入れると、醤油の匂いが立つ。
「火を弱くしてください」
「今ですか」
「今です」
二人の声が、まだ慣れない台所に重なった。
先生は大根を切った。大きさが少しずつ違う。
「先生、少し大きさが違います」
「すみません」
「煮る時間を変えれば大丈夫です。全部そろっていなくても、食べられます」
「茜さんは、何でも直し方を知っていますね」
「知っているわけではありません。見てから考えます」
その答えに、先生は包丁を置いた。
「それが、建築にも必要ですか」
「たぶん。図面どおりにいかない所を、見ないふりをしないことです」
先生は、鍋の中の大根を見た。
「暮らしも、図面どおりにはいかないでしょうね」
「だから、今日のうちに考えてみるんです」
*
食卓には、ブリの照り焼きと大根の煮物、味噌汁が並んだ。二人分の茶碗には、同じだけご飯が入っている。
「いただきます」
ブリは身が厚く、皮の近くに甘い照りが残っていた。
「おいしいです」
「本当に?」
「照りが出ています」
「砂糖を足したからです」
「そうでした」
食事の途中で、先生は一度だけ箸を止めた。
「いつもの部屋より、音が近いです」
「台所の音ですか」
「はい。食器を置く音や、水の音が聞こえます」
「嫌ですか」
「まだ、慣れていないだけです」
茜は、味噌汁を飲んだ。
「私は、少し安心します。音があると、家に誰かいると分かるので」
先生は、すぐには返事をしなかった。
「そういう違いも、暮らしてみないと分かりませんね」
食後、二人で皿を洗った。茜が洗い、先生が拭く。役割を決めたわけではないのに、自然にそうなった。
二人で片づけると、さっきまでの食卓がすぐに元の形へ戻った。けれど、部屋に残った魚と生姜の匂いは、まだ消えなかった。
「屋上へ上がりますか」
先生が言った。
「夜の景色も、きれいですか」
「昼とは、違います」
*
屋上へ出ると、麓を走る電車の明かりが、細い線になって町を横切った。海は黒く、沖の向こうには、遠い船の灯りがいくつか浮かんでいる。
丘の上は町の明かりから少し離れている。見上げると、雲の切れ間に星が多く見えた。
星の間を見上げていると、昼間の工事の音も、轟屋の包丁の音も、遠い出来事のように思えた。ここだけ時間の流れが少し遅い。
「贅沢ですね」
茜が言った。
「そう思います」
先生は手すりに手を置いた。
「前の暮らしでは、こんな時間はありませんでした」
「忙しかったんですか」
「毎日、余裕がありませんでした。仕事が終わっても、次の日のことを考えていた。静かな場所にいても、頭の中は静かにならなかったです」
遠くで電車が鉄橋を渡る音がした。明かりが一つずつ、丘の下へ消えていく。
「今は、違いますか」
先生は、すぐに答えなかった。
「今は、毎日が楽しいです」
茜は先生の横顔を見た。
「畑を見て、店へ行って、家の細かいところを直す。以前の僕なら、そんな一日を想像もしなかったと思います」
先生は、黒い海の向こうへ目を向けた。
「茜さんが来るようになったことも、その中にあります」
「家に人が来ると、音が増えます。考えることも増えます。でも、それが楽しいんです」
茜の胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
「私も、先生の家へ来る理由が増えました」
「仕事の相談ですか」
「それだけでは、ないかもしれません」
言ってから、茜は星の方へ目を向けた。
先生は何も言わなかった。分かったのか、分からなかったのか、横顔からは読み取れない。
夜の海の向こうで、小さな明かりが揺れていた。
しばらくして、茜は階段へ向かった。
「今日は、帰ります」
「はい。送ります」
「坂を下るだけですから」
「では、途中まで」
二人は屋上を下り、玄関の前で立ち止まった。
「ブリ、おいしかったです」
「明日、女将さんに報告してください」
「はい」
茜が坂を下り始めると、先生はしばらく玄関の明かりをつけたまま見送っていた。
丘の上には、星の光と、台所に残った二人分の茶碗があった。




